今日は人間の姿を見ないでいい日だった、うれしい(。-∀-)

今日は家でしないとならないことが多くあったということもあり、「中で仕事をする日」という感じになりました。外は晴れていていい天気でしたが、昔だったら、こういうことは雨の日に行うことかもしれません。今日はたまたま、そうだったというだけです( ´∀` )

引きこもりといえばそうなのですが、最近はそういうふうに言われることもあまり気にならなくなりました。引きこもりを問題視する人が「自分も引きこもりたいから」「引きこもりという状態を見せつけられて、自分の中にある不安を掻き立てられるから」という仕組みがある、ということに気づいたからです。

今日の私のような状態も、まぁ見ようによっては「引きこもり」なのでしょうが、そうやっていることで、なにか社会に問題を起こすのかな? というと、絶対にそんなことはないわけです。

タイトルに「人間の姿を見なくていい日だった、うれしい」と書きました。これは私の表現ですが、「人に接するほうが疲れる」ということが多くあるので、接触を断って自分を整え、充電する時間が定期的に必要です。

人との接触を断っている様子を「引きこもり」と形容するのかもしれませんが、そう言っている人ってよっぽど寂しいんだろうな、と思います。なんで、一人でいることに耐えられないんでしょうね?

引きこもり(っぽい)様子を問題視される経験もあるにはありますが、あー、前者って大陸の世界観だもんな、断絶されたようで、怖いんだ……と、なんとなく哀れみのような目でも見れるくらいになりましたꉂ(ˊᗜˋ*)

前者と後者という、人間観の仕組みの違いを知ってから、「だって私、後者だし……(引きこもり? えっ、それがなにか?)」というふうになりました。

「人の姿を見なくていい日」は、後者が「水中に入った状態」というふうに表現されるのでしょう。実際、開放感でいっぱいです( ´∀` )もともとそっちが住処だからですね。

これを、「寂しそうだったから」「一人じゃかわいそうだと思ったから」という理由で引っ張り出そうとしてきたら、そっちのほうが暴力だな、と感じます。生態に沿った行動をしているだけですよー!

軽く料理を作って、お風呂に入って、洗濯して……という、一切、人の姿を見ない、充実した時間を今日は過ごすことができました。(*^-^*)


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