苦手な人
僕は、映画で感動する人が苦手だ。音楽に救われたという人が苦手だ。それは僕自身がそうでないと言っているわけではなくて、そうやって吹聴する人が、僕は苦手だ。
YouTubeのコメント欄、SNSのトレンド、そして喫茶店での会話。至る所に彼らは現れる。
「この曲を聴いて救われました」
そんな言葉を見聞きするたびに「軽薄だ」と思ってしまう賤しい僕。
画面の向こうの、内奥を覆うしたり顔を想像してしまう浅慮な僕。
そして、そんなことを言っている癖に、自分の好きなものを大きくひけらかして、まるでブランド物のバッグのように扱う、見栄っ張りの僕。
それなのに、僕は、それが別に悪いことではなくて、きっと彼らにとっては大切なことなのだろうと知っているはずなのに。僕自身もおそらくはそうであるはずなのに。
それでも、ある一方の僕はこう思っている。「僕を救えるのは僕だけだし、他人を救おうと思っても、僕には勿論、痛みや苦しみ、悩みを抱える本人以外のすべての人、モノ、事は役不足にすぎない。せいぜい、端役の石ころに過ぎない。人は自分で勝手に救われていく」と。そして「他人に救われた」と思っている人は皆総じて、「そう思いたいだけなのだ。」と思う。人それぞれ、色に対する鋭敏さが異なるように、見えている世界が違うから、僕らの脳は錯覚を起こすから、人はいつだって自分の作り上げた世界の中で生きているのだから。
だけど、だけど、そんなことは分かっているけど、(言葉にすると、とても恥ずかしいけれど)僕は誰かに救われたいし、救ってほしいと思う。僕の事をちゃんと理解してほしいと思う。そんな叶わない夢を抱き続けている。
だから
僕は映画で感動できる人が苦手だ。
音楽に救われたという人が苦手だ。
こんな葛藤もつゆ知らず、自分で選んだ道を簡単に他人へと責任転嫁できる人が苦手だ。
他人の世界を平気で、自分の世界へと植民地支配出来てしまう横暴な人間が苦手だ。
そして、そんな風に言い放って、殻に閉じこもる自分を眺めるのが嫌いだ。
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