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親元から離れ、京都洛南高校へ越境進学。未だによく思い出すのは父石町で過ごした日々。

私はほぼ毎日、寝夢をみる。だいたい、空を飛んでいるものか、締切に追われているものか、故郷のものである。たまに、事業に関係する技術に関するものがある。そういうときは、起きてすぐにノートに描き留める。それ以外は、たいてい目が覚めて数時間すれば忘れる。空を飛ぶ夢では、何かに追われて逃げるときにジャンプした身体がそのまま浮く場合と、高いところから空中に一歩踏み出しても落下せず、水中に浮くような感覚で、そのまま空を遊泳することが多い。今回ばかりは証拠を掴んだ、と思い、かなりリアルに飛んでいることがあるが、やはり目が覚めて夢と知る。重力に縛られた状態からの解放を身体が求めているのか、マンガの見過ぎか、それとも、夢の間に魂が身体を離れ、多次元をトラベルしているのか?それはわからない。
締切に追われるのは、私らしい。常に何かの成果物を求め、何か有益なことをしていないと落ち着かない、私の性分からきていると思われる。最近多いのは、この歳(55歳)で同志社大学の入試をする夢である。いくら勉強しても、社会科の年号や王の名前が覚えられず、経験でカバーしようとするが、落第してしまうのである。
自分は22歳で卒業しているのに、なぜか、再度受験する状況に立たされている。そして、高校生の自分ができたことができず、悔しい思いをして目が覚める。これはどういう心理だろう?この手の夢はみる、という話も聞く。誰にとっても大学受験は重荷であるということか。昔は、受験会場に遅れそうになる夢が多かったが、最近は再入試の夢に切り替わっているのが、年齢を感じるところ。本当は高校入試の方がプレッシャーが大きいと思うが、不思議と、高校入試のそれは見ない。それほど自信があったのか、能天気だったのか、高尾君のお母さんや、宇野さんの暗示が効いていたのか、はわからない。試験の内容など100%記憶にない。その替わり、郷里の情景は、ほぼ毎日でてくる。それほど、私にとって、父石町は印象深い街なのかも知れない。

ある人から聞いたが、人の体感速度であるが、0歳→20歳を、そのままの20年とすると、21歳→60歳は、なんと13年に感じる、というのだ。実際の年数は40年あるのに、13年間にしか感じないのは、それだけ人が、変わり映えのない仕事に忙殺され、乾いた心で日々を過ごすからかもしれない。私はあと5年で60歳だが、転職は3回、うち、1回は起業による独立である。1つの企業に定年まで勤める人よりは、幾分か、体感速度は長いかもしれない。50歳を過ぎてIPOを目指して日々奮闘できている今の自分が、多少恵まれているのかもしれない。だが、毎日の寝夢で郷里の情景が頻繁に登場するのは、やはり、幼少期の1年1年は好奇心に溢れていたといえる。毎回、昔話をnoteに3,000文字以上で書き溜めているが、かえって、幼少期の方が記憶が鮮明なのかもしれない。私がいずれ認知症になったら、昔の話ばかりで、最近の出来事は記憶にないと言いそうな気がする。そんなものかもしれない。

私の実家は、父石町38-1にあった。Googleマップでみても、今もある。実家が引っ越すとき、隣家が買ってくれたのでまだ存在している。これも感謝すべきこと。その家主である、修(おさむ)君が近年、他界されたと聞いた。会いたいときに友はいない。歳をとる毎に、その確率が上がる。早めに筆を取り、感謝の意を伝えておくのは正解だと思う。私の生家は和風建築の本家から、少し洋風の離れを増築で繋げたような構造だ。まずまずの広さだが長い。誰かの部屋を通らないと、別の部屋に行けない、昔あるあるだ。そこに家族7名と、犬がいた。犬はポメラニアン、シェットランドシープドッグ、ビーグル、ヨークシャーテリア、と続く。家の裏は山で、家族の墓もある。山には水がほぼ流れていない谷川があり。私はその谷川を上流へ登っていくのが好きだった。サスケのように、岩を飛びつつ、倒木を超えながら、行ける限界まで行ってみた。山にはカブトムシ、クワガタがいた。
典型的な中山間部で、向かいの山までも近かった。母に山菜採り、ザリガニ採り、などに連れていってもらったときは、心から楽しんだ。ツクシ、ワラビ、などだ。調理したものは子どもの私には苦くて食べれない。でも楽しかった。夏休みなどは町内で朝の体操とか、ジョギングがあった。誰が仕組んだのかは知らないが、私はその必要性がわからず、犬を連れて参加していた。そんな者は私以外いなかったが、せっかく、朝、ジョギングするのなら、犬の散歩も兼ねるのが一石二鳥というもんだろう、と考えていた。そういう思想が、私が地元では浮く原因の一つだったんだろうが、父からは「ええど、やれぃ」しか言われず、母も寛容な人なので、早い話、好き勝手やっていた。合理的なことをするのに誰に遠慮が要ろうか、という思想である。この思考パターンは現在にも確実に続いている。その意味では、完全に異端児だったと思う。

父は、実兄から誘われて、まつおかアートファーニチャーという家具メーカーを共同経営していた。当時の所得で月収150万円。クルマ(通勤)も社有車。祖父も桐箱の梱包業を営んでおり、母は年間1,000万円貯蓄できていた、と言っていた。そんな経済状況なので、教育にもずいぶん投資をしてもらった。金丸の内田くん(現・北川精機経営者)は当時、東工大生だったが、帰省の度に、私の家庭教師をしてくださっていた。理科の基礎学力があるのは、そのお陰だと思う。それから、府中町に藤本先生という数学の私塾があった。当時、見た目40前後か。とにかく、不思議な中年男性だった。テキストを渡され、問題を解き続ける。わからないときにだけ、藤本先生を呼ぶ、というスタイルであったが、その藤本先生が奥の椅子に座ったまま、にやにやしながら、鉛筆をクルクルと回していた。そして、藤本先生に「わかりません」と告げても「どうかのぉ、どうかのぉ」と言い、ときには、生徒の机までは来るが、また奥の椅子に引っ込んでしまい、またにやにやしながらの鉛筆回しが始まる、私の他に数名の生徒がいたが、そんな塾なので、すぐに居なくなった。私はというと、よく状況は読めないが、母の奨めで通っていたので、高校入試の前までは続けていた。本当に職務放棄したような藤本先生の態度に、こんな塾、成立するのか?と疑問を抱いていた。今から思えば、顔つきといい、にやにやといい、サイコパスの変人である。わからない、と言っても答えをズバリ教えてくれることは無かった。「これ、前にも言うたけどのぉ」と言って、奥に戻ってしまうことがしばしばあった。ところが、だ。私の「考えるチカラ」がどんどん向上していった。単に答えを求めるのではなく、わからない、どうしよう、と思った後、もう一段、ギアを上げて考える癖がついた。後日談になるが、私が母に、藤本先生ってこんな人だ、と言っていたので母は心配して、藤本先生に私を辞めさせたい、と言いに行ったらしい。だが藤本先生は「この子は見込みがあるから、辞めさせてはならない」と言ったらしい。その藤本先生は、私が洛南高校在学中に亡くなられたと聞いた。自殺とのこと。とても変な人だったが、私に考えるチカラを植え付けてくださった恩人。藤本先生にも感謝を込めて、ここに書き記したい。

そして私は、志望校を絞り込む中三になり、母が競泳でお世話になっている桒田先生から取次を受けて、同志社高校(岩倉)を訪ねた。母は同志社女子高校卒であり、京都は地元であったが、同志社はマンモス校であり、高校だけでも4校(岩倉(共学)、香里(男子)、女子、国際(共学))あった。水泳部の顧問など知る訳もなく、桒田先生に取次ぎを頼んだのである。
岩倉の水泳部を訪ねた母は教員(水泳部長)から、本気で競泳をやらせたいなら、うちなんかに来てはいけない、と言われ、洛南高校の教員(水泳部長)の遠藤先生に連絡をとってくださり、早速、遠藤先生と面会することになった。そのときまで、京都が地元である母も洛南高校の存在を知らなかったが、即座に洛南高校の方が、私にやらせたいことに近いと感じたようだ。
洛南高校は京都では屈指の進学校であり、スポーツも強い、文武両道校だ。それもそのはず、10数年前までは東寺高校という名称で、とにかくガラの悪い学校だったらしい。だが、そもそも、弘法大師空海が開いた日本最古の私立学校:綜芸種智院から始まる、1,000年以上の歴史ある学校である。歴史にたがわぬ実績を持ちたいとして、学業にチカラを入れたら、財力もあるので、そりゃあ、短期間で変われるだろう、と思う。それは、私が入学してからの所見であるが、そのときは、まだ未知の世界だったが、遠藤先生の人柄を信じてチャレンジすることを決めた。母が同志社高校に見学に行ったのは、将来的に私を同志社大学に入れたい、という思惑も働いていたと思う。私も、両親の母校に行けたら、それも本望と思っていた。それが、良くも悪くも、親の引いたレールである。結局、そのレールに沿って、後年、同志社大学に進学することとなり、その4年後(1992年)、安田火災海上保険に入社する。その後、プルデンシャル生命、メットライフ生命、と国内、外資、大手保険会社で29年勤務することとなる。高度経済成長時代の余波が残る日本のあるあるの選択だ。そして、私にとっての天命ともいえる、環境技術を生かせる起業へたどり着いたのが51歳。ほんとうに、長い道のりであった。親が引いたレールから逸脱することに制約は無いが、家族、特に子を持つことで、転職は制約される。所得が下がる転職などできない上、30歳を過ぎると、極端に経験のない業種に移ることに難しさが伴う。私はかれこれ、このレールに乗っかることで、大きな遠回りしてしまった感がある。このことは、未来ある若者は心から、考えて欲しいことである。私はどこかで親の引いたレールという易き道を選択していた、つまり、熟考することを放棄していたのである。

親にとっては、私を京都に送り出すことが、最初の子離れを促す機会だったと聞いた。入学前の入寮の日、引っ越しを手伝いにきてくれていた母と京都駅で食事し、ホームに向かっていく母を見送った。母は電車に乗ったあと、泣き崩れたと後日聞いた。親が仕向けてくれたこと、また、施してくれたことに恨むことなど有りようもない。100%感謝である。京都の私立高校へ越境進学させることは経済的な負担もかけたと思う。何度もいうが、人生は片道切符であり、振り返っても仕方がない。今と、今が創り出す未来があるだけだ。だが、こうして、振り返ると、どこかで、自分は何者であり、何者になりたがっているのか?を自問自答する必要があると思う。自らの魂が望むこと、生前の約束という、今世で為すべきことがある。
親の施しには感謝をしつつ、自分の道を行くこと。21歳から60歳を文字通りの40年、いや、それ以上の体感速度にできるよう、心掛けるべきであると思う。

いよいよ、洛南高校睦(むつみ)寮生活が始まる。1985年のことだ。
私に生活習慣という一生モノの財産をあたえてくれた3年間。そのスパルタ生活を述べる。





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