「人間ドラマ」と稚拙さへの後ろめたさ
映画「シン・ゴジラ」を巡る感想から「『人間ドラマ』とは、幼稚な登場人物が個人的な我儘で事態を混迷させる事を指すという偏見を獲得してしまった」というツイートが流れてきた。
これはある点でその通りだと思う。「人間ドラマ」にも色んな種類があるけれど、私達が「稚拙さ」に人間味や親しみを感じるのは間違いない。例えば、ボストン・ダイナミクスのロボットのアトラスが何か失敗したときに「人間っぽい」と感じるのはそれだと思う。
SONYのペットロボットAIBOも、完璧を目指さずにあえて不器用な部分を作ったと何かで読んだ。そうした稚拙さが親しみを感じさせて、あのヒットにつながったみたいだ。
私たちは対象の稚拙さに共感する。そして、事態が混乱しないとドラマにならない。「人間ドラマ」はこの組み合わせになるので、稚拙さによって事態が混乱するものになりがちなんだと思う。
ではなぜ私たちは稚拙さに共感し、それが引き起こすドラマに感動するのか。それはまず私たち自身の中に稚拙さがあることに自覚的だからだと思う。
でもそうした稚拙さは、一般的にはあまり好ましくないものだとされている。きっと多くの人が持っているものだけれど、大人であれば表には出さないべきだとされていて、私たちはどこか稚拙さに対する後ろめたさを抱えている。だからこそ、自分の中にある稚拙さが、相手にも同じように見られた時に共感する。自分が後ろめたく思っているものを相手も同じように抱えていて、しかもそれを見せてくれたことが共感を呼ぶ。
そして、そうした稚拙さによる失敗も多くの人が経験して苦い思いをしている。「人間ドラマ」はそれを少しだけ誇張して描く。そして、ここでの稚拙さが招く混乱は多くの場合、何かしらの方法で解決し多くの場合はハッピーエンドだ。そこで私たちの抱えている稚拙さに対する後ろめたさが、少しだけ救われる。現実の私が抱える稚拙さに対する後ろめたさ、それをほんの少し軽くしてくれるのが「人間ドラマ」であり、「人間ドラマ」に感動するのは私たちの後ろめたさを軽くしてくれるからなのだと思う。
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