「人生は死ぬまでの暇つぶし」と言うと反論してくる人たちは、なぜそう反論するのか【考察】
ブログに以前書いた【ピンポン】あなたが負けて悔しいならば勝ちは譲りますという記事の元ネタである『ピンポン』では、物語の序盤のほうで登場人物の1人であるスマイルが、「人生は死ぬまでの暇つぶしだ」というようなセリフを言うシーンがあります。
私はどちらかというと「人生は死ぬまでの暇つぶしであっていい」と考えているタイプです。『ピンポン』の中では、そう言っていたスマイルは卓球に目覚め、青春のすべてを卓球に賭けていく姿勢に変わっていきます。
そういう姿を見て共感もします。作品を読んで、「あぁ、才能を発揮できるものと出会えてよかったね」とも感じます。
ただ、私にとっては「スマイルにとっての卓球」のようなものがあったとして、それで私は本当に幸せなのかな? というのが、ものすごく疑問なのです。
毎日スケジュールをきっちりこなす医師と、気が向いたときに書を書く書道家
先日、母と電話で話しているときに、母が以前見たテレビ番組のことを話していました。
「2人が対談してる番組だったんだけどね、1人はお医者さんで、もうずいぶんとお年を召されているのに、今も予定表が毎日いっぱいというスケジュールをこなしてるんだって。もう1人の人は書道家で、『僕は毎日何の予定も決めずに起きて、気が向いたら書を書いて、あとは散歩をしたり庭の草取りをしたりしてるんです』って言ってたの。学校の教育なんかではカッチリと、決められたことをやれるようになりなさいというけれど、そうしないほうがいい人もいるよね」
母はそう言っていました。
母の話を聞いた私は「うーん、私はその書道家の先生のタイプだろうね」と言いました。
人間には2種類の人間がいる。
たぶん、「人生が死ぬまでの暇つぶし」と言って反論する人は、母の話に出てきた医師の方のような日々のパターンが脳に合っている方なのだろうと思います。
「自分はスケジュールをきちんとこなして(いくことに快感を感じるのに、なんであなたはそうじゃないんだ!?)いる」という方からすると、書道家の方のような人は「劣等生」のように見えてしまうのでしょう。私も、劣等生であるというふうに見られてきた時期を長く経験しました。
ここで重要なのは、書道家の方のようなパターンを許容することだと思います。最初から、「前提が違う」ことを認識したうえで話をするというか。
ともすれば、書道家の方は医師の方から見たら「劣等生」に映ってしまうかもしれません。
ですが、書道家の方から医師の方を見たら、そして「自分と同じようにしろ」と高圧的に接されたら、医師の方のことを「自分を尊重しない暴力的な輩」と認識してしまうようになっておかしくないといえます。
この話の医師と書道家の例と近いことが、身の回りでもたくさん見受けられると思います。社会はどちらかというと、医師の方のようなやり方を歓迎するものでしょう。毎日決められたことを着実にこなす能力がある人は問題ないです。そこが「住む水」でしょう。
現代の日本社会のマジョリティは医師タイプの人
書道家の方は医師の方から見れば劣等生に見えるかもしれませんが、もし、社会のルールが今の日本ではなかったら、――つまり海外だったり、ユニークな個性を持っていればいるほど社会的ステータスが高まるような社会の仕組みだったら、医師の方は途端に「劣等生」になってしまう可能性があります。
現代日本は医師の方のような人が多数といえます。しかし、マジョリティが書道家の方のような人になっていったら、そのときに医師の方のタイプの人は生きづらさを感じることになるでしょう。
大事なのは、自分が「住む水」に対し、正しい選択をしていくことかな、と思います。医師の方のタイプの人はスケジュールをきっちりこなす「水」の中で過ごせばいいし、書道家の方のタイプの人は「毎日予定は決めないで、気が向いたら書を書く」という「水」の中で生きれば、問題は発生しないはずです。
書道家タイプの人を批判するのは、「本当は自分も書道家タイプなのに、無理して医師タイプになろうとしている人」
タイトルに書いた「「人生は死ぬまでの暇つぶし」と言うと反論してくる人の正体は、「本当は書道家の方のようなタイプだけど、無理をして医師の方のタイプが歓迎される水の中に住んでいる人」かな、と思いました。
要は、「自分に合わない水の中に住んでいて、無理をしている人」が、書道家のタイプの人に接したときに「お前はそんなんじゃダメだ、(俺と同じように苦しんで)毎日キッチリとスケジュールをこなすようにしろ」と、暴力的な押し付けをしてしまうんじゃないでしょうか。
「嫉妬」の感情とは複雑なものだなぁと、改めて感じます。「お前のための思って」のお説教なんかも、根底にある感情は「お前がうらやましい、俺より幸せそうにしているお前は許せない」だったりしますからね。もし、そういう感情を元にお説教してくる人が現れたとしたら、放っておいて自分だけ幸せになればいいのだ、と私は結論付けています(笑)
「今の社会には寛容さが足りない」という言われ方もニュースでは使われますが、寛容になるには、まず誰でもが「あった水(環境)」の中で生きられる社会の存在が必要だと考えます。
そしてもし、少し時間がかかっても「医師タイプの人は毎日キッチリスケジュールをこなす水の中で、書道家タイプの人は気が向いたら書を書く水の中で生きる」というのが当たり前の社会、当たり前の個人の選択として尊重される社会になっていけばいいな、と思います。
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