インセプション見た(ネタバレあり)
久しぶりに?インセプションを見た。(インセプションとはクリストファー・ノーラン監督のSF映画だ)
前に見たのはいつかは分からないけど、内容は少し知っていたので(崩壊するとことか)きっと前何かで見たのだろう。もしかしたら僕もインセプションされているのか...
まさか
映画はいきなり夢から始まる。それは二重の夢だ(夢の夢)
彼ら、つまり主人公たちはアイデアを盗む仕事をしている。最初の夢の夢では依頼に失敗する。それから彼らは依頼主から逃げ、尚且つ商業的敵からの依頼を受ける。これがインセプションだった。
と、まぁあらすじを言っても仕方がないことではあるが一応。
この映画にはいろいろな障害があったと僕は感じた。例えば設定的な難解さ、例えば映像の写し方、例えば映画内での目的。
しかしこれらはある一つの事象を捉える上でクリアせねばならないパーツだったんじゃないだろうか。「現実とはどこか」のような事象に。
今この世を生きている(と思っている)映画を見ている僕らにだって現実であるという確証はない。全世界の人が所謂インセプションされているのかもしれない。コブがモルにかけた暗示とは逆の「ここは現実である」という。
例えばコブは最後現実に帰ってきたのか僕らには分からない。最後トーテムは回り続けていたとても不安定に。もしくは初めから夢の夢の夢から始まっていたのかもしれない。気づかないうちに夢を現実と取り換えていたとか。
想像は止まらない。あくまでも想像は
僕が好きな小説の中に「匣の中の失楽」という本がある。これも同じように(厳密に言えばたぶんインセプションと匣の中の失楽は大きな解離がある)入れ子構造であり、どちらが現実で、どちらが小説であるかは分からない。だが夢のように小説と現実が奇妙なかばい合いをしている。ウロボロスのように。
つまり僕らが生きている世界は夢や小説の中である可能性を示唆している。とっても浅い感想だが、多くを書くにはまだ呑み込めていないところもあるのでこれ位しか書けなさそうだ。
中学生の頃、僕は友達とよく話した。もしこの現実が誰かの見るアニメやドラマなのかもしれないと。それらは昔は荒唐無稽だが、有り得なくもないという煮え切らない結論に至ったし、それで盛り上がれるのはあくまでそれは可能性であるという前提があるからだ。
名前を付ける時と同じ、誰も善い人になって欲しいと思って善人と名前を付けてもその子どもが善い人になるとは限らないと知っている。もしかしたら犯罪者になる可能性があることだって誰もが知っている。名はある意味において体は表さない。
あの中学の時、この現実がドラマだったら誰も見ないだろうな、視聴率は最悪だ!と笑い合っていた友達はもう今は付き合いがほとんどない。でもあの時は実際にドラマで流れても遜色ない時間だったのかもしれない。きっと誰もがそうゆう時間を過ごしている。
そして現実が現実でないとしても、今ここに知覚しているものは大事にしなければならない。仮に夢だとしても、その夢を大事にしなければならない。
生きるとはそうゆうことだ。
だから最後のトーテムは回り続けても、続けなくてもコブにとってはどっちでもいいはずだ。もうモルはいない。夢にも現実にも。そしてそれを彼は受け入れた、それから子どもと再会できた。その事象を大事にするだろう。
きっと僕らも同じなのかもしれない。簡単にここにあるものを手放してはいけないのかもしれない
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