蜂の残した針 4話
皮を剥き、食べやすいように小さく切った桃を、ガラスの器に盛って出した。
此紀は「別に果物など食べたくない」という顔をしていたが、色舞が強く勧めると、フォークで刺して口に運んだ。
「ほう、おいしい」
「水分が足りないのですから、摂ってください。唇がかさかさですよ。お茶も召し上がってください」
アイスティーをふた口ほど飲んでから、此紀はつぶやいた。
「カフェイン入った飲み物は水分補給に向かないわよ。利尿作用で、赤字になることがあるわ」
「存じていますから、それはカフェインレスのものです」
「そう、ありがとう」
今、酒はそれほど入っていない。薬は少し飲んでいるようだった。どちらも抜けている時の此紀は、出された茶に文句をつけたりはしない。
そのことを色舞は悲しく思う。化学的な働きで、性格は損なわれてしまうのだ。性格。それは何だろうと考える。もっとも長い時間、表出しているもののことを呼ぶのではないか。
もちろん、本当は素面においての言動を指すのだろう。それが性格と呼ばれるもののはずだ。しかし、日にいくらも表れないそれは、果たして本質と言えるのか。
九十年を悪辣で通した者が、死ぬ前の数年だけ善良になったところで、その生涯は悪と呼ぶべきであろう。何を成したかだ。それは規模で測られる。大きさ、あるいは長さだ。
此紀はもちろん、悪ではない。医者で、多くを救った。しかし今、自分自身のことを深く損なっている。
そのために車の運転を禁じられ、従者を取ることも禁じられ、ほとんどの薬品に触ることも禁じられている。自分で自分を籠の鳥にしていた。自傷行為だ。此紀が酒浸りになる前は、自傷というのは手首を切ることのみを指すと思っていた。喉が焼けるほど酒を飲むこと、自身の選択肢を減らしていくこと、多くの男と寝てしまうことも、自らを傷める行いであるのだと知った。
色舞はこの医師のことを、伯母とも姉とも思っている。家族というものは自分の一部だ。だから傷付けられると痛い。そのことをわかっていても、此紀は傷付ける。それが悲しい。
依存症は、患者の家族にとって、台風のようなものだ。悪意はないが暴力であり、被害に苦しむ。
「今日はお買い物にでも行きませんか。イオンに行ってカルディに行ってスタバに寄りましょうよ」
「高校生のカップルのデートね」
「高校生はイオンに行く足を持たないのでは?」
「シャトルバスとか出てるんじゃないの? 老人にも必要でしょうし」
此紀はテーブルの上の煙草に手を伸ばしたが、色舞がいるために止めたようだった。
「イオンなんかに用事はないわよ。クラブに行きたいわ」
そんなところに行けば酒を飲むし、薬もやることだろう。男も引っかけるはずだ。ここから出す意味がない。
余命はいくらもないであろう女だ。好きなようにさせてやりたいという思いと、少しでも長く生きてほしいという思いがある。父は前者に、色舞と兄は後者に比重が寄っている。どちらが正しいということでもないのだろう。
「何か召し上がりたいものは他にありますか? 洋梨はいかがですか。蘭香に頼めばタルトにしてくれます」
「果物のタルトって意味わかんないのよ。果物の酸味が強調されるだけで、タルト部分が要らなくない?」
甘い菓子に興味のない者の意見だ。スープでも持ってきた方が食うだろう。
「男のご要望はありますか。今すぐは無理でも、夜ならば来られる者は居ると思います」
「松本を」
「あの方は無理ですよ。最近髪を切って、みなが美しさに気付いてしまったのですから、もう札束ビンタでも来ません。諦めてください」
「じゃああんたの父親でいいわよ」
女ならば誰もが望む父を、インスタント扱いである。色舞は構わないが、蘭香が聞けば地団太を踏むだろう。
「では夜には父を寄越しますので、それまではお酒も我慢していただけますか?」
「夜までは約束できないけど、三時に診療の予約があるから、そこまでは飲まないわよ」
アポイントがあれば飲まない程度にはまだ理性がある。いや、理性の問題だと思った時点で本質からは遠くなる。依存症は脳の損傷だ。理性――つまり意志や根性、そんなものでは御すことができなくなる、その状態のことを言うのだ。色舞はつい最近そのことを知った。
此紀はまだ末期の症状ではない。しかし、それに近付きつつある。
他者が心の傷を癒すことはできない。そばで見守ることが、唯一最大の助力だ。父はずっとそれをしてきた。だからまだ此紀は、脆くはあるが自分の足で立って生きている。
騎士にはなれない。女である色舞には寄り添うことさえもできない。ただ見る。見つめる。
此紀は目をそむけた。
「わかったわよ……夜までは飲まないわ」
「私も兄も様子を見に来ますからね。約束を破ったら、怒りますからね」
「はい」
約束は、必ず守られるわけではない。だが守ろうという努力は成される。
「約束を破ったら、朝露をここで泣かせますよ」
「それは本当に勘弁してよ」
頭痛を覚えたように額を押さえている。実際、痛むのかもしれない。それを麻痺させるためにまた酒を飲むのだ。
地獄と呼ぶにはとても浅い。しかし、確実に類する。光が見えないところが特にそうだ。
此紀の世界を覆った、その面識のない男のことを、色舞はずっと憎んでいる。
自分の師は変わり者だ。
雨が好きで、降っていると見るや、ビニール傘をさして庭へ飛び出していく。五歳やそこらの男児と行動が同じなのだ。変わり者というのは最大限の配慮をほどこした形容であり、実際は放送禁止用語を思い浮かべている。
師の父は、傘をくるくると回す子の姿を遠目に眺めながら、平淡な声で言った。
「あいつ気が違ってるな」
同調も否定もできず、梓土はあいまいに笑ってやり過ごした。得意技だ。
梓土が出したばかりの茶を飲みながら、弥風はあぐらをかいている。長居するつもりであり、梓土は姑の訪問を受けた嫁の気分を味わっている。
しかし、長老である。男に金を払いたくないというモラハラ全開の師に代わり、梓土にたまに小遣いをくれるお大尽でもある。早く帰ってほしいという心を押し隠して、アルカイックスマイルで対応する。
「お菓子もいかがですか」
「食ったばっかりだからいい。そういやお前に、僕から給料を出すことが幹部会で決まった。お前の口座に毎月二十五日に振り込む。いちいち僕から受け取ってペコペコするのも嫌だろ」
「え! ありがとうございます」
あと何時間でも居てくれて構わない。抱かれてもいいと思った。
師の悋気で愛人と別れることを命じられた梓土には、現在、収入源がまったくない。道楽者の娘を抱えて、前の師から借金をすることで何とかやってきたのだ。弥風が定期収入を与えてくれるのならば、その借金も返していける。
右近はおそらく、返ってくるものとは思っていないだろう。だからこそ返さなければならないと梓土は思う。正確な金額も帳面につけていた。
「私の口座などお伝えしたことがありましたでしょうか」
「身上申告の書類に書いてあったヤツだろ。別の口座がいいか?」
「いいえ、そちらで大丈夫です。ありがとうございます」
「あいつは馬鹿なんだ。雨が傘に当たる音で喜ぶし、男は縛れば逃げるってこともわかってない。だが、馬鹿なら裏切っていいってことにはならないからな。満了まではちゃんとあいつの面倒見ろよ」
やり方、いや、やり口をよくわかっているなと、梓土はしみじみと思う。くるくると傘を回してご機嫌の師とは違う、海千山千の老獪な男だ。こうした手回しに通じるからこそ、今日の地位があるのだろう。
もっとも長く生きた者が長老と呼ばれる。通念上、そういうことになってはいるが、実際はいくらかややこしい。
禁治産者と判断されれば、序列を飛ばされる措置を受ける。それは当然のことである。認知症の老人に一族郎党の全財産を持たせる者はない。
判断する者がいるということだ。序列番付は覆面委員会によって編成される。次の長老はどうやら神無にはならないらしいという噂は、梓土のような若い男でも耳に挟んでいる。
きっちりと権利を勝ち取った長老は、携帯電話を操作していた。その画面に表示されている文字はかなり大きい。師と同じだ。老眼なのだろう。
「もらいものの桃がある。台所に」
何かを読み上げたのか、梓土に伝えているのか、両方なのか。返答を考える。
「お持ちしましょうか」
「お前は果物の皮なんかを剥けるのか?」
剥けないだろう。そうか、桃という果物は皮を剥く必要があるのか。切り分けるくらいならばできる、という程度のイメージを持っていた。
「僕が若い頃は、水菓子の用意もできないなんてのは許されなかったけどな」
老害構文である。
「老害構文だと思っただろ」
「いいえ、そのような」
「許されなかったっていう事実を思い起こしてただけだ。お前に桃を剥けなんて言ってない。万羽は果物とかをあんまり食いたがらないだろ。ならどうでもいいことだ」
ではなぜ桃の話をしたのだろうか。
長老は梓土の頭の回転の遅さを見限るように、ため息とともに言った。
「お前の子は食うんじゃないのか? 置いておいても、蘭香が不味い菓子にするだけだ。自由に食っていい」
「あ、ありがとうございます。伝えます」
親切であったらしい。無邪気だが気の利かない師と違い、邪気に満ちているが心配りがある。似ていない父子だ。顔の系統も違う。
目だけが唯一、似ていると感じるパーツだ。形や色素は異なる。師の虹彩は淡く、その父は暗い。しかしどちらも瞳孔が開いていて、猫化の獣のようだ。恐ろしいと梓土は感じている。瞳孔が開いているという形容は、視覚的な事実であるが、悪口に類するような気がする。それこそ、気の違いようを示すことに使われる言葉だろう。
どちらも実際、尋常の精神の持ち主ではない。そう知っているから、梓土はしみじみと恐ろしさを噛み締めることになる。
外見の印象は、内面のありようと比例しているものだ。若い頃から梓土はそう確信している。美醜の話ではない。異様さを放つ容貌の者が、凡庸な性格であるはずもないということだ。
甲高い、悲鳴のような師の声が響いてきて、腹の底にある石が重みを増した。そこを押さえて腰を上げる。そうしなければ目の前の男、実質上の雇用主に叱られるであろうからだ。
見れば師は、傘を放り出して犬とじゃれ合っていた。つまり泥だらけで戻ってくるので、タオルが必要である。風呂は、この時間では湯が張られていない。シャワーで洗い流すことはともかく、その後のドライヤーの手間を考えると、舌打ちが漏れそうになる。化粧も落としてまた施すのだろう。師が鏡を見ているあいだ、梓土はそばで黙って微笑んでいなければならない。
美しい女に可愛がられて羨ましいと言う者たちに、この日常のわずらわしさが想像できようか。まるきり、姫の機嫌を取る侍女である。給料はようやく出るようになった。侍女どころか、奴隷の待遇であったのだ。
夜も務めがある。その億劫さが、駆けて行って傘をさしてやるべきだという理性を鈍重にする。
「ほっとけ」
だからその乾いた声には救われた。その場に座り直す。
「マメで嫌な顔してる男より、放っといていいから感じのいい対応をする男の方が、あいつは気に入る」
「……左様でしたでしょうか」
師は梓土をマメに呼び出し、マメに用事を言いつけ、マメに振り回しているが。
その父は疲れたように目を閉じた。
「自分の好みや望みをわかってる者は珍しい。自称することは必ずしも事実じゃない。新興宗教がポコポコできる理由だ。少し人智に通じてりゃ、絶望も不安も簡単に救えることがある。だからそれを売る。経済活動としちゃそう悪くない作りのはずなんだが、救う側が過剰に欲を出すから、どうしても透明感に欠けるんだな」
――興しているのだろうか?
この男は会社を経営している。紙製品の製造だか流通だかを業務としているらしいが、実情など梓土は知らない。
その利益から給料を出してくれるということだけが大事だ。折り紙を売っていようが救いを売っていようが関係なかった。
「あいつの内面なんかについては、深く考えなくていい。外側のケアをニコニコしとけ。それでいい」
重要なことを伝えられていると感じた。もう何年も師の世話をしているが、この一言を最初に聞きたかったと思う。
――だから商売になるのか。
方針を導き、価値観を変え、心を救う一言。千金にもなろう、その言葉。
師はそうした言葉を発するまいと、軽蔑とも信頼ともつかぬ気持ちで、梓土は考えた。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。