洛南高校3年間の寮生活。二度と嫌だが、これ以上の良い習慣形成を培える場所はない。
京都私立洛南(らくなん)高校。「洛」とは、洛陽など、都を意味する。つまり京都の南、という意味だ。JR京都駅の南、東寺の敷地内にある。新幹線に乗って京都に着くと巨大な京都タワーと反対側に五重塔がみえる。まさに京都の玄関口。京都人は、この五重塔をみてほっとするものだ。駅から徒歩で行ける。南北は8条通りと9条通りにまたがる。東西は大宮通り西入る。東寺は通称名で、教王護国寺という。弘法大師空海が開設された歴史のある寺で、世界遺産だ。平安京が遷都されたとき、寺院の建立は、東寺と西寺しか許されず、西寺も羅城門も時の流れに消え、現存する平安京の遺構は唯一、東寺だけのようだ。
私が入学した1985年は、特別進学コース(Ⅲ類)200名、普通科500名(Ⅰ類)、自動車課50名(Ⅱ類)、の1学年、計700名くらいだったと思う。教員に数名、女性がいたと思うが、全員男性。今は共学になったそうだが、当時、校内はどこも、男、男、男。すさまじい数の男がいた。
文武両道の進学校と聞いて入学したため、京都にはこんなにたくさんの優秀な男たちがいるのか、と田舎から上京した私は圧倒されていたのを覚えている。だが、物事は分解することで実相がわかる。外部からは文武両道校にみえるが、実際は、学業はⅢ類。特に京都大学の入学者はほぼそうだ。武(スポーツ)をやっているのは、Ⅱ類とⅠ類の一部。そのあたりの選別(クラス分け)は、とても合理的に割り切られていた。Ⅲ類はとにかく京都大学を目指す生徒で固められ、それ相応の担任、教師が就く。Ⅰ類も準特進、普通の普通科、スポーツクラス、と分けられていた。普通科は同志社や立命館などの有名私立大学を目指すコースであり、スポーツ生はスポーツ推薦で有名大学への進学を目指せ、という割り切りが為されていた。私は普通の普通科。3年間クラス替えは無し。担任も同じ。要は、入学時点で志望大学は既定されている仕組みだ。私は国公立大学を目指したい、という淡い期待を持っていたが、あるとき担任の川上圭介先生にそのことを言ったら「それならⅢ類に行くべきだった。普通科のカリキュラムでは無理」と断言された。Ⅲ類にスポーツ生はいない。事実上、無理だ。学業についていけなくなるからだ。なんと。1年生の終わり頃だったか、淡い期待は、簡単に消し去られた。父は「学歴は問わない。オリンピックへ行け」としか言わない。私はどちらかというと身体がきつい競泳ではなく、勉強がしたかったため、親の方針に抗った結果の中途半端な進学によって、中途半端な道に進んでしまったことを知ることとなった。実は、このときの「あきらめ」が、現在まで尾を引いている。川上先生は同志社大学出身。私が「国公立大学に行きたい」と相談した際も「同志社で何が不満なんだよ。同志社を目指せよ」と言われた。両親も同志社へ行くことを望んでいたため、そもそも同志社高校(岩倉)を訪ねたことが洛南高校にくることになった発端だった。ならば、同志社で良いじゃないか、そういう運命なんだ、と自分を納得(あきらめ)させた。
事実、同志社大学はブランドであり、関西の大学群では圧倒的にカッコいい、と思うし、そう思われていた。関関同立では偏差値もブランドもNo.1。京大生、阪大生は、どちらかというとクルクル眼鏡の学生のイメージ(がり勉から入学を勝ち取った)があったが、同志社生は遊びも上手く、よくモテる。何が不満なんだ、と川上先生に言われたとき、反論ができなかった。高尾君のお母さんも宇野さんも、もちろん両親も、喜んでくれる進学であっただろうが、私自身にしこりが残った。同志社に不満があるのではない。この時の「あきらめを選択した自分」に悔いが残っているのだ。これが、40年経過した今も、私をハングリーたらしめている。
国公立大学への進学をあきらめた自分がなにをしたか。まず、同志社に限らず私立大学文系は、英語、国語、社会(日本史or世界史)の3教科のみとなる。数学、理科は要らない。社会も川上先生が世界史担当だったため、世界史を選択した。よって日本史は要らない。推薦入学を狙わないのなら、通知表(通信簿)は関係ない。要は、高校2年から、露骨に入学試験に関係ない科目の授業への興味を失ったのである。端的にいえば、居眠りである。あきらめた科目はずっと寝ていた。周りは「スポーツ生だから仕方ない」といって大目にみてくれていた。当然、数学、理科の成績は悪い。でも、私は全く意に介さなかった。私立大学文系しか狙えないⅠ類になんで受験に関係ない科目の授業があるのだ、と批判するまでになっていた。これが、超自己中な父の血を引いた、私の悪い側面である。45歳になって、環境問題を改善する商材を取り扱いたい、と考え、起業するが、こういう商材は、科学的な理解が不可欠である。エビ養殖はまさにそうだ。生命科学、物理学、化学。これらの理解には数学が要る。学業は大学進学のためだけではない、社会で生きるために必要なことだ、と私を諭してくれる人もいなかった。なにせ、私の高校時代は85年から88年まで。バブル絶頂期だ。有名大学に入って、大手企業に入れば終身雇用で所得も右肩上がり、生涯年収で5億円ともいわれた。それ以外の道など考えもしなかった。結果的に、45歳からは、高校理科や数学を勉強する日々だ。NHK教育を録画して観たり、YOUTUBE動画を観て学ぶ日々。何とか、特許をいくつか出願するレベルまで理系的な頭脳をブラッシュアップできた。だが、理系国公立大学の学歴に対してのコンプレックスは解消できていない。必ず、理系分野での博士(Ph.D)を取得したいと目論んでいる。でなければ、死んでも死にきれない、と心底思う。この執念こそが、私をやっかいな生物たらしめている特質であり、一方で、最大の武器であるともいえる。
この浮ついた生活とはほど遠い、高校3年間の暮らしは、睦(むつみ)寮を抜きには語れない。2024年9月(54歳)、37年ぶりに立ち寄った。外観は昔通り。しかし、既に使用されてはいないようだった。夜だったが、近くを通りがかったので、どうしても気になって寄ってみたのだ。高校の正門からせいぜい200メートルか。高校と寮を往復するだけの日々だった。楽しみは、親が来た時に外食に誘ってくれたときや、病院・整骨院に治療に行くときなど、制服を着て、寮に外出届を出して出掛けるときだ。外出届は寮とJR京都駅(約1km)を半径とする円周内から外部に出る場合に義務付けされる。その範囲内は寮服。外出届範囲は制服である。つまり、私服は寮に持ち込んでいない。持ち込んではいけないのだ。さらに学業に必要のないもの、マンガ、雑誌、ラジカセ、カセットテープも禁止。1年生時は2年生に、2年生は3年生に、3年生は寮官(寮に常駐している先生)から定期的に検査を受ける。もし、隠し持っていることが見つかったら、屋上に呼び出され、コンクリート床の上に長時間正座させられ、殴られ、蹴られる。要は体罰だ。私は英検のカセットテープとラジカセが見つかり、没収された。また同部屋のルームメートが少年ジャンプを持ち込んでいることが見つかり、共同責任で3年生から体罰を受けた。また、夜は20:00から24:00まではどんなに眠くとも、机に向かい、勉強しなければならない。うつ伏せで寝る習慣もこの名残りである。朝は、掃除、勤行、朝の勉強を済ませ、登校する。通学時間が無いので、勉強時間に充てられる。「睦寮生は洛南高校生の模範たれ」といわれ、学業やスポーツでもそれなりの成果が求められる。だが、同級生からは「寮は大変だろ」とよく言われた。上級生からの体罰を受ける原因を回避する日々。心なんて休まるときがない。1年生時は、本当に2年生にあがるまで耐えられるか?と思っていた。本当に1日、1週間、1ヶ月が長い。居眠りも体罰の対象だった。1時間に1回ほどに上級生が見回りに来る。だが、同部屋4名の連携プレーが構築されていく。廊下を歩く足音で、起こしてくれるようになる。囚人とは、こんな感じかも知れない、と思うことがあった。だが、私は、この環境に適応し、徐々に、この環境を利用し、学業の成績も上げていくようになっていった。本もよく読んだ。いつも受験用も問題集ばかりやっていても飽きる。学業に関係ある本なら持ち込める。担任の川上先生が推奨された本や、世界史の本はよく読んだ。司馬遼太郎や井上靖などが好きだった。単なる暇つぶしと息抜きでもあったが、外部との交流が断たれた世界で、自分の世界観を頭の中で拡げて行く習慣が形成されていった。規則正しい生活習慣はいうまでもなく、常に4人部屋であり、協調性や、人を観る目も育ったと思う。目の前にいる人が今、何を考えているか?は営業など相手と対峙したときに、とても役に立つスキルである。こうして、ビジネス・マシーンになる素養が形成されていった。
私のようなタイプは、むしろ珍しいのかも知れない、と寮に住む同級生の動態から感じることもあった。退寮処分を受けた同級生がいた。3年生のときだ。睦寮の向かいに洛南会館という宿泊施設がある。ある日、同級生2名が、洛南会館に泊まる女子高の修学旅行生の部屋に屋根づたいに行き、それが寮官にみつかり、処分を受けた。大きな紙に「そっちに行っていいか」と書いてシグナルを発し、「いいよ」と書いた返答の紙をみて、出て行ったのだ。施設間の筆談だ。帰ってきたら、寮官に呼ばれ、次の日には処分が決定した。2名のうち、クラスメートが1名いた。私は仲が良い、というほどでは無かったが、そんなことをしたら、そういう処分がくることは容易に想像できたが、知ったことでは無かった。だが、人の本性とはそういうものだと悟った。退寮になろうが、そんなことより、目の前に女子高校生の団体宿泊がいる。そのことに対し行動を起こさざるを得ない衝動を持つ少年が居る、という事実だ。その点、私は理性が強いタイプだろうと思う。またあるときは、Ⅲ類同級生の部屋で、夜、酒盛りをしていたのが見つかった。寮官が「お前ら、何をやってる!」と怒号を浴びせたそうだ。周囲の建物まで届くような声量だったらしいが、私はあいにく、寝てて気づかなかった。その寮官は寮長。高野山からきて、洛南高校の校長の座を狙っていたS先生だった。S先生はこの特ダネを次の日、問題にすべく、校長先生(三浦先生)のところに話にいったそうだ。当然、同級生は退寮処分を覚悟していた。ところが、だ。数日後の休日、寮生全員が洛南会館で夕食をする、と呼び出しを受けた。座敷にすき焼きが並ぶ。なんと、ビールまであった。あのすき焼きとビールは本当に美味しかった。未成年で堂々と飲んだビール。しかも寮生と。そこにS先生も居た。苦虫を嚙み潰したような顔をして飲んでいた。
後日聞いたことだが、S先生が三浦校長から、逆に叱責されたようだ。三浦校長は「若い、遊びたいさかりの生徒を、睦寮のような閉鎖空間に押し込んでいて、酒のひとつも飲まさないから、そうなるだろ。君が反省しなさい」と言われ、食事代を出してくださったそうだ。なんと。三浦校長の懐の深さに驚いたのはもちろん、人とは、そういうものだ、という最高の学習となった。寮生活に耐えられている私の方が実は普通ではなく、おかしくなるのが普通であるということだ。このこと(3年時)があり、既に退寮になっていた上述したクラスメート(K君)にも気をかけるようになった。K君の下宿先にも何回か泊まりに行った。文字にすると、たったこれだけのことだが、実際の現場では、いろいろなことがあった。もう、睦寮生はいないようだが、この3年間が無ければ、あるいは、違う道を生きたなら、私はどうなっていただろうか?間違いなく、今の自分は居ない。もっと、普通の人間であった可能性が高い。つまり、目先の快楽を求め、今やるべきことを後回しにする人間だ。それは私の本質ではない。私の本質は、圧倒的な集中力と適応力、逆境においても、そこから何かしらを学び取るチカラだ。だとしたら、そこにいるときは心底イヤだったが、睦寮は私の本質を引き出した、最高の環境(選択)だった、といえる。
稼働していない睦寮をみて、感謝の想いが込み上げてきた。そしてここに送り出してくれ、仕送りをしてくれた父。この1ヶ月前に亡くなったが、父に対しても感謝の気持ちが込み上げ、目頭が熱くなった。
一生立ち入らないと思っていたが、良い思い出だ。あのころのみんな、本当に有難う、とお礼を述べ、睦寮を後にした。