◆コラム◆お風呂に入って考える。「テーマ:幸せ」byふうね
ゆるてつ後、お風呂に入って考える。
今回のテーマは『しあわせ』
最初の問はあらかじめ決めさせてもらった
「あなたの幸せは?」というもの。
最近読んだ『また同じ夢を見ていた』の
主人公が通う小学校の授業で取り組む課題から
お借りした。
しあわせのゆるてつから、
自分は普段「幸せかどうか」なんて
気にして生きていないことに気付く。
もっと言語外の感覚的な、快・不快で
判断している気がする。
更に言うと、わざわざ一人でいる時に
「これは喜だな」とか「これは怒だな」とか
そんなふうに認知したりしてない。
言葉にして認識せずにぼんやりと感じている。
きもちいいな〜とか
なんか良い気分〜とか
逆に、なんか嫌だな〜とか。
それによって脳の情報処理のキャパを
確保することにより
なんとか世界に置いていかれずに
生きていけているのかも。
いちいち言語化して認識してたら
世界の速さに私の脳はきっと
全く追いつけない。
でもぼんやり感じている事は
ぼんやり忘れていく事でもあって
穴の空いた器みたいなイメージがある。
だからこそ他人と会ったり話したり
一緒に過ごしたりすることが
人間は好きなんじゃないか?と思う。
もちろん全然一人でいる方が好き、
という方もいると思うけれど
私の周りの人達は、
結構 芯では人が好きだろ この人
と見ていて感じる。
他人と会うと否応なく
「これ美味しい!」とか
「良い天気だね〜」とか
会話が必要になり、
(間を持たせるためのものであっても)
それには言語が必要で
ぼんやり感じていた感覚を
言語化するコストをかけて
他人と共有できる形にアウトプットすると共に
私自身もその言語化を通して
その現象を改めて認知するんだと思う。
言語化したものは、もはやそのものとは
異なった性質を持つ別物な感じがして
その2つの間にはギャップが存在するけど
そのAからA'になったものと
出会い直すような。
そうやって「言語」という形に
入れこまれた事象や感覚は、
自由さを失うしコストがかかる反面
形を持つことで共有可能になり
留めておきやすくなる。
私のように一人でいる時に
言語化コストをかけずにぼんやりと
感覚で生きているタイプの人は
人と会ったり 言語化することによって
世界と出会い直していくのかもしれない。
ひとつひとつ器に空いた穴を
埋めるように。