嘆き。
ある時、娘に聴いたことがあった。
今、身体を置く場をいくつか持つ中で、何を体験したり、何を思っているのか。
私は自分の育ちからも何か体験できることが良しと思っているところがある。
その視点がありながら、何もないように観える娘に何があるのか知りたかった。
友達に会っている。
その場にいる人とその時あることを話す。
漫画を読む。
本を読む。
時々、嫌な対応する人がいる。
たまに違う体験をする。
タブレットをみる。
ゲームをする。
…。
私の経験した同じ時期からはたくさんの”ない”がムクムク声をあげようとする。
そんな体験があって、どんな感じ?
「精一杯」
絞り出して放って伝わってきた言葉が深く深く入ってくる。
「精一杯」なんだぁ…。
ぐわぁーん…と飲み込まれる感覚に襲われた。
「精一杯」なんだぁ…。
私にはない感覚だった。
でもそこで一緒に潜る感覚にも入っていった。
そうか、そうなのか…と。
それが今の娘なんだなと。
私にとっては生きるチカラがないような、グゥーーーっと潜るような、海の底に引っ張られるような感覚。
でも、娘はそこを生きている。
生きている。
深い海の底で何が見つかるだろう。
深い海の底のように感じている私だけど、娘はそこに何を観て感じているんだろう。
私にとっては”深い海の底”でも、娘にとってはお花畑なのかもしれない。
人間の観るもの、感じるものは、それぞれ。
私は娘ではないし、娘は娘の人生を歩んでいる。
その母親であることから来るさまざまな痛みは漂わせておいて、
共に生きるわたしとして、娘の生きる深い海なのか、お花畑なのか、勝手な妄想だけど、一緒に、漂うなりスキップするなり、共にいることは間違いない。
漂いながら、スキップしながら、それでも、娘の瞳が輝く、エネルギーが湧き上がる、何か、それを一緒に、いつか見つけられたらと思う。
あ、エネルギーが湧き上がらなくても、一緒に喜んで、一緒に悲しんで、ただ、共に、いたいんだ。
それ
だ。
それだったんだ。
今あるエネルギーのまんま
描いてみた。
手に委ねてみた。
何もなく、ただ、これだった。
すると、ふと、繋がった。
昔、娘が小さい頃、透明なビニールを黄色に塗りたくって黄色のてるてる坊主にした、黄色。
娘は何も変わっていない。
何も失っていない。
光のまんまだった。
そのまんま生きたいんだなぁって、わかった気がした。
繋がった気がした。
頭ではわからなくなることがあっても、魂で繋がった。
なぁーんだってなった。
何も探す必要もないし、求める必要もない。
ただそのままありのままに生きたらいいんだなって思えた。
この命、ありがとう💖