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なぐられたら殴り返すほどの自己愛をもつこと

 この言葉は、高野悦子という人の「二十歳の原点」という本の中の一節だ。二十歳の時にあるユーチューバーが紹介していたのを見た僕は、すぐに電子書籍で買って読んだことを覚えている。そして、その中でもこの言葉に僕は強く惹かれた。以来、僕はこの言葉を胸に強くしまって生きている。

 それなのに、何時まで経っても僕はこれほどの自己愛を手にすることができない。自己愛をこの手に掴むというのはそれほど簡単なことではないのだ。殴られる前に殴ってしまう単純な自己愛ならば、きっと僕の手にあるのだろうと思う。でも、なぐられたら殴り返すほどの自己愛をまだ持ち合わせていない。

 4月も終わり、5月に入ろうとしている。社会人になって1カ月が経とうとしている。新しいことだらけで、日々身体が付いていかないと錯覚するような浮遊感があるが、頭は回っているので何とかなっているという感じだと思う。

 研修中、いろんなことがあった。でも僕はそれらを漫然と忘れていくのだろうと思う。お局さんのようにはなりたくはないが、記憶は持てても実感を持っては時の流れを進めないのが人間だ。仕方がない。だからこそ、僕らとベテランの感覚は違うのだろうと思う。

 別に、嫌がらせをされているわけではない。勿論相手も悪気があるわけではない。僕も不思議と相手に対しての苛立ちがあるのではないのだ。理性においても、本能的な面においても感覚が違うということを理解しているし、僕は未熟で、相手が経験が豊富なんだということも、立場が根本的に違うということも全て理解している。

 だから、正確に言うと嫌気がさし始めているのは自分にだ。思ったことができない自分に、立場をわきまえられない自分に、そしてそれでいて、平気で人の心を踏みにじるくせに、大切な時に対立を恐れている自分にだ。

 いつも、自分の事を低く見てしまう。いや、正確には高く見積もってしまい、何も達成できない自分に嫌気がさす。そして周りと比べて劣っている部分ばかり目につく。また自分に嫌気がさす。自分は何もできない人間だと思ってしまう。そのくせ、そうした現実から目を逸らそうと、また他人のことを否定してしまう。ただ自分を守るという低俗な理由で。

そうしてどんどんと泥濘の中を、必死に息継ぎしている感覚になっていく。

泥の中を粘度の高い泡が、ぽつぽつと浮かび上がる。

 人に虐げられた時、僕は他人を殴る想像をする。幼い時は殴っていたと思う。少なくともモノによく当たっていた。ものをよく壊す子どもだった。でも、大人になるにつれて実行はしなくなった。そうした行為は全然格好よくないし、反社会的だったからだ。皆が通る道を僕も歩んだ。

 それなのに、何時まで経っても人を殴る想像を辞められない。これはきっと高野悦子の言うところの自己愛ではないと思う。ただの防衛反応だ。ただひきこもって、自分は自分、他人は他人と割り切った上で他人に届かないところで陰湿に他人と自分を切り離す行為だ。傷つきたくないから、傷をなかったことにしようとする行為だ。これは卑怯だ。こんなものは自己愛とは言えない。本当の自己愛は、他人に殴られ、なぐり返して、また殴られて、それでも立ち上がって殴る、それこそが自己愛なんだと思う。そしてそれは僕にはまだないものだ。

 5月。桜の葉が揺れる季節。青々とした木々に誰も見向きもしない。僕らみたいな存在だってそうだ。見慣れた風景に溶け込んでいく。それでも、僕はいつも何か不足を感じるから、辺りを見渡しては新しい発見をする。そうした生活がいいのかもしれない。

 だけど、同時にこうも思う。このままでは自分の輪を広げることができても、あまりに壁が高すぎると。

 殴られたら、殴り返すほどの自己愛とは、きっと自分を受け入れる事、すなわち他人を受け入れることから始まるのだ。他人と全く関わらなければ殴られることもなければ、殴られたことにも気づかない。ましてや殴られても殴れないのだ。何故なら、別物と割り切ってしまうから。

 だから、僕は他人を受け入れなければならない。

 だから、僕は殴られたら殴り返してやらなければならない。

 それくらいでなければこの荒い社会の中で、僕は生き残ってはいけないのだ。

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