蒼氓。名も無き声を思う。
題名は「名も無き声」と書いてあるが。
実際に名も無き声について考える事が無くなったようだ。
今はSNS上で叫ばれている言葉が「名も無き声」となるのだろう。
しかし、匿名性があると思われているが「HN」としては、しっかりとした
「固定化」は成されているように思う。
見えない言葉と言えば、以前は「表立って見えない言葉」を指していた。
今は・・・どうなんだろう・・・。「表立って見えない声」というのは、圧倒的に
少なくなったんじゃないだろうか。
しかし。
SNSの進化によって、進化し続ける中で「人の情報」は溢れかえり、そして
情報に埋もれるが為に、人はますます「孤立化」していくようだ。
人の孤立化は、文明以後で言えば、この現代においてでも、過去にも
あったと。
しかし、個人としての大衆への「希薄さ」と言えば良いのか、そこは
ガス状態の様に充満し、肥大化し、そして内容は多岐多様で、どれを自身の
心の支え、言葉の正とするかは、全く判然としない。
その中での、現実世界の人間関係もややこしくなっていると思う。
個対個、公対公。
どの関係性においても、複雑化し、労力を非常に使用する。
どのように付き合えば、自身を満足でき得るものになるか?
全く検討も付かないくらいだ。
日本は今、その中で大量の外国人が移入するという時代も迎えている。
言葉が通じないだけではない。
風俗や生活も全く異なる「異質な人達」を相手にするのは、日本人同士の
様な「言葉の裏=心を察する」などというのは、全く通用しない。
ますます複雑化していくね。
しんどいね。
そりゃ疲れていくわけだ。
これに対する「処方箋」があれば、ここで書いて締めくくりたいほどだが、
自分も何も持ち合わせていない。
しかし、言えるのは。
「陰で人を叩く行為は、何の意味も為さないから、止めておこう。」という
事だろうか。
最近、個人対個人でも「察しろ・察してくれ・お察し」の風潮がある。
それを「かっこよさ、うつくしさ」の例えにもなっているようだ。
しかし、そこまではしなくてもいい。
そう「言いたい事は(はっきりと)言う。」この気持ちは双方に大事だ。
ただ、相手に言えぬ気持ちも、人間関係の中ではあるだろう。
それもOKだ。裏で大声を上げて「アホバカとんちんかん」と言って、
楽になれば、楽な方を取ったほうが良い。
しかし、自分の言いたいのは、相手がいる中で、執拗に相手を追い、言葉の
ナイフで切りつけ続け、倒れている相手を集団で踏みにじる行為だ。
これはいけない。暴力だ。リンチだ。
その中でのルールが決められていない今。
そういった殺伐とした、生存与奪の闘争を、してはならないね。というのは
自分は恐れている事であり、目を背ける行為であり、悩み苦しむ行為だ。
答えのない話になったけど、
こういった「名も無き声」の叫びを、自身がどう捉え、考え、そして行動
するのであれば、どう行動するのかを、考えていきたいと思う。
ゆうさん
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