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霊松記

これは、平成4年から平成5年に発心寺僧堂に安居した時のメモである。
雪渓老師、66歳の頃。
口宣は、坐禅中に時に応じて禅堂で法を説かれたもの。
独参は、摂心中だけでなく、日々の暁天坐、夜坐でも行われることがあった。
巻頭の写真は、寒行中の雪渓老師である。私が撮影して、発心寺寺報第3号に掲載したもの。(元のカラー写真を発見したので差し替えた)


暁天口宣
「言を承けては須らく宗を得すべし、とある。言葉を聞くと、それは何だろうかと考えてしまう。素直になりなさい、と言われると、素直になろうとする。一体となる、というのは、そういう言葉以前のものであり、次元の違うことだ。
主と従ということがある。自分は今、何のためにここにいるのか、ということをはっきりさせていないと、いたずらに時間が過ぎるだけだ。
そこで、願心、菩提心が大切なのだ。すべてを道に振り向けて行く。」

朝参
「出家した目的を鮮明にさせること。成り切ろうと意識することは必要なことだが、成り切った時には、成り切るというものがない。」
動中は、その時の中心になるところに心を置け、ということについて。
「実際はどうか。」
色々に移り変わっています。
「移り変わるというのはおかしいのではないか。移り変わっていることが分かっているのはおかしいのではないか。
動かない坐禅(一息)の中で行住坐臥して行け。」
僧堂での修行の心得は。
「僧として、最低限の行持は出来るようになること。」

涅槃会口宣
「涅槃とは寂静のこと。寂静とは動静の二相を越えたもの。実相は無相。それを今という。」

夜坐独参
「緩急があるのは仕方がない。それをながめているものがあるのが問題だ。自分の心境をながめるのを『見指の病』という。
何か新しいものを獲得するのだ、と思ったら、不安が出て来るかも知れない。しかし『平常心是道』とある。このありのままが、雑念、妄想のままが、『道』である。
どうしてそうなのか、あるいは、それをどうして肯うことが出来ないのか、ということに疑問を持ってやれば、道が進むだろう。
動中、静中というのは、わかりやすく説明するために分けて言うだけで、一生懸命やることに、動中、静中の区別はない。一生懸命に成り切ってやっている時に、自己はない。」

暁天口宣
「菩提心という言葉はあまり使いたくない。危険だからだ。行き着く先の分からない人が、やりなさいやりなさい、と勧める。学人が分からないと言うと、それは菩提心が足りないからだ、と言う。日本はかつて、大和魂などと言って、突き進んだ結果、戦いに負けた。
人に知られるような修行であってはいけない。ひそかに修するということだ。人と同じように経を読み、作務をしながら、そこに自分を入れない。
生を明らめ死を明らむ、とある。生死とは、生老病死の苦のことだ。その苦を明らめる、とは、苦をなくして楽にすることではない。苦楽を共に越えることだ。

暁天独参
坐禅も作務も一生懸命やっていれば良いですね。
「(首を横に振って)この六根の働きには、一生懸命というものはない。しかし、曹洞宗で言う『そのまま』『ありのまま』という無事禅はだめだ。物に『そのまま』という有り様はない。この六根の働きのままで良いんだ、という法理は押さえた上で、一生懸命やるのだ。無闇に一生懸命やれば良いんだというのではいけない。
坐禅の何に問題を感じていますか。」
徹し切れない、成り切れない。そのために自己を忘じることができない。そういう時も少しはあるが、決定的なものにならない。
「どういう工夫をしていますか。随息観ですか。」
『観』ではありません。このように・・・一息をやるだけです。歩く時は一歩一歩、食事の時は一箸、一噛み。見る時は見るだけ、聞く時は聞くだけ。
「それで良い。ここで言う『尽くす』ということです。」

暁天独参
着眼の確認をお願いします。(手を畳について)ここに確かに『あるもの』がある。これに感触とか肌触りとか、あるいはありのままとか、というレッテルを貼ることができる。しかし、それは、そういう言葉とは一切関わらない事実である。この事実にジッとおれば良いのですね。
「その『事実』というのも、今あなたが言われた感触とか何とかと同じものです。」
ではどうすれば良いのですか。
「『どうすれば良いのか』ということをやめれば良い。以前あなたが言われたように、一息に成り切って行けば良い。呼吸というものは、ずっと以前からやっていた事だ。それを『理』を聞いたことによって意識するようになった。それを元のように意識することがなくなるまで『尽くす』のです。」

夜坐総参
「意識することは、その物から離れていることだが、しかし、それがなければ行にならない。『過程』として必要なことだ。それを修証不二という。
妄想三昧になれば良い。」

独参
独参の仕方について。
「坐堂の延長で来れば良い。何も言うことがなければ、それでも良い。」

夜坐口宣
「本当に自己に参じている久参の人は、結果を求めないようにしなさい。『つとめる』。それだけで良い。」

夜坐独参
今の、この見聞覚知にも、やはり自分というものが立ちはだかっているのでしょうか。
「いいえ。」
では、これに徹して行けば良いのですね。
「そうです。」
それが、どうして徹せないのか。
「ムラがあるからでしょうね。求心のようなものがある。それは自分が一番良く分かっているはずです。やりっ放しにできない。」

行茶口宣
「工夫に対する信仰が足りない。あれをやったり、これをやったりではダメだ。一つだけで良い。一つに徹すれば良い。工夫するしかない。海の水はどこでなめても辛い。」

夜坐独参
(良久)
「そういう状態も離してしまうと良いです。」

夜坐独参
「自分と工夫が離れている。距離がある。本当は一息をしていることなど分かるはずがない。
そうでなければ、力を加えて、加えて行けば、必ずできます。」

夜坐口宣
「徹しない、尽くさない、中途半端だ、と言われて、そうだと思うのは、どこかに求心があるからだ。中途半端等を差別と言う。その差別のまんまが脱落であり、法である。間違えないようにしなさい。親切に、大切に、一呼吸、一呼吸をして下さい。」

暁天口宣
「次々に起きて来る思想(流注)を『善』『悪』に取り分けようとする。坐によって心を静めようとする。静めるだけではなく、それを更に離さなければいけない。しかも静める用もない。」

夜坐総参
「楽になっても、そのことに腰をかけないようにしなさい。工夫というものがあっては坐禅になりません。坐禅は坐禅なり、とあるでしょう。同じように作務は作務なり、です。
『今』は決して知ることはできません。知ることができるのは、過去と未来だけです。」

夜坐口宣
「怒ってはいけません。順境も逆境も脱落の縁です。逃げれば、それだけ自分が損をします。」

摂心行茶口宣
「坐ればよろしい。『ただ』坐るとなると、自分の考えが入っている。結果を求めず、つとめるだけで良い。原因を積んでさえおれば、結果は求めずとも来る。」

独参
(無言)
「無舌人ということがある。よく参究してみて下さい。」

夜坐独参
結局、私にはどうしようもなく、偉くなろう、他に勝ろうという感情が抜けないようだ。
「この大事な時に、何を妄想しているんですか。(とほほ笑まれる)
そういうものがあっても良いです。揀擇しないことです。むしろ、それをバネにして頑張れば良いのです。」

夜坐独参
(無言)
「(良久)」終了。

口宣
「『物がある』『人は死ぬ』というのは、大変な間違いです。『物があるのではない』『人は死ぬのではない』というのが、仏教の根本の根本です。それを実証するのが修行です。」

独参
「道理が分かるのは仕方のないことです。作務をやっていても『これでいいんだ』『これしかないんだ』と事実を反芻してしまう。それも必要のないことだと気付く時が来るが、それまでは仕方がない。
矛盾した言い方だが『道理で道理をすりつぶして行く』のだ。頑張ってやって下さい。」

摂了口宣
「牛を小屋から引っ張り出す。大きな体は出たのに、小さなしっぽだけが、どうしても出ない。
皆こういう状況なのです。この公案のポイントは、小屋の『内と外』ということです。何が内と外を分けているのか。」

夜坐独参
求心をやめるということについて。
「それは求心ではないかも知れないし、顕在的、潜在的、『私』というもの、『幽雪』というもの、あるいは『一息』というもの、そういう何かがあって、混じりっけがあるということです。
一息だけで決まりのつくはずのものですから、一生懸命やってごらんなさい。」

夜坐独参
認めるということについて。
「『認識』そのものになるのです。『認識』と『幽雪』というものが別々になるから、隔てができるのです。」

口宣
「雑念、妄想がなくなって、その結果、悟があるのではない。雑念などがなくなって静まった状態を思い描いているのは、大きな間違い。
ただ『私の考え』を差し挟まなければ良い。雑念、葛藤のままで脱落しているのだから、そのまま、ありつぶれて行けば良い。」

夜坐独参
私の考えを入れないということは、とにもかくにも工夫をする、ということですね。
「そうです。」
工夫をすることによって心が静まる、ということがある。それを禅定と思っていた訳ですが。
「そんなはずはありません。只管にしろ禅定にしろ、それを認めていれば、その認めているものは、只管なり禅定なりの外にいることになります。」
では、ゴチャゴチャしたままでも・・・
「それが『あなた』ですから。それが事実ですから。」

修行に階級をつけていたことについて。
「六根の働きは『即』です。そういう階級などあるはずがありませんね。そのものだけだ、ということです。『一方を証すれば一方は暗し』とは、そのことです。」
雑念について。
「何を対象としての『雑』念か。
二つのものが並び立つことはあり得ないのだから、妄念の時は、それだけだ、ということです。相手にせず邪魔にせず、放っておけば良い。任せておけば良い。任せてと言えば、まだ任せるものがある訳だが、そうやって気がついた時には、また一息、というようにやるのを『熟させる』というのです。
玄沙の『痛い!』という一念も、そのものだけだ、ということです。
坐の調子が良くても悪くても、喜ぶ何ものもなく、悲しむ何ものもない。」

行茶口宣
「修行の要点は『修行はこうやればいいんだ』という確信も『分からない』ということも、すべて離すこと。そして成り切り成り切りしてやること。」

解制略布薩口宣
「懴悔に始まり懴悔に終わる。懴悔は自分を空にすること。そうしないと、自分が残ってしまい、三帰、三聚浄戒がなくなってしまう。戒というのは自分の今の様子のことです。
義衍老師のところにいた時、『このままでいい』と言われるが、それがどうしても肯えない。今やっている事、それしかないことは理としては良く分かる。そうでないと、できる人とできない人が出て来るからだ。しかし、このままで良いと肯えないのは、『私』があるからだ。だから、決して、このままで良いはずはない。一生懸命、工夫して行かなくてはならない。
順境も逆境も、同じように自分を空にする縁です。
規矩はいらない、と言うと『法の立場』に立っていることになる。
何でも良いから、常に気になるもの(工夫)がなければいけない。」

暁天口宣
「眼耳鼻舌身意の働きが『ある』と思っているでしょ。『ある』と認めた上で、そのままにしよう、只やろうとするのは、二重の間違いです。」

方丈に独参
平常心是道の話の中で、『知にも属せず不知にも属せず』とあるのは、『道』というものが、本来ないからではないか。
「そうです。
人の考えの入らない所を『今』と言っている訳ですが、それを仮に道とか法と言っている訳です。道とか法をない、と最初から言ってしまうと、人を導き入れることができないから、後で、捨てさせるしか方法がないんです。
あるとか、ないとかと言うのも、人の考えです。」

夜坐独参
今は知ることはできない、と言うが、この六根の働きは今ではないのか。
「それも人の考えです。」
今とか只とかを『認める』というのは、どういうことか。
「認めるというのは、隔てがある、ということです。主観と客観がある。距離がある。そうでなかったら、認めるということは出来ない。
だからと言って、認めることがいけないと言うのじゃない。そういう風にして、隔てのない所まで云々。」

夜坐口宣
「実相は無相なり。
本当のすがたは、すがたのないことである。それに『ああ、そうだったか』とうなずくこと。そのためには『道』を歩くこと。只管打坐、呼吸。
只管打坐とは、ひたすらに坐ること。坐に親しむこと。隔てをなくすこと。
注意深い日々の生活。」

暁天独参
無相とはどういうことですか。
「畳でも30年もすれば朽ちてしまう。それは30年たったらいきなり朽ちるのではなく、常に変化している、ということだ。そのように、物には決まったすがたはなく、常に変わっているということ。人もまたそうだ。それをまた、時によって、『空』とか『無』とかとも言う。」

暁天口宣
「『すべてが禅だ』という『人の考え』を先に立てると坐が疎かになる。人の考えを立てないで、身口意の坐禅につとめる。」

暁天独参
実相は無相なりと実証する方法は、只管打坐、公案工夫しかない、というのは、何か道理がありますか。
「本当に坐る、ということです。仏祖方がそのようにして『道』を歩かれたということです。それ以外に、自己を忘ずる方法がありますか。」
その『自己を忘ずる』ということは、どうしても必要なことなのですか。
「人の考えを一度離れてみる、ということです。実相は無相だ、ということはどういうことかと考えてみても、やはりそれは人の考えです。
『私』がない、というのはどういう状態か、と考えても、それも考えの内です。
『私』があってもなくても、『考え』というものはあります。しかし、『私』が、考えているのではありません。『考え』だけがある、ということです。」

夜坐独参
先日、飯頭寮当番をして、非常に良い工夫になりました。以後調子が良い。しかし、その調子が良いという意識が拭い去れません。
「良いと言っても、悪いと言っても、意識ですから同じことです。それを拭い去ろうと意識することは、意識に意識を重ねることになります。そういう枝葉を摘むようなことはやめた方が良い。手をつけないで任せておけば良い。
あなたが、ここに来られた時、最初に言われたように、『一息に成り切る』。それもまた意識ではあるが、そういう意識によって意識を忘れるようにするのが、一番の早道です。」

暁天口宣
「禅は自己に参じることです。
その標準を仏祖が示されたのが、只管打坐、公案工夫です。
それを、工夫がうまくいかないとかどうとか、技術的なことばかりを言っている。本当に自分の問題になっていないということでしょ。自己に参じていない。人に言われたことで右往左往しているだけ。言われたからやっているというだけです。」

暁天口宣
「坐禅は只管打坐、公案工夫を『する』ことです。
それに徹することです。それが門に入る第一歩であって、後のことは後のことです。そうでなければ何もしていないことになる。
自分で積んでは壊し、積んでは壊ししているうちに、坐禅の要領が手に入るのであって、それを指導者から教えてもらって、その通りにしようとするから自分の問題にならない。」

暁天口宣
「坐禅は仏行です。
『そのままで良い』『求めるものがあってはならない』というのは、『仏』の側から結果を示したものです。
『私』、『人』としては、そうであってはならない。修行、解脱ということがなければならない。
『そのままで良い』という『理』を先に立てると修行にならない。」

口宣
「何も考えてはいけない、思ってはいけない、と考えながら坐るのは間違いです。何もない空白の状態を自分で作って、それに近づけようとしても、絶対に解脱ということはありません。
出ては消える考えのままにしておきなさい。そのままにして、任せておきなさい。
久参の人で『工夫』という坐禅をしている人は、『坐禅の中で工夫している』のではありません。『工夫そのものが坐禅だ』ということです。間違わないように。」

夜坐独参
とにかく一息だけをやろうと決めました。しかし、公務が増えて、そわそわして落ち着かない感じがする。そういうものも吹き飛ばすように一息だけをやれば良いですか。
「坐禅の力が弱くなると、あれも解決しなきゃいかん、これも解決しなきゃいかん、と問題が増えて来る。坐禅に力があれば、そういう問題は坐禅の中に吸収されてしまうのです。
ところで、『一息』とは何のことを言っているのですか。」
・・・こうやって、吸って吐くだけです。
「それならよろしい。そういうものも忘れてしまうようにすることです。」

夜坐独参
『雪を担って井を埋ずむ』というのは、跡形がない、ということですか。
「バカになってやれ、ということです。跡形がない、と言えば、跡形があるじゃないですか。
今のあなたには、そんな理屈を言っている暇はないはずです。坐堂にいる時はもちろん、独参を待っている時でも、ここへ歩いて来る時でも、四六時中、一息、一息に成り潰れて行くことしかないはずじゃありませんか。」
ワカリマシタ!

暁天口宣
「縁に触れるとすぐに工夫を忘れてしまう、ということは、縁に転ぜられている、ということです。」

夜坐独参
誠にザルで水をすくうが如しです。如何が致しましょうか。
「どうすれば良いか、などと考えずに、水をくみ続ければ良い。水が落ちることなど考えないで、一生懸命、三昧になって、くみ続ければ良い。必ずたまります。」

夜坐口宣
「大梅法常禅師は、山に入ったが道に迷い、出口が分からなくなった僧に、『随流去』と指示された。『流』とは妄想、分別のことです。
出口が分からなくなったら、妄想、分別の事実のままに随っていなさい。」

提唱
「花を見た瞬間には『きれい』とか、そうでないとかという分別、妄想はない。しかし、すぐにそういう考えが起きる。
花を取り除いても、そういう感情は残っている。ということは、問題を起こしているのは、外の物、他者(花)ではなく、自分自身だ、ということです。」

夜坐口宣
「畢竟、どうすれば良いか。
坐禅に成り切ることです。
坐禅とは行住坐臥のことです。」

夜坐独参
単に上がるとすぐにコックンと眠ってしまう状態が続いています。
「それは風邪薬のせいでしょう。それはそれでいいです。揀擇しないことです。病気の時は、病気の時で、『人々分上に豊かに備わっている』ことです。
どのような状態でも、とにかく工夫をして行こうという心を持ち続けていれば良いのですか。
「それはそれの方が良いに決まっています。」
昨日の提唱で気付いたのですが、『どうして坐禅工夫しなくてはならないのか』という点について、今まで曖昧なままにして来たようです。『なぜ』『どうして』ということを問題にすること自体が理屈に走ることだ、という思いがあって、そういうことをタブー視して来たようです。
そこでお尋ねします。どうして坐禅工夫をしなくてはいけないのですか。」
「それは私に聞くことではないでしょう。『初発心』そのものでしょう。出家した目的というのが必ずあるはずです。
やってごらんなさい。必ず目的を達することができます。一息一息とやっていれば良いのです。」

口宣
「畢竟、どうすれば良いか。
簡単です。ある時は只管打坐。ある時は公案工夫。これだけしかありません。
決着がつかないのは、坐り方が足りないからだ、と言わざるを得ません。」

夜坐独参
今まで『分かった』というものがあったことが、つまずきになっていたことに気付きました。
「何が分かったと思っていたのですか。」
一息とはこういうものだ、今の様子とはこういうものだ、工夫はこうするものだ。本当に分かっていたら、それですべてが決着しているはずで、そうでないのは、何も分かっていなかった、ということですね。
「次の病は『分かっていなかった』ということです。
分かる、分からないという人の考えではないところから出て来るものが欲しい訳です。」
分かったというものがあった分だけ、本当にやっていなかった、ということですね。
「分かったという考えの中でやっていたということです。ということは、やっていないということでしょ。」

夜坐総参
自己を忘ずるということと、成り切る、徹するということは、同じことですか。
「同じことです。忘じようとする意識、成り切ろうとする意識、こうしなきゃいかん、こうあるべきだ、という意識。みんな意識の中のことです。自我の迷執と言います。自我なんて、どこを探してもないのに、『ある、ある』と思い込んでいるのです。」
成り切ろう、徹しようとすると、忘じた時の状態に持って行こう、合わせようとする気持ちが、どうしてもあるようです。
「余計な付属物を取って行くことです。単純に『吸う』『吐く』。それだけのことです。ステッキに頼り切る、ということです。」

暁天口宣
「『真を求むることを用いざれ。只須らく見を息むべし』。どうして求めてはいけないのか、と言うと、『今』だからです。それを、自分の外に、遠くに求めてはいけない。」

夜坐総参
大分、単純に一息ができるようになって来ました。
「それは良かったですね。ただ、大覚の上から言うと、『単純』があるだけ余計です。『単』がなくなり、『純』だけとなり、更にその『純』もなくなるようにしてもらいたいのです。」

夜坐口宣
「釈迦でさえ悟ることができた。釈迦は、どうしたら良いのか、困り果てていた。私たちはもっと良い条件にある。自己を忘じさえすれば解脱ができる、という祖師方の教えがある。それにもかかわらず、疑煩悩が出て、どうしても信ずることができない。一見明星までは、釈迦も私たちと全く同じだったのだということが信じられない。」

口宣
「浄潔の病。
静かだ、何もない、という穴蔵に逃げ込んで、ジーッと、そういう状態を見ている。それでは何年やっても、何も起こらない。守りの姿勢。これは間違いである。」

暁天独参
どうもこの頃、またいろいろと疑問に思うことが出て来ました。
「疑問に思う、ということも、すでに結果です。『幽雪さん』が問題を解決しても、その問題を解決した、ということが、また問題になります。ですから、手をつけないで、そのままにしておくことです。」

夜坐独参
工夫するとは、その事に集中することですか。
「そうです。そして、工夫がなくなるまで工夫し尽くす、ということが大切です。
本来、工夫と自分という二つのものがある訳ではないけれど、工夫と自分とが離れている。だから、自分の工夫の様子が見える。その距離がなくなるまで工夫し尽くすことです。工夫の善し悪しではありません。工夫というのも何であってもかまいません。これでなければ脱落しない、というものはありません。」

夜坐口宣
「摂心とは、集中するというようなことではありません。妄想も雑念も正念も『一念』です。工夫が工夫になるということです。相手にせず、邪魔にせず、そのまま手をつけないでおく、ということに一生懸命になるのです。」

独参
また、これで良いのかなあ、というような決まりのつかない状態になっています。
「決まりがついたら終わりです。最後まで決まりのつかないままです。
決まりのつかないことを『悪い』ことだとして、決まりをつけようとしないことです。決まりのつかないまま、成り潰れて行けば良いのです。」

夜坐総参
力が入らないというか、とらえようがないというか。
「大燈国師は『無理会の処に向かって究め来たり究め去れ』と言われた。このとらえどころのない処に一生懸命になっていれば良い。ただし、『幽雪が一息をしている』のではありません。修行を始めるまでは、呼吸なんて意識していなかったはずです。
『向かわんと擬すれば即ち乖く』
ふと呼吸のことを忘れている時があるはずです。それが、最も道と一つになっている時です。
一息だけを親切に、大切に、真心込めてやっていれば良いのです。」

暁天独参
やはり工夫にスキがあることに気付きました。
「工夫の善し悪しじゃない。そういう考えを起こすことなく、工夫に徹して行く。それは、工夫で工夫を忘れることが目的です。与えられた、あるいは自分で決めた工夫というのは、狭い。食事、作務、読経、その時は、それに成り切って行く。」

暁天独参
事実に沿って行く、ということについて、もう一度お話し下さい。
「事実というのは知ることはできません。認識したものは妄想です。それがなくなるまで、それに即して行くことです。」
それが修行ですか。
「修行というのは、何にもなく、手放しでいることです。それができないから、その準備段階として云々。」

夜坐独参
自己に参ずる、とは。
「『自己』というものがある訳ではありません。
自分の今抱えている問題、今のこの事実、それに参じなさい、ということです。」
修行の目標が限定化、局所化、特殊化されてしまって来ていて、何をやっているのか分からなくなることがある。
「『一息』といものが単純過ぎるからではないですか。一息だけですべて含まれ、解決するものですが、他の方法の方がいいんじゃないか、というような考えが強くなると、一息が小さくなってしまう。どこか『信』が決定していない、ということでしょうね。」

夜坐独参
混乱していると言うか、はっきりしないと言うか。
「はっきりしている方がおかしいんです。はっきりすれば、それで終わりですから。以前は、自分ではっきりさせておったということです。今のこの事実というものは、はっきりしたものでも、はっきりしないものでもありません。
はっきりしない、ぐじゅぐじゅしている。そういうように、はっきりしているじゃありませんか。そのまま任せておきなさい。」
信が決定しない、というのは法理が分かっていないからではないかとも思うんですが。
「そんなことはないでしょう。
ぐじゅぐじゅしている時もあれば、猛烈にやれる時もある。それを良いとか悪いとか思わないことです。早くやってしまおうと思えば猛烈にやればよろしい。しかし、それはこちらがどうこう言うことではありません。」
参ずる、というのは、工夫なら工夫をする。それに成り切るようにするということですね。
「そうです。」

夜坐独参
良い悪い、分かった分からない、という所から離れられません。
「そういうものは後で役に立つものですが、一度離れてみないといけません。工夫の力が弱くなると、そういうものが出て来て、工夫を忘れてしまう、ということでしょう。」
工夫でそういうものを切る、ということですか。
「切ると言うより、工夫の中に流し込んでしまう、という方が適切です。」

暁天独参
やっと、今までの自分の坐禅が間違いであった、と本当に肯えるようになりました。
「間違いということはないんです。ただ、自分が入っているかどうか、自分を用いているかどうか、の違いなんです。」

暁天独参
自分を用いる、というのは、こうしなくちゃならん、と考えて、やることですか。
「考えでも、呼吸でも、何でも、自分と離れている、ということです。」

夜坐独参
どうしても一息だけをしよう、一息だけになれば良いんだ、という所から抜けられません。逆に言うと、平常心是道とか、そのままで良いんだということが肯えません。
「今、あなたがしなくてはならないのは、親切に、丁寧に、一息だけをすることです。一息だけに成り切って、成り切ったというものもなくなって、気がついてみたら、一息だけをしていた、というくらいにまで、一息をすることです。」
手をつけない、というのは、そのまま放っておけば、雑念などの想念は自然に消滅するからだと理解していましたが、それで良いでしょうか。
「そのままにしておく、というよりも、一息の力を強くすることです。一息の力が弱くなると、その間に色々な考えが、法塵として出て来るでしょうが、磁石が吸い付けるように、そういうものを呼吸の中に吸い付けてしまうようにすることです。」

夜坐独参
この数日、大変体調が悪いのですが、こういう時はどうすれば良いですか。
「調子の悪いままに任せて、甘えておりなさい。」

朝参
「(敬宗老師に関連して)今では寺を持ち、物を蓄えることが当たり前になってしまいましたが、釈尊は縁に任せて法を説いて行かれた訳です。釈尊や達磨様にならう必要があると思います。
臨済宗は『疑団』を持つということをしますから、それが解決した時というのは、大変な喜びがある訳です。ところが、それが『悟りの病』となって残ってしまい、後の掃除が大変だ、ということで、欓隠老師は只管打坐に変えられたのです。」

暁天口宣
「坐禅を手段や方法にしない、ということ。
手段や方法にするとは、『今の自分は良くない』という考えがある。だから、坐禅によって良くしようとすることです。
そうではない。坐禅が坐禅になる、ということです。」

夜坐独参
古則公案というものと只管打坐と交互にできるものですか。
「それは問題ないです。その人の誓願によって、一生懸命やっているその流れの中で、自然に、問題意識に成り切ったり、すべてをそのままにして坐ったりということになります。
公案と言い、只管と言っても、私から見れば同じものです。只管打坐と言っても、それを知ることはできないことですし、只管に成ろうという問題意識を持つことは公案です。」
今まで、一息に成り切ろうとして来た訳ですが、なかなか埒が明かない。それで、最初に参じた時、『平常心』の公案を示されたので、それをやった方が良いでしょうか。
「一息に成り切り、成り切りすることで十分です。他のことを探る必要はありません。」

夜坐独参
はっきりとした一息一息ができるのですが、その上にパラパラと色々な想念が飛んでいるという感じです。一息というのも、多くの縁の中から特に意識でとらえている訳ですが、成り切るというのは、そういう方向で良いのでしょうか。
「自分で一息という縁を選んで、それによって、一切の縁を落とすのです。一息も、成り切るということもなくなるまで、それをやらなければいけません。」
成り切る、と言っても、すでにそれと意識でとらえて、意識はそれだけになっているのだから、成り切っているのではないですか。
「一息をしている中で、他の想念が入って来るということは、成り切れなかったということでしょうね。」
自己に参ずるということが、どうもピンと来ないのですが。
「一息が自己ですから、一息に参ずるも、自己に参ずるも同じことです。
一息というのがどうも良く分からないが、それは呼吸を小刻みに区切ることですか。」
・・・今している、この一瞬一瞬の呼吸を一息と言います。

夜坐独参
自己を忘ずる、とは何のことですか。
「今まで『空振り』をやっていたんだ、と気がつくことです。
『自分がある』、と思っているから、どうしなきゃならん、こうしなきゃならんという求心が出て来る。それが、最初からなかったんだと気がつけば、そこで初めて本当に、只坐ることができるようになる。」
自己を忘ずるということを、何か特殊な状態と思っていました。
「求心があるから、そうなるんです。
一息も只管打坐も公案も化城なんです。最初っからそんなものは、ナーンにもいらなかったんだと気付くことです。
しかし、そういう化城を通過しないと本丸には達しないのです。」
それから、一息は調息ではありません。深いとか浅いとか、乱れているとか整っているとかということとは全然別に、今のこの呼吸に成る、ということです。それでよろしいでしょうか。
「はい。」

独参
もう一度、自己を忘ずる、ということをお話し下さい。
「自己を忘ずるなんてことは何にもいらないんです。ただ、一息に参じなさい。」
求心ということですが、悟りとか見性、自己を忘ずるというような目的そのものが分かっていないのだから、本当を言えば求心などというものはあるはずがないのではないか。
「求心がなくて、よく一息の工夫をやり続けられますね。私は求心がありましたから、このようになれました。」

今日の提唱には引っ掛かる所がありました。大燈国師が五条橋下で乞食をされたのは、師匠にだまされたのだと言われたようでしたが、どうですか。
「そうではありませんね。人にだまされるということはあり得ません。師匠に言われた通りに乞食をされたということです。どこまで乞食に成りおおせるか、やられたのです。臨済宗では『悟った』という歓喜が大きいために『悟った』というものが残りやすいのです。曹洞では、どこで悟ったのか分からないくらいに、ズルズルと行く。その分、『語にとらわれる』ということがあります。」
習気というのは何ですか。
「習慣のことです。」
大燈国師の乞食修行は習気を取るためではなかったのですか。
「そうではありません。もちろん、習気を取らなければいけないということもご存じだったでしょうが、『悟った』というものを取ることだったでしょう。
習気というものは、法を広めて行く、伝えて行く上では、取った方が良いでしょうが、なかなか取れません。」

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