史実というか、伝記①
ロシアがウクライナへの侵攻を始め、第三次世界大戦への危惧が高まっている今日。
忘れられない話がある。
俺は伊豆諸島八丈島で18歳まで育った。
両親、兄、祖母と共に。
今は違うが小さい頃は割と内気な少年だったように思う。
おばあちゃんも賑やかなのはいささか苦手で夜に自宅で度々行われる宴会にもあまり参加していなかった。
とても可愛がって貰った記憶があり、温もりは未だに感じられる。
自分が19歳の頃、齢90を超えたおばあちゃんはこの世を去り、悲痛な面持ちで居ると父が一冊の本を親族に配っている。
祖母の生涯を綴ったものだった。
内容は以下の構成
・八丈島での生い立ち
・祖父との出会い
・サイパン島への渡航、暮らし
・戦争、そして敗北
・捕虜から解放へ 姉との決別
・八丈島へ戻り、老後へ
俺が生まれた時にはおじいちゃんはもういなかった。
酒好きで好奇心の塊の様な人だったとおばあちゃんは言っている。
実際サイパンでも煎餅屋をやったり色んな職業をしていた。
サイパンでトロピカルフルーツでドライフルーツを作って大儲けしようと日本の展示会に向かって
日本の湿気にやられて大赤字を食ったり、なかなかの破天荒さだ。
その後、太平洋戦争が起きる。
授業でしか知らなかった事が身近な体験談として戸惑った。
その時父はまだ生まれてなかったが祖母や叔母、その親族達は気丈に振る舞っていた。
場所は防空壕。
知らせは日本が優勢。
「もう少し待てば必ず援軍が」
ずっとそうしていたが待てど待てど来ず少しずつ脱落していく人。
爆撃とサイレンの音。
後に有名になったサイパンのあの岬から自ら行く人。
防空壕から水を取りに行くと出て行ったきり戻って来れない人。
「もしかして日本は負けているのでは、、」
と誰もが思ってるであろう真理の奥を突く事は許されない絶対的な箝口令。
防空壕の下から遠く聞こえる何やら拡声器での声、当然英語で何を言ってるか聞き取れない。
水を取りに行ける若い男もいなくなり、完全に水分は枯渇。このままでは自分含め幼い子供達ともここで死ぬ事に。幼い子供だけでも救ってくれるのではと一抹の想いを胸に一同は、下山。
銃を持ったアメリカ兵に撃ち殺されるのではという恐怖心に肉体も精神も朽ち果てる状態で投降。
捕虜という形になり、まず少しの水を与えられた。
その時祖母は
「ああ、こうして少しずつ拷問の様に殺されるのだ」
と思った。
しかしこれは後に、枯渇しきった身体に大量の水分を与えると逆に危険だというアメリカ軍のしっかりした証拠があるからだった。
続く