優しさで自分を観る
ある日、こはるちゃんがわたしのFacebookライブを見てわたしの顔を描いて、Facebookにアップした。
それを見て感じたことと、仲間を通して受け取ったもののことを書いてみた。
実は、わたしはじぶんの姿に自信がない
自分が他者からどう見えるかということを、考えてみたことがほとんどなく(見ないようにして)ここまできた。
頑固に持ち続けている自己像は、「この人生で若いうちに叶えられなかった願いを取り戻そうとあれこれ力んで頑張って空回りをやらかしている、年甲斐のないおばさん」
自分を形容するのに行き着く言葉は「みっともない」(😭)
だから。じぶんのFacebookライブを見返すなんてこと、なかなかできない。こわいから。
こはるちゃんの絵がアップされた時、一目見てガクゥと力が抜けた。
あぁ、やっぱりって思った。
そうじゃないかと思ってたよ。わたしってこうなんだよねぇって。
だけど、同時になんともいえないあったかいものも感じたのだ。
だから、勇気を出してライブを見返した。
こはるちゃんの絵に表れているあったかさはどこから来るのだろう。みっともないおばさん以外にわたしを表す要素が、私が配信した動画のどこに現れているんだろう。こんなにジャッジしている自分をジャッジのない他の誰かが観たら、そこに何が映って絵に表れているんだろう。
そう思って見直したけど
張りの抜けた年齢肌
ボサボサ伸びかけのショートヘア
山登りして大汗かいた顔をカメラに近づけて、これまたぼさぼさの眉毛を無防備に晒した姿があった。
自分のジャッジは頑強だった。
「もう見たくない」って思いながら、不思議にもあのあったかさを同時に感じてもいた。
なんなのだろう。
絵を観る。
ライブ動画を観る。
そうしているうちに、たった今を生きている自分のことを、思える瞬間があった。
こはるちゃんが描いてくれた絵を通して、私が持っているいろいろ・もろもろの思い・暮らし・命の動きを感じて
「これは、流しちゃいけない」という氣持ちになった。
逆転
泣けるなぁ
汗みずくになって山登りして
歌を歌って
スワイショウして
自分の世界に繋がろうとしている
その自分で誰かと繋がろうとしている
熱心にあれこれトライしている、そういう自分のことを、これ以上ディスったらあかんのやなぁ
そうやってまた絵を観たら
生きているわたしのヒトコマを、こはるちゃんがキャッチしてくれたんやとわかった
そして
そういう人、ほかにもきっといるんだろうなと思った
胸がいっぱいになる。
「だから、生きていられる」
わたしが誰かを見た時に感じる「美しい」という思いは、その人のヒトコマをわたしが受け取れたってことなんやな。
そして・・・
いつも、いつまでも
今のわたしといっしょにいたいと思った。
こはるちゃん、描いてくれてありがとう。
わたしと一緒にいてくれるみんな、いつもほんとうにありがとう。