「そのような意図はありませんでした」とはどういう意味だろう
いわゆる謝罪会見とか、なにか偉い人が弁解や謝罪をするシーンでよく聞くフレーズに「指摘にあったような、そうした意図は無かったが、もし誤解をあたえてしまったとしたら申し訳ない」というのがある。ぱっと聞くとなか謝っているようにも聞こえるけれど、いったい何について謝罪しているのだろうか。何を言っているのだろうか。
謝罪会見なので、だいたい会見している当人の言動について不快に感じた人がいる、あるいはもっと直接的な被害をこうむったり、問題があるのではないかとの指摘があったりしたのだ。それに対する謝罪会見なのだけれど、「そういう意図は無かったがもし誤解をあたえてしまったとしたら申し訳ない」という言葉の中心は、「指摘にあるような意図はない」という部分だと思う。全体を分解してみよう。
「そうした意図は無かったが、もし誤解をあたえてしまったとしたら申し訳ない」は次の3つに分けられる。「指摘にあるような意図はない」「もしかしたら誤解があったかもしれない」「もしそうだとしたら申し訳ない」に分けられる。はっきりと主張しているのは最初の「そうした意図はない」の部分で、後半は仮定になっている事が分かる。つまり、謝罪が必要かどうかは実は保留されていて、会見で一番述べたい部分は「そういう意図はない」の部分だと分かる。
分かりやすい文言で書いたけど、よく見かける謝罪会見で聞かれるフレーズはだいたいこのパターンで、一番の主張は「そうした意図はない」の部分にある事が多いように思う。「みなさんが指摘するような意図はありません。表面的な言動よりも内面的な意図のほうが大事ですよね。だから問題ないでしょ」というのが中心の主張だ。では仮に、意図がなければ言動の方にも問題がないのだろうか。
ちょっとここで謝罪会見からは離れるけれど、僕たちは普段から「外見より内面」とか「気持ちが大事」とか言って、気持ちや内面をとても大事にする傾向があると思う。これ自体はとても大事なことで、堂々とそう言えるようになったことは良いことだと思う。そういう価値観の社会になったのだと素直に思う。
ただ以前はそうではなかった。例えば「武士は食わねど高楊枝」という言葉があった。「腹が減った。ひもじい」という内面の気持ちを表に出さず、「自分は飢えてなんかいないのだ。ひもじくなんかないぞ」と、いかにも腹が満たされているような素振りで楊枝をくわえている言動が尊ばれた時代があったのだ。それもそんなに古い話ではない。ほんの数十年前まで、男性に対してはまだ「背中で語る」とか「男は黙ってサッポロビール」とかみたいな言葉もあった。内面を素直に出す事はみっともない事だ、みたいな発想が割と最近まであったのだ。
それは僕たちの内面、つまり心への信頼が低かったからだと思う。何かで読んだけれど、心の語源は「コロコロして定まらない」から「こころ」と言うのだそうだ。確かに僕たちの内面は絶えず揺れ動いていて、一定していない部分が大きい。泣いたカラスがもう笑ったでは無いけれど、些細なことで喜んだかと思えば次の瞬間には悲しくなったり怒ったりしていて、全く自分の思い通りにならない。その一方で、外面的な言動の多くは意識的にコントロールすることができる。少なくとも内面よりはコントロールが容易だ。心で泣いて顔で笑ってとか言うでしょう。昔は内面に対する信頼がいまよりずっと低くて「内面だなんてそんな不安定なものは信用できない、それよりはもっと意識的に動かせる外形的な言動の方を信用しよう」という発想だったのだと思う。
ここでようやく謝罪会見の「そうした意図は無かったが、もし誤解をあたえてしまったとしたら申し訳ない」に戻る。これは「指摘されたような意図はありません。外面的な言動よりも内面的な意図や気持ちの方が大事ですよね、だから問題ないですよね」という意味だった。ツイートでも書いたけれど、僕たちはエスパーではないから、相手の意図を外見的な言動でしか判断できない。まして自分では、コントロールの難しい内面を自分でちゃんと把握しているかも怪しいものだとすら僕は思っている。加えて僕たちはエスパーではないから、相手の内面はさらに分からない。だからこそ、僕たちは外面的な言動でしかコミュニケーションし得ない。もし仮に誤ったメッセージが相手に伝わってしまったのであれば、さらに言動によってそれを訂正するしかないだろうと思う。
友人同士など、日常的な会話の中であれば「ごめん、そんなつもりじゃなじゃなかったんだ。本当はこういう気持ちだったんだ」と相手の意図を確認する事で許せて理解が進む事が大半だろうと思う。日常的には僕たちは内面や気持ちを、なにより大事にしているし。ただそうした場面ばかりではないと思う。
実は当初のツイートで僕が想定していたのは、差別やセクハラに関する謝罪会見だった。これも何かで読んだことだけれど、ヒトラーは内面で「後に偉業として讃えられるだろう」と考えて、外面でユダヤ人を含めた虐殺を行っていたそうだ。この話の真偽は分からないけれど、地獄への道が善意で舗装されている事はままある。目的は手段を正当化するだろうか。
極端な例を出したけれど、そんなわけで「そうした意図は無かったが、もし誤解をあたえてしまったとしたら申し訳ない」は謝罪の体をなしていないと僕は考える。
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