アンチ菩提心論
序論1
ちょっと余計な口出しをさせてもらいます。
「とにかく一息だけだ」
「菩提心が足りないのだ」
このような指導には、私は少し疑問を持っています。
何故なら少林窟門下から悟った人が出ないからです。
これらの言葉は、修行者の努力に一任するものですが、
実に多くの少林窟門下が、この言葉の上で空回転しているように見受けられます。
この言葉の上に乗ってしまうと、最早、抜けることが出来ないのです。
抜けるためには、正しくこの言葉通りに、
菩提心を奮い立てて、決死の覚悟で一息に切り込み、
突破するまで突貫工事をするしかありません。
それは、老尼が、欓隠老師が亡くなられた直後の10日間くらいの間、
昼夜ぶっ通しで死に物狂い(正に文字通り)で只管に突入して、
大悟した時の様子です。
老師はそれを期待して、そのように指導されているのだと思います。
少林窟ではそれ以外有り得ないからです。
しかし、それは、老尼ですら、
欓隠老師遷化という決定的な事件があって初めて可能になったような事態です。
それなのに、現在の行き詰っている修行者に対して、
単に修行者の努力が足りないのだ、と言うのは、不適切なように私は思います。
そのような指導をしても、突破できないからです。
それが、この20年来の何十人、何百人という参禅者の様子です。
(もっとも、たった一人悟った人が出たら、それで万事OKなんですが・・・。)
更に、危険なのは、師学(指導者と修行者)共に、
この「菩提心」の言葉の上に安住してしまって、
指導しているつもり、修行しているつもり、になってしまうことです。
10年も菩提心、菩提心でやって来て、決着がつかなかったら、
何かがおかしいと思っても良いでしょう。
何かが間違っていると思うべきでしょう。
そのように自分自身の修行のあり方そのものを疑うことを
麻痺させてしまうのが、「菩提心」(という言葉)の怖い所です。
何がおかしいのだろう。どこに間違いがあるのだろう。
ここからは、大変危険な道に入ってしまいます。
少林窟の指導とずれてしまうからです。
序論2
少林窟古参の、本気で練って来た人たちに対して
いつか言わねばならぬと思っていました。
いつまでも空回りしているのは、気の毒だからです。
少林窟での参禅を楽しんでいる人は、それで良いのです。
「わが師」や「法友」との人間的な交わりに癒しを求め、
坐禅によって心を静め、楽になって、世間を渡って行くのは、
大いに結構なことです。
しかし、そんなことには満足しない人もいるかもしれない。
「悟り」というものに取り付かれた人もいるかもしれない。
苦しくて、どうにもならない人もいるかもしれない。
そんな人たちには、何かがおかしいんだということに気付いてもらいたい。
一度、空回りを止めて、根底からやり直してもらいたいのです。
ただし、それはとてつもなく難しいことです。
それほど、少林窟の教えは強烈であり、巨大であり、強固なものです。
少々のことでは、微動だにしないでしょう。
また、危険なことでもあります。
二本立てになってしまうと混乱するだけで、収拾がつかなくなるからです。
老師は、そういうのを「オジヤ」と称して、ひどく嫌われます。
だから、私は他の人たちのことは、ちらっと眺めているだけで、
口出しする気はありませんでした。
もちろん、自分自身の修行に精一杯だからです。
ただ、啓拙居士が盛んに水を向けて下さったので、
私の感じていることを少し表現してみる気になった次第です。
対象は、あくまで、真剣に修行して来た少林窟の古参です。
少林窟門下以外の人には、全く何を問題にしているのかすら分からないでしょう。
世の参禅者、修行者と称するような人たちは、
「着眼」ということすら夢にも知らないことだろうと思います。
そんな人たちは論外。
少林窟に参じ始めたばかりの人は、何も問題を感じていないでしょうから、
そのまま突っ込んで行けば良いだけです。
少林窟の古参の人が、
ここまでやって、更にどうすれば良いのか!
どうして決着がつかないのか!
本気になって、この疑問・激憤を老師にぶつけたらどうなるでしょうか?
「菩提心」
返って来るのは、これだけではないでしょうか?
自らの菩提心の問題。
そこにのみ帰着してしまうのではないでしょうか?
そうなると、もはや、出口は無くなってしまいます。
空回りをするしかない。
何故なら、自らの菩提心の問題だ、という答えは「正しい」からです。
文句のつけようがない。
自分が悪いんだから、仕方がない。
とにかく頑張るしかない。
やるしかない。
そして、空回り。
そんな堂々巡りに風穴を開けてみよう。
「菩提心」にダイナマイトを仕掛けてぶっ飛ばしてみよう。
そんな試みが、『アンチ菩提心論』
確信論
私が発心寺で修行した時、1年かかってようやく自分の問題点に気付いた。
それが「確信」だった。
人は、自我を認め、自分というものを作り上げて、
そして、その中で様々なものに執着して行く。
物、金、地位、名誉、人間関係、・・・。
そして、苦しむ。
無常だから、どんなものも、どんなに強固なものも
必ず壊れ、失われる。
だから必ず苦しむ。
そのような苦しみは、
無常なるものを常なるものとし、無いものを有るものとする
転倒した思い込みに起因する。
そのような思い込みを生んでいるのは、「私」だ。
あるいは、そのような思い込みが、「私」そのものだ。
そのような顛倒夢想から離れることを仏教は教えている。
「無我」
古今東西において、これほど激烈な主張はないだろう。
私は、ここに、釈尊の偉大さ、と言うよりは、恐ろしさを感じる。
世俗的なものを切り捨てることは、比較的容易に出来る。
それは、「世俗的なもの」として、認知されていて、
それを切り捨てることは、世俗的なるものよりも
「高尚なもの」として認知されているからだ。
ところが、「法」に関する場合はどうだろうか。
「これが法だ」とつかんでしまったら、
誰がそれを解き放ってくれるだろうか。
そこに、つかんでいる「もの」があり、つかんでいる「私」があることを
誰が指し示して、脱落させてくれるだろうか。
「これが法だ」という確信は、「正しさ」に裏打ちされているから、
巨大であり、強力であり、強固だ。
「一息」、「今」、「事実」、「即今」、「只」、・・・
これらについての「確信」が、修行者を乗っ取り、
修行者の自己となって、居座ることになる。
世俗的なものに執着するのも、「法」に執着するのも
構造的には同じことであり、同じ「私」だ。
そして、「確信している」、「分かっている」というものが
気付くのが難しい「隔て」を生む。
「確かにこれで良いんだ!」という確信が、「もの」と「私」を分離してしまう。
そこに「私」が存在してしまう。
「分かっている私」が、そこにいる。
「分かっている私」がいる限り、「隔て」が無くなるはずがない。
最初から「分かれて」しまっているからだ。
そんな修行は、血で血を洗うようなものだ。
「分かった」上で、やっている。
それは、やっているつもりでしかない。
隔たったまま、ずれたまま、空回りしているだけだ。
先ず、そのことに気付けるかどうか、が問題だ。
自らの誤りを認めることができるかどうか。
10年も20年も続けて来た自らの修行は間違っていたと
放棄できるかどうか。
すべてを投げ捨てた時、初めて初心に返ることが出来る。
そこに、本当の「一息」が、既に、在る。
目的論
何のために修行しているのだろうか。
殊更に修行などということをしているのは、どうしてなのだろうか。
生きて行く上での苦しみから逃れたいからか。
「悟り」を得たいからか。
一切の解決を求めているのか。
あるいは、
気持ちが良いからか。
昔、発心寺の原田祖岳老師の逸話を読んだ事がある。
祖岳老師がまだ青年の時、人生に悩んで、仏教界の大御所数名に手紙を書いた。
円覚寺の釈宗演老師(だったと思う)が、その返事の中で、
「そんなことは見性すれば朝飯前で解決する。」
と書いて来られたそうだ。
それが、祖岳老師が本気で坐禅するきっかけになった。
この話で、私は「悟れば全てOKなのだ」ということを
頭に刷り込まれてしまった。
少林窟においても、もちろん
悟るために修行するのだ、
と、目的が明確にされている。
悟った者勝ちだ、とも言われる。
悟るかどうかが決定的な問題になる。
しかし、自分自身の本当の目的は何なのだろうか。
本当に悟ることが目的なのだろうか。
私は、悟れば全てが解決するという話に乗って、
自分自身の問題が棚上げになっていた。
とにかく悟らなければならない、そのためには工夫するしかない、
という短絡的な思考になっていた。
工夫の中で、自ずと自分自身の問題が解決されて来るものなのだが、
それが、ある時点から、すり替えを起こしてしまう。
自分自身の切実な問題を棚上げして、無化してしまって
単に工夫していればよろしい、ということになってしまう。
それは極めて安易な道である。
自分自身の醜さも、愚かさも、卑劣さも
すべて棚上げにされて、
「工夫」という立派な「修行」に全力を上げ、
そのものに成り切ることだけが課題になる。
その安易さの中に浸っていると切実さが無くなる。
工夫というものが、自分の命を懸けるほどの
切実なものになるのは容易なことではないだろう。
工夫の中に自己を隠蔽してはならない。
工夫の中で自己を明らかにして行かなくてはならない。
悟りさえすればOK、という短絡的目的志向では、
悟る時節などあるはずがない。
切実な自分自身の問題、そもそも修行を始めた動機、初発心、
これこそが最も大切なものだ。
この切実さが、修行を推し進める原動力だ。
仏道をならうというは、自己をならうなり。
無常論
無常を観ずる心もまた菩提心なり。
これは、道元禅師の言い分。
しかし、無常を観ずると言っても、
それは他人事に過ぎないのではないか。
無常を観じて、頭燃を救うが如く修行すると言っても、
それはゲームにしかならないのではないか。
本当に自分自身の問題になっているだろうか。
明日、死ぬかもしれない。
それは、全ての人にとって、常に、事実のはずだ。
しかし、もし、明日、死ぬと確定していたら、どうか。
明日、死ぬことが分かっているとしたら、どうか。
今、やっていることと同じことをやっているだろうか。
何か違うことをするのだろうか。
何か後悔することがあるだろうか。
昔の武士や軍人たちは、出陣する前の日にどうしていたのだろうか。
彼らは戦に出るしか道はない。
死ぬことを「覚悟」するしかない。
国のためとか、主君のため、というような理由付けのない
「只死ぬ覚悟」が出来た人は幸いだ。
そのために多くの人が坐ったに違いない。
私たちは、もっと大きな自由の中で、
そして、死が覆い隠された社会の中で、
明日、死ぬかもしれない人生を生きている。
大抵の人が、平均寿命まで生きることを前提に人生設計を立てている。
そのような計画性がないと、真っ当な人生を送れなくなっている感がある。
こんな世の中で、明日死ぬかもしれないことを忘れないでいることは困難だ。
私たちは死ぬべき存在なのだ、ということを覚えておくことは難しい。
それを敢えて思い出すための記号が「無常」だ。
明日死ぬとしたら、
今やっていることと何か違うことをするだろうか。
悟るために必死になって坐るのだろうか。
決死の覚悟で只管を練るのだろうか。
しかし、
それが、明日ではなく、10秒後だったらどうだろうか。
10秒後に死ぬ、としたら、どうするだろうか。
最早、何が出来るだろうか。
何をすると言うのだろうか。
何をする必要があるだろうか。
老後の心配は無い。何故ならもう死ぬからだ。
世界のエネルギー問題も気にしたことは無い。もう死ぬからだ。
家族の行く末を心配してもどうしようもない。もう死ぬからだ。
悟る必要も無い。後、死ぬだけだからだ。
安心もいらない。もう消えるだけだからだ。
実際、「悟っている」暇などない。もう死ぬのだから。
心配したり、後悔したり、何かにすがったりしている暇もない。
死に行く末期の者には、
何かを求める余裕は無く、
何かを求める必要も無く、
何も救いにはならず、
何も必要ではない。
只、死ぬだけだ。
ところが、・・・
驚くなかれ。
ここに求めていたものが、そっくりそのまま現成している。
本当の「只管」が、ここにある。
何も求めることなく、何も必要とせず、
只、このまま、在るだけだ。
翻って見れば、何と多くの余計なものを修行の中に持ち込んでいたことか。
悟りを求めると称する心の中に、何と多くの欲望を持ち込んでいたことか。
ゴチャゴチャの欲望、思惑、期待を抱え込んで、
それで悟ろうなどと、顛倒夢想に他ならない。
無常は菩提心をも打ち砕く。
一切のものを破壊し去り、きれいさっぱり何も残らない。
何ものも留まることなく、何も求めるものもなく、
只、かくの如く在る。
下載の清風、誰にか付与せん。
修道論
只やる。
只管の万里一条鉄。
心境が良かろうが悪かろうが、
何をやっていようが、
一隻眼具していようが、悟っていようが、
そんなことには全く関係なく、
やることは、只やるだけだ。
どこまでも、どこまでも只やるだけだ。
どこまでも只管を練って、熟させて行くだけだ。
ここに問題がある。
老尼の表現によれば、
「目的の只」と「手段の只」と「結果の只」がある。
只に差別は無いが、人に差別があるからだ。
平等究極の只を強調すると、人の差別が無視されてしまう。
そして、ごちゃ混ぜになってしまう。
悟っても、只やるだけだ。
悟った人も只在るだけだ。
修行者も只やるしかない。
どこまで行っても、只しかない。
ここで奇妙なすり替えが起こる。
只を媒介にして、
修行者が悟ったような顔をしなければいけなくなるのだ。
何故なら、悟った人は只在る。
只在るのが修行だ。
修行者は只在らねばならない。
修行者は悟った人のようでなければならない。
悟ったような顔をしていなければ修行者ではない、
となるのだ。
心理的な微妙な問題である。
修行者が悟った人のようでなければならないということは、
問題があってはならないということだ。
苦しんでいたり、悩んでいたり、迷っていたりしていては、
修行者ではない、ということになってしまうのだ。
だから、問題が無いような振りをしなければいけなくなってしまう。
悟ったような顔をしなければいけなくなってしまう。
只やることしか、修行はないのだから、
問題をぶつけて行く先が無い。
問題を棚上げして、
只やっているような振りをして、
悟ったような顔をしているしかない。
修行になるわけが無い。
一枚物の「只管の万里一条鉄」では、
人を悪平等の停滞に陥れる。
自分が問題なのだ。
問題が自分なのだ。
只やっていれば良い、のではない。
良いはずがない。
自分自身が納得できない。
何故なんだ、どうしてなんだ、どうすればいいんだ、
迷い、悲しみ、怒り、嘆き、
その憤するもの、激するものを
只に叩き込む。
分からないものを分からないと言い、
出来ないことを出来ないと言い、
愚かであることを素直に認め、
修行者である自分をはっきりさせよう。
だから、
悟っていなくていいんだ。
絶望論
絶望。
最後は、これだ。
過去を引きずり、未来を当てにしていたら、
どうして、今、ここに落ち着くことが出来るだろうか。
今、ここに落ち着いていないで、どうして修行になるだろうか。
過去に自分が得た心境やら成した業績など何の役にも立たない。
そんなものは人の記憶の中で印象として残っているに過ぎない。
しかし、それにすがろうとしてしまう。
そこに自分の存在価値を認めようとする。
過去で自分を守ろうとする。
泡をかき寄せて、自分の周りに積み上げることで、
城壁を築こうとしているかのようだ。
しかし、今、単でなければ、単ではないのだ。
過去に単であったことは、もう存在しない。
未来に悟ることを期待することは、人を簡単に迷わせる。
何かちょっとした事で、パッと悟るのではないか、と思ってしまう。
徹した時に見性する、と聞けば、
何かそんな事件が起きるのではないかと思ってしまう。
未来に期待する思いが、そっと忍び込む。
未来の時点に特別な時を設定してしまう。
未来の悟りと、悟っていない今が峻別される。
今は、これから悟る今となり、悟っていない今となる。
悟っていない今に落ち着ける訳が無い。
今が、抜ける。
自己の内を見詰めてみれば、
そこには確かなものなど何も無く、
愚かで、小さな私が、恐怖におののいて、
過去にすがり、未来に期待しようとしているに過ぎない。
私は、それだけのものだ。
そんな私に悟りは、無い。
私に悟りはあり得ないのだ、と絶望した時、
悟りからの解放があり得る。
悟っていなくてもいいんだ。
もう悟らなくてもいいんだ。
過去にすがることもなく、未来に期待する何ものもない。
全てを失った者には、今だけが残る。
果てし無く、今だけが在る。
結語
もうちょっと色々言うべきことがあるように思っていたのですが、
なかなか出て来ません。
大したことは何もないんだな、と思いました。
表現してみれば、中身の空虚さ、お粗末さがよく分かります。
それがはっきりと分かれば、それで終わりになります。
全く言葉足らずの稚拙なものしか出来ませんでしたが、
これは、今の私の限界を明示しているものなので、
記念碑として、このまま私のホームページに載せておこうと思っています。
こういうものを書くきっかけを与えて頂いた啓拙居士に深く感謝致します。
2004年10月24日
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