遂翁の法系
田中康一 著 「遂翁の法系」
季刊「禅文化」55号(禅文化研究所発行)
(前略)
文敬無聖(飯田欓隠)老師が一枝軒の印可を受けたのは、瓊巌師に五年ほどおくれた大正七年である。欓隠師の嗣法のことで若干腑に落ちないのは、既に明治三十一年に南天棒師の印記を受けていながら、そしてその十年前の明治二十二年から大正に入ってまで前後約三十年間熱心に師事していながら、何故大正七年になって突然一枝軒師に更めて参じたか、ということである。しかも一枝軒に参じたことは、一枝軒師はもちろん、欓隠師自身も一言半句も語っていない。仮りに現在ある印可書が焼失でもしていたなら、嗣法の事実そのものすら疑問視されるに到ったかも知れないのである。筆者が聞知した範囲では、欓隠老師が筆者の知人に「南天棒は無眼子でナ」と漏らしたということと、老師自身の得た印記だけでなく、法弟岡田自適、中館長風両居士が南天棒から受けた印記まで一緒に焼却した、という話があるだけである。この問題に関して故都築氏は、松本指道師の談をも勘案してこう考証していた。
「欓隠老師は長年南天老師に献身的に随侍し、南天老師も師を、我れに過ぎたる門下とまで激賞して自筆の法系図に法嗣として書き入れたのだが、やがて、南天師が安易に印可を出したり、派手な話題をまきちらしたりするに及んで、ようやく南天師の境涯に疑念を抱き初めた。遂に、大正六年、南天師が児戯に類する逆修大会を修したことで完全にこれに見切りをつけ、印記焼却の挙に出たわけである。それと同時に、隠山、卓州の法系そのものも乱れているとして背を向け、何処かに必ず遂翁の禅が残っているにちがいないと考えて諸方を探した結果、広島に一枝軒老師のあることを突きとめた。しかし一枝軒老師は容易に入門を許可しなかったので、五十六才の欓隠師が庭詰までしてようやく許され、法戦幾十度、遂に印可を受けるに到った」
というのである。現在ではこの考証を是認するより仕方がないが、一つ不審なのは、修業についての話をそちこちに残している欓隠老師が、なぜこの一大事に限って口を緘しているか、ということである。都築氏はこの点を、「元来一枝軒老師は極めて寡黙な方で、門下の出入などに類することは一切語ったことがなかった。その老師との密々の関係だから、師学暗黙の了解となって欓隠老師の口にも遂に一度も上らなかったのだ。欓隠老師が年に一度は必ず恩師の搭を泣拝した、という事実は両師の言句を絶する関係を物語っている」としている。欓隠老師は「良賈は深く蔵して無きが如し」という句を好んで用いた、と聞くが、何かしらこの間の消息に通ずるものがあるように思う。
(中略)
今日刊行されている禅書では、欓隠老師の法嗣は春翁欓文師であり、欓文師が恩師より二年も早く遷化したことによって、欓隠の法のみならず、遂翁の法系そのものまでが絶えたとしているのが普通である。そこに問題があり、この小論もその為に草されたといってよい。ー伊牟田欓文師が勝れた法材であり、少林窟二世として立派な法嗣であったことはまちがいないであろう。ただ欓文師は、欓隠師が大正十一年に出家した後に入門し、曹洞禅を苦修して昭和七年に師の印可を受け、翌八年曹洞宗に出家したことになっている。この経緯からいって、臨済正宗遂翁直系に入れること自体に無理があるのではなかろうか。それなら遂翁正伝は欓隠で終るのか、というと実はそうではない。欓文印可より十二年前の大正九年、即ち、欓隠老師が一枝軒老師の印可を受けた二年後の、いわば臨済師家として気力充実の絶頂に在った時、重離六爻を画いて印可した愛弟子が居たのである。蛮山玄叢(後に寂照)老師がそれである。このことは不思議とあまり知られていないから少しくその為に紙幅を割くことにする。
倉林蛮山老師は明治二十一年埼玉県に生れ(欓隠老師より二十五才年下)、初め円覚寺続灯庵の宮地宗海師について禅の修業をした。その後諸方の禅匠に歴参したが、生来の禅骨であったらしく、覇気の趣くところ「道場破り」の異名をとるに到った。その点、三代前の祖鬼文常に通ずるものがありそうである。たまたま政界の雄大石正巳居士がその非凡な法器を識って禅界の為に悦び、大正七年、師を、自分の崇拝する欓隠老師及び会下の長老岡田自適、中館長風両居士に紹介した。蛮山師は、欓隠師のところに遂翁の禅が来ていると知って勇躍その炉鞴(幽雪注;原文では「鞴」が火偏になっている。おそらくは誤植。)に入り、猛鉗鎚を受けることになったのである。大正七年といえば欓隠師が、一枝軒師の印可を受けたその同じ年である。一方は、峻烈な法を嗣いだばかりの、はち切れそうな気力の師家、他方は若き日の文常を偲ばせる悍馬のような学人、その法戦の凄じさは想像に余りがある。その間の消息について、六年後の大正十三年、蛮山師の境涯を高く評価していた岡田自適居士が、数ヶ月後に迫る己が死期を知りながら、愛する法弟の為に書き置いたものが残っている。蛮山老師の人柄の紹介にもなるので、証書の全文を左に掲げる。
「倉林蛮山居士ハ夙二仏教二志シ教学ノ一般ヲ修メ広ク内外ノ典籍二通シ該博ナル知識ヲ有ス居士又タ久ク直指ノ道ヲ究メ臨済家ノ諸尊二遍参シテ大二得ル所アリ。然レトモ尚未タ十成ナラストナシ距今六年前吾師
欓隠禅師ノ室二参シ法戦幾十回殊二師学機宜相応シ喝電棒雨四隣ヲ震動セリ其間寝食ヲ忘レ昼夜ヲ弁セサルモノ僅カニ九日忽然トシテ大悟徹底シ崖崩レ石裂ル底ノ境地二達ス殊二居士曾て世ノ皮肉裏二撞入シ複雑ナル社会ノ機微二通セルヲ以テ現世ヲ済度スル二最良無比ノ適材タルコトヲ信ス子ハ只タ欓隠会下ノ先輩ナル故ヲ以テ居士ノ境地ヲ証スル者也
別々
莫嫌襟上班々痕
是妾燈前滴涙縫
大正十三年十一月
自適居士
岡田乾児(手型)」
ここに描出された猛法戦の行われたのは、西大久保の中館長風居士邸の二階だったという。それから二年経った大正九年の十一月に既述の印可書が書かれたのである。当時の欓隠・蛮山両師の親子の情はまことに濃やかで、今日残っている書簡にも測々として胸を打つものがある。九年の印可書の二ヵ月前に授与された絡子には、「懸絲之仏法担而在我與爾両肩」と書かれている。それから二年後の十一年に、欓隠老師の曹洞宗出家の問題が起るのだが、この時はしかし、蛮山老師は猛然と出家に反対した。「撃砕世間相似禅、欲布臨済正宗禅」の信念を終生変えなかった師にして見れば、曹洞出家そのものに納得しかねるものがあったのであろう。それにも拘らず師弟の情は最後まで変ることなく、蛮山師は恩師を「オヤジ、オヤジ」と呼んでいて、曾ての 南天棒ー欓隠 のような関係には決してならなかった。
(中略)
師は昭和七年、師子王窟禅堂が初めて本格的な形態になった時、次の開単上堂の偈をものしている。
黄檗山頭除髪去 還開関東大道場
気宇如王胆如海 一喝迅雷震八荒
その、不惜身命の活動があまり世間に知られていないのは、一つには物を書かなかったことと、もう一つは遷化が早過ぎたことのためである。師は「わしは齢五十才にならないうちは物を書かない、自分の境涯はどこまで進むかわからないし、文字にして了うとあとで訂正がきかないからだ」といって、「完成仏法」と名付けた小経典風のもの以外は何も活字にしなかった。そしてその五十才に未だ達しない四十九才で、恩師より一年先に示寂したのである。
昭和十一年九月二日、かねてから頻繁に襲う病魔を精神力で克服しつつ弘法に挺身して来た蛮山老師は、普通なら大したことでない筈の盲腸手術の予後が悪くて、臨床僅かに五日の後遷化した。師の遷化と共に、法嗣一喝古巌老師が獅子王窟二世として法柄をとることになった。
(後略)