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【ゆるてつメモ】2024.10.16「いい感じの他人の心配、いい感じのおせっかいとは?」(byゆーへー)
【テーマ】フリー
【問いだし】
①ポリコレは必要か?
②多様性との付き合い方について
③〇〇の反対は?
④いい感じの他人の心配、
いい感じのおせっかいとは?
【哲学対話】
・インスタの本紹介は
おせっかいだと思ってやってる。
ゲーム日誌もネタバレしている。
作品のすばらしさを伝えつつ、
結果おせっかいになってる。
相手に良くしてあげたい、と、
自分でしたい、のジレンマがある?
善意でおなか一杯になって
病気になるような。
この世からおせっかいは
なくならないんじゃないか。
多様性なんか認めない
という多様性を認めてほしい。
多様性を認めたくない人たちからすれば、
今の多様性を守る動きは迷惑なおせっかい。
・めっちゃわかる。
まずそもそもの前提として、
「多様性」という言葉を
自分のために使っているような
「ファッション多様性民」がいるから
「多様性」という言葉に
マイナスイメージがついてきている気がする。
もともとの使われ方は、
立場の弱い人の言葉を
拾い上げるためのもの
なんじゃないか、と思う。
その使われ方のギャップに戸惑う。
「多様性」弱者の社会的地位のためのもの。
「おせっかい」はもっとクローズなもの。
・何がおせっかいになるか。
リトマス紙のようにグラデーションで
判断されるようなものかもしれない。
ものたりない、たすかる、ぐいぐいくるな、
など、酸性・中性・アルカリ性のような
グラデーションがある。
関係性ができていることが重要で、
関係性のない状態でのおせっかいは
リスクが高い。
SNSのコメントなどでも
余計なお世話が起きやすい。
それは関係性がないから。
・逆に自分の場合は、
関係性がある親からされたことのほうが
関係性のない人からよりも
個人的にムカつくこともあった。
親の言う「あなたが心配」には
「あなたを信じていない感」がある。
最近は、
そのような親の心配やお節介に対して、
感謝だけして受け取らない対応なども
出来るようになってきた。
・おせっかいの根底には何がある?
親切心なら何しても良いのか?
水戸黄門の紋所みたいに
「どや!」って感じる言葉、
行動は割と多いと思う。
相手のニーズが汲み取れて、
それに対してうまく供給ができたときは
「良い助けだった」と思うけど、
相手のニーズが汲み取れる機会なんて
そうそうないし、
多様性社会はその「汲み取れなさ」に
拍車をかける。
関係性ができている相手に対しては
「自分がやりたいから」というだけでは
良いおせっかいにはならないのではないか。
・親から言われてムカつくこと、
信じられてない感を感じることがある。
自分の気持ちや考えを無視されている、
と感じるからムカつく?
関係性があるから期待するけど、
なのに信頼されてないんだ、
ってことがムカつくのかな?
・おせっかいの根底には「自衛」がある?
お節介することで相手からの危害を抑えて、
自分の自尊心みたいなことも守られる。
・いまが多様性の時代なら、
もっとぶっ飛んだ人がいても
いい気がするけど、まだ見かけない。
ズボンを上に着てる人とかは、
まだ見慣れてないからびっくりする。
スカート履いてるおじさんは
今のところ黙認されている。
隠されているぶっ飛んだ人を
いったんさらけ出してみんなに慣れさせる、
というのはどうだろうか。
今の多様性が、オーケーな多様性、
許容範囲の多様性だけが認められている
感じがする。
見たことのない異端児を開放して、
許容範囲外の人もいることを知る機会が
あったほうが良いのではないか。
「本来の多様性」みたいなものが
認められるのでは?
危害を加えることではなく、
存在を認める多様性。
・「LGBTQ」などの「名前」を付けることで、
管理しやすくしているような気がする。
ジャンル化して、ハッシュタグつけて。
最近の恋愛ゲームでは同性とでも付き合える。
段々と、管理できる多様性は知らぬ間に
浸透してきていてちょっと怖いなと思う。
今と真逆の概念(日本男児、富国強兵)が
日本に浸透していた時代もあった。
その時代の人たちが
今の社会を見てどう思うか。
・異端児性は自分の中にもある。
「危害を加えないならOK」は、
危害の度合いも人により
グラデーションがある。
社会の中で多様性を認めよう、
という動きによって
逆に我慢する人も生まれるのではないか。
カテゴリーの中でも、相手のニーズを探って
おせっかいの帳尻合わせをする必要がある?
社会的な多様性は手に負えない、と感じる。
目の前の人とのやり取りのほうが
現実的に感じる。
・個人的な関係性の集合体が社会。
個人的な関係性は実体があり、
それが集合体になるにつれて
実体が無くなる気がする。
個人的な関係性すら結べない存在にとって、
その結べない原因が実体のない社会にある
気がする。個人的な関係を結ぶ土台にすら
上がれない人が異端児なのかなと思う。
・社会的な地位が50の人と
ー50くらいの人がいて、
-50の人がー30になっただけで
下駄はかせてると言われるし、
50の人が30になろうとはしない
と思うから、
フラットにすることは
難しいなと思う。
・名前がつく前はあいまいで
あやふやだったものが
多様性の土台で名前がつくことで
認知される。
人は、名前を付けることで
安心したいのかもしれない。
「発達障害」などの名付けもそう?
名前を付けて安心するだけでなく、
関係性のなかで受け入れあっていくのが
多様性の本来の形なのかな。
アメリカの多様性と
日本の多様性も違うと思う。
文化の違い、移民の有無などでも
使い方が変わる。
日本で使われると、
「多様性」が「何でもあり」になるのかな。
今まで築いてきた倫理やモラルが
なくなるような、
蓋をしていた本能が
解放されるかもしれない感覚?
資本主義の構造では
分配が上手くいかないと思う。
分配という考え方から
資本主義の構造を打ち壊し、
多様性の世界につなげていけるかも?
【感想】
・認められるマイノリティは
ある程度マジョリティになる必要がある。
みとめられなくてもいい、
はやらなくてもいい、
俺一人でいい、
という方向性の人もいると思う。
認める側の懐の深さアピールの感じも
不快感につながる。
認めたり認めなかったり、そんな動きが、
歴史が繰り返されているように感じる。
・気になってるトピックスなので、
たくさんしゃべってめちゃくちゃ楽しかった。
認めるって言いつつ、見ないふりしてる、
が現実的でいいのかもしれない。
・すごくおもしろかった。
病院での診断について、
「普通はこうする」と先生に言われて、
「普通」の嫌な使い方をされたと感じた。
マイノリティの中にもマジョリティがあって、
そこから攻撃を受けた感じ。
・どう語ったら良いかをすごく考えた。
「社会的な」と言われると、
自分がどうしたらいいか、
どう語ればいいかが分からなくなる。
「関係性を結ぶ」ことがキーワードだと思う。
自分の目の前にいる、実体としての相手と
どう関係性を結ぶか、が大事だと思う。