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蜂の残した針 13話


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 無職の朝は早い。

 松本は健康で長生きをしたいタイプの怠け者である。
 朝は九時には起きて──相対評価で早いのだ──セロトニンを出す目的で、日を浴びながら屋敷の周りを少し歩く。

 水を飲みながら、そして鈴を鳴らすことも忘れない。このあたりには熊が出ることがあるのだ。

 少し登れば雪も残る山中といえども、今の時期は歩いていれば汗ばむ陽気だ。水辺でも眺めて涼を得ようと思いつく。

 ささやかな沢まで出て、松本は一瞬、だりっと思った。
 誰かがいる。川岸に、腹でも切るのかという白装束で、しかも全身が水に濡れていた。
 落ちたのかと思ったが、タオルで髪を拭いているから、浸かろうと思って浸かったらしい。きもっと思う。松本は自分が慣れないことをすぐに嫌悪するタイプである。知性に欠けると従妹から言われている。

 まさか山伏ではあるまい。屋敷の者であろう。知らぬふりをして去ろうかとも思ったが、向こうが先にこちらを捕捉した。

「誰だ?」

 ああ、マジでだるいと松本は息をついた。

 長老である。先ほどはタオルで顔が隠れていたからわからなかった。

 しかし、誰だとはどういうことであろう。こちらから見える以上、向こうからも見えているであろうに。考えてから察した。二択のどちらかと問うているのだろう。

「杉本です!」

 元気いっぱいに嘘をついて、仕方なく近付いた。気難しい老爺であるが、松本や杉本に対してはなんとなく寛大なのだ。

 しっとりとした長老は怪訝そうな顔をする。

「こんなところで何してる?」
「日課の散歩を」
「じゃあ松本じゃねえか。お前、いつも反射的に嘘つくなよ」

 てへぺろをしておいた。

 長老は平気で全裸になり、洋服に着替えた。そして命令を下してくる。

「これ持ってこい。西帝に渡せばいい」

 濡れた浴衣とタオルのことである。そんなもんを触ったら松本の着物が濡れる、嫌だと思いはしたが、仕方なく持った。そうしてから、まさか、ここから屋敷までの数キロを二人きりで帰るのか、とぞっとする。

 しかし長老は「先に帰る」と短く言って、さっさと草むらの中に消えた。

 不幸中の幸いであるが、しかし不幸だ。冷たく重い布を抱えながら、松本は朝っぱらから遭遇したアンラッキーに苛立つ。捨てて行ったろか。だがしっかりと二択のどちらかまで確認されてしまったから、持って帰るしかない。

 むかっ腹を立てながら、冷たい荷物を抱えて、松本は長老の消えた草むらに入った。このあたりに獣道があることは知っていたが、獣の正体はあれであったらしい。松本が来た道は小高いところを緩やかに歩くコースであるから、おそらく近道と思われるこちらを行くことにする。

 長老と呼ばれるほどに長く生きているから、やはり健康に気を使っているようだ。そのための水泳だと松本は決めつけている。効果があるらしいから、自分も取り入れてみようか。

 松本は泳いだことはない。しかし運動神経には優れるほうだから、やればできるだろうと思っている。前向きなのだ。考えの浅さが良いほうに働くタイプである。

 水着を買わないとなあと考える。長老はそんなものを着ていなかったということには、一向に気が付かなかった。



 離れの木製の雨戸は、建てつけが悪くて重たいが、湿気を吸うとチョコレートのような匂いがする。

 しますわよね、と以前に同意を求めてみたところ、かすかに首をかしげるだけの塩対応をされたので、蘭香はひとりで甘い匂いを堪能し、離れの雨戸を閉め終えた。

 窓枠をハタキで撫でていた才祇は、蘭香を振り向いて短く言った。

「ありがとう」
「どういたしまして」

 離れの雨戸の開け閉めは、ずっと蘭香が請け負っている。
 師の紬が汚れたら染み抜きをするのは蘭香であるし、この息子は心肺が弱い。そういった者に力仕事をさせてはいけないことくらいは知っていた。蘭香の祖父も肺病持ちである。

 会釈だけして母屋に戻ろうとすると、珍しく名前など呼ばれた。

「蘭香」
「はい? なんでしょう」

 才祇は父親によく似ているが、若い分、ややまさっていると蘭香は思っている。だから逆に、あまり話したくはないというか、向き合うと緊張してしまう。今日は髪の分け目が少し変になってしまったから、あまり見ないでほしいわ。

「どう思う。あの、豪礼様の孫を」
「桐生さんですね。才祇様のほうがお美しいですわ」
「ライバル視しているわけじゃなく……」

 口数の少ない才祇は、あまり長い言葉を喋ると疲れるというように、途切れ途切れに話す。

「どうせ、下心で此紀様に近付いたクチだろう。できているのか。世話なんか」
「下心はまあ、あるとは思いますけれど、世話は見事なものですわ。なんでもよくできます。ご心配なさることはないかと」
「でも」

 ははーんと蘭香は思う。何かしらのコンを刺激されているのだろう。なるべく世界を閉じようとしているこの男にとって、珍しく若い男が生活圏内に入ってきたものだから、慣れなくて気になるのかもしれない。嫌ね、オスの生態という感じだわ。ママのおっぱいを取られるのが面白くないに違いないわ。

 才祇は少し怪訝そうな顔をして、それから眉間にしわを寄せた。

「おおかた、マザコンで、母親の……胸を取られるのが嫌な男だとでも思ってるんだろう」
「ええっ!?」

 読み取りの精度があまりにも緻密だ。大きな声で驚いてしまったことを、しかし才祇は反対に受け取ったらしい。

「すまない。おかしなことを言った。父に、そんなようなことを言われたものだから」
「ああ、いいえ」

 すでに指摘されていただけだったらしい。つまり、誰が見てもそうだということだ。

「お気になさることはありませんわ」
「そう思っていたんだな」

 気難しい。どう答えたものかと困っていると、「いや」と言って顔をそむけた。

「悪かった。パワハラだったな」
「そのような言葉ワードをご存じだったのですね」
「色舞に。お前や遥候には気を使うようにと」

 それは言ってしまうと台無しだと思ったが、黙って流した。

 師は従者に無理を言うタイプではない。その子供たちもそうだ。しかし、色舞が洗濯物を抱えていれば一緒に干すことになるし、朝露の居所の雨戸を開閉もする。才祇に声を掛けられれば、こうして立ち止まって背筋を伸ばす。

 パワハラだとは思わないが、緊張することが多いと感じることはある。まあ、誰が悪いというわけでもない。

「わたくしも遥候も、それほど繊細ではございませんから、大丈夫です。ある程度は適当にしていただいたほうが楽ですし」
「それは……そういうものなのか」
「ええ。では、祖父に呼ばれておりますので」

 嘘の用事で切り上げようとしたが、

「嘘の用事で切り上げるほど私が嫌いか」
「嫌いとは……」

 子供のような語彙だ。朝露と言うことがあまり変わらない。

「好きか嫌いかというと、好き寄りだと思いますけれど……」
「父に似ている顔をか?」
「あの、才祇様」

 朝露は眠っており、この小さな建物には他に誰もいはしないが、内緒話のしぐさを作った。

「普通、あまり核心を突いたことは言わないものです。本当のことを言い合うのは、幼い子供同士か、よほど親しい友とだけです。恋人や家族とも言いません」
「家族とは言うだろう」
「それは、あなたのご家族は人格者で、本音と建前があまり変わらないからだと思いますわ。特殊な例です」
「ふうん……」

 内容ではなく、蘭香がこのようなことを言ったということに、どうやら思うところがあったらしい。

「おもしれー女だと思っていただけましたか?」
「ああ、興味深かった」
「顔も体型も凡庸で、人格者でもないと、おもしれさで勝負をかけるしかありませんからね」
「ろ、だろう」
「れ、で合っているのですわ」

 才祇は首をかしげたが、「そういうものか」と言った。父親と同じ口癖だ。どうでもいいとか、面倒くさいと思ったときに使っている。

「では、祖父に呼ばれておりますので」
「色舞を知らないか」
「さあ、存じません。いらっしゃらないのですか?」
「見当たらない。自分の部屋にもいなかった。出かけるとは聞いてないんだが」

 蘭香の師と子供たちは、それぞれ外出の予定を知らせ合っている。同じ自動車を使っている関係だろう。しかしもちろん、100%把握しているわけではないはずだ。

「お嬢様もお出かけくらいなさるでしょう。なにかご用事ですか?」
「いや……心配で」
「まあ、コン」
「狐?」

 それではお嬢様だって息が詰まりますわよと、蘭香は子供ではないから言うのをやめた。膝を曲げてお嬢様の礼をする。

「祖父に呼ばれておりますので」

 さすがに、三度目は引き止められることはなかった。



 アクセサリーを貸してほしいという沙羅の申し出に、万羽は驚いたようだった。

 沙羅の運んできたコーヒーをひと口飲んで、苦いと言って角砂糖を入れ、また飲んで眉をしかめた。

「苦いのだな。私の砂糖も使うといい」

 見かけが可愛らしいかと思い、ソーサーに添えたスプーンに角砂糖を乗せてきたのだが、砂糖壺を持ってくるべきだったようだ。

 沙羅が自分の分の角砂糖もカップに入れてやると、万羽は「ありがとう」と言った。

「コーヒーって、いい匂いだと思うんだけど」
「苦手なのだな。すまない。紅茶を淹れたらよかった」
「いいのよ、友達でもないんだし」

 その言い回しの意味が、沙羅にはよくわかった。
 まさしく、そう考えて慣れぬコーヒーを淹れたからだ。差し向かいで紅茶を飲んだら、友のようだと思った。商談ならばコーヒーだろうと、ドリップのパックを探したのだ。

 ブラックコーヒーをすすりながら、沙羅は友ではない女の顔をちらりと見る。

「だめかな」
「いいわよ、別に。あたしはぜんぜんいいんだけど」

 軽く承諾しながらも、万羽は分別のある中年女のような口調で言った。

「結婚式のアクセサリーって、花嫁が自分で借りてまで持ち込むものなの? 男は嫌がるんじゃない? あんたが普段着けてない、安くないアクセサリーを式で着けてたら」
「え──そうかもしれない」

 そんな角度のことを、沙羅は今まで一度も考えたことがないような気がした。しかし、言われてみれば、その通りだとしか思えない。つまり、他の男が買ったアクセサリーを、よりによって結婚式で着ける女だと、そう疑われる可能性がある。

 知り合いから借りたと伝えたとしても、それはそれで、見栄を張る女だと思われるだろう。沙羅は自分の浅慮を恥じた。

「そうだったのか……」
「わかんないわよ、あたしは。結婚式なんて出たこともないし。でもアクセサリーを自分で用意しなきゃいけないとしたら、普通の花嫁には大変でしょ。みんながお金持ちじゃないんだし。だから男が買うか、業者に借りるとか? そういうふうにするんじゃないの?」
「ドレスはレンタルがあるから、そうか、アクセサリーもレンタルしているのかな」
「買うの? ドレス」
「私はそのつもりだったが、向こうが渋っている。どうせ一度しか着ないのだからと言って。気前のいい男だと思っていたのに」
「実際家なのね。いいじゃない、貯金いっぱいしてそうで」

 その愚痴を聞くことの上手さに、沙羅は驚いている。もっと、いいとか嫌とか、きゃあとかわあとか、幼児的な反応をされるものと思っていたのだが。
 この女の内面が幼稚だとは思っていない。しかし、そのふりをすることが板についている女であるから、こうおっとりとした対応は予想外だった。

「今日は、なんというか、お姉さんなのだな」
「そりゃそうよ。あたし、あんたの何倍生きてると思ってるの。もう誰よりもお姉さんなのよ」
「…………?」

 目の奥が点滅するような感覚があった。痛くはない。しかしとっさに手をやってしまったから、万羽は心配そうな顔をした。

「大丈夫?」
「うん、飛蚊症かな。ちょっとちかっとしただけだ」
「そう思って網膜剥離をほっといて、大変なことになることがあるんだから、ヘンなら病院に行ったほうがいいわよ。此紀が飲んでない時に相談しなさいね」
「そんな大ごとではないと思うが、ありがとう」

 網膜剥離という傷病の認識率は、この屋敷では若干高い。西帝はそれによって視力をかなり落としたからだ。その当時の、彼の兄の怒りようを思い出すと、沙羅は罪悪感を覚える。お門違いな感情だとわかってはいるのだが。

 網膜が損傷するほど西帝を殴りつけたのは、彼の父親だ。その時、沙羅はたまたま近くにいたものだから、前後のやり取りも知っている。

「あの、言いたくなかったら、もちろんいいのだが」
「なあに?」
「お前も目が悪いのだろう。眼鏡はかけないのか?」
「車を運転する時はコンタクト着けてるわよ。決まりだから」
「あ、そうだったのか。気が付かなかった」
「でもそんなに見えるようにはならないんだけどね。弱視だから。あたしの血筋には多いの」

 弱視という言葉を沙羅は知らなかったが、文脈と響きからして、なんとなく想像した。

「どうして? 眼鏡を作るの?」
「いや、そうではないが……。たとえば老眼というのは、私たちには何歳くらいから訪れるのかな」
「寿命に二百年の幅があるんだから、そんなのわかんないでしょ。身体がどこか傷みはじめたら、けっこう連動してすぐらしいわよ。刹那は肺が悪くて、それでよく噎せるから、食道とか喉までボロボロらしいし」
「そうなのか……」

 あれほど美しいのに、見た目ではわからぬものである。諸行無常というものなのだろう。

 それにしても、連動という表現が気になった。西帝はまだ若いが、目から連動して、他のところが悪くなったりはしないのだろうか。

 万羽はコーヒーを半分ほど飲んだが、もう口をつけるつもりはないらしい。カップの縁を指でそっとなぞっている。おそらく口紅を拭う仕草であり、西洋喫茶のマナーにおいてどうかは知らぬが、女らしくて愛らしいと感じた。

「かわいい女だな、お前は」
「うふふ、そう? 実はあたしもそう思ってるの」
「そういう話術はどうしたら身に着けられるものかな。私はどうもそういう、愛嬌のあることが言えない」
「愛嬌なんかなくてもいいけど、あんまり鋭い女は嫌がられることがあるかもね。みんな本当の自分をわかってほしいなんて言うけど、それは嘘だから」
「嘘? とは。それこそ猫も杓子も、それを望むものとされていると思うが」

 万羽は両手で頭の上に細長い円弧を引くジェスチャーをした。

「あたしが黒いウサギだとするじゃない」
「ウサギの耳か。うん」
「でも、白くなりたいウサギなの。だからお化粧して、全身を白くしてるのね。あたしが言われたいこと、わかる? 『とっても白くてかわいいね。生まれつき白いんだね』」
「ああ……」

 とてもよくわかった。沙羅にもいくつか心当たりのあることだ。

 本当はキミが黒いことを知っている、黒い毛皮も素敵だ、黒い自分を愛せなどと、確かにけして言われたくはない。

 言われたい者もいるだろう。しかしそれは、沙羅の価値観で測ると、マゾヒストの変態に近い者である気がする。いちばん慎重に隠しているものを暴かれて、批評され、隠したことを責められたいというのは、被虐趣味だとしか思えない。

 万羽は長い耳をたたむ仕草をした。

「白くなりたい黒ウサギ、っていうのが本当の自分だとして、それを理解されるのも嫌じゃない。『キミが白くなりたいのを知っているよ、だから白い服を買ってあげよう、中身が黒とは思えないほどステキだね』」
「うわ、嫌だな」

 鳥肌が立ってしまった。この女はたとえ話が上手い。

「それを喜ぶ女もいるのだろうが……」
「ね。本当のことなんて知られたくないでしょ。だから、手加減してあげなさいね。あんたはとっても鋭いから、ウサギが本当は何色なのか、すぐわかっちゃうでしょう」
「そんなに、無神経かな。私は」
「ううん? あんたは親切で立派よ。でも、太陽に照らされると干からびちゃう生き物もいるでしょう。日の下ではなんでもよく見えるから」

 何かを注意されていることはわかるのだが、心当たりがなく、あるいはありすぎて、沙羅は無言で冷めたブラックコーヒーを飲んだ。苦みばしった大人の味がする。

 万羽は「うふふ」と甘い声で笑った。

「あんたを好きな男は、照らされると元気が出るんでしょう。変わることはないのよ。でも、相手が弱ってるなと思ったら、離れてあげることを考えてもいいんじゃない? それだけ」
「私が……」

 やめろ。こんなことを相談するほど親しくはない。そう思うのに、あまりに優しく諭してくれるものだから、沙羅は話してしまった。

「西帝に嫌われているのは、お節介な、強い光を浴びせる押し付けがましい女だからか」
「嫌ってなんていないわよ」

 慰めるというよりも、かすかに面白がるような言い方だった。しかし悪い雰囲気はない。

「西帝は女をわざわざ憎んだりしないでしょ。草食系じゃない」
「私の思っている草食系とは定義が違うようだな」
「女に牙なんか見せても仕方ないと思ってるタイプじゃない? 女と喧嘩したこともなさそう。あんたのことも、苦手なだけでしょ。それだって、あんたのせいじゃないわ」

 では何か、ということを万羽は言わなかった。照らさぬように気を使ってくれたのだろう。

「女が嫌いなのかな……」
「そうでもないみたい。色舞のことが好きらしいわよ」
「色舞とは、典雅の子の? へえ……ほう」

 同じ家に暮らしてはいるが、印象が薄いほうの娘だ。痩せた、あまり色気のない女だが、そういえば西帝もそのようなタイプの男だ。清潔というのだろうか、あまり熱気を発さない、それは今時の若者らしさというものかもしれない。

「いいな、若いというのは」
「結婚する女が言うことじゃないでしょ? 楽しいじゃない、お姫様みたいなドレスを着るなんて」
「確かに、ドレスを着て、財産をもらい受けるのだから、いい話なのだが。式を控えた花嫁のための雑誌があるのだが、新婚夫婦のグラビアなどを見るとほうっとなってしまう。好きな男と結ばれるのは、さぞ幸せなことだろう」

 万羽はかわいらしく首をかしげた。

「あんたはまだ豪礼のことが好きなの? そんなに切ない顔をするくらい?」
「好きかというと、よくわからない。目が合うと、胸がぎゅっとなって身がすくんでしまう」
「それは怖いからじゃないの?」
「それと区別がつかないのかもしれない。吊り橋効果というのは、そういうことなのだろう。でも、こう、あのう」

 抱かれたいとは思うのだ。それを口に出すことはさすがに憚られて、沙羅はもじもじとした。

 万羽は長いまつ毛を伏せて、うーんと小さな声で言った。

「ストックホルム症候群なんじゃない?」
「それは、誘拐犯に対して人質が好意を抱く心理のことだろう。何も当てはまらない」
「心の働きとしては、怖いものに寄り添うことで、ストレスを軽くしようっていうことなんじゃない? 危害を加えられる率を下げようとする生存戦略のことだけど、その不条理から心を守るための防御反応っていうか、足を切り落とすしかない時の麻酔みたいな」
「嫌! ──すまない」

 こういうことかと、自分の身体を抱いてしまった腕を解きながら、沙羅は震えるように思った。本質を照らされるというのは、つまりこのように、隠していた部分を焼かれることなのだ。

 自分が豪礼に対して、いま言われたような気持ちを抱いているのかというと、それは違う気がする。

 ただ、あの男に寄り添う女には当てはまるのだろう。そのことを考えると、沙羅はいわれのない自己嫌悪で胸が悪くなる。西帝に対して抱くものと同種の、これは、連れ子を情夫に殴られた時の母親の気持ちではないか?
 何も当てはまらないのに、心理だけは合っている気がして、沙羅は喉のあたりをおさえた。自分の感情の、理不尽な絡まり方が苦しい。

 大きな瞳が、沙羅を憐れむように見ている。

「ごめんね。いいのよ、考えなくて。どんなドレスを着るかだけ考えたほうがいいわ」
「うん……」

 苦いコーヒーをまた口に含みながら、沙羅は思う。

 目の前の女が友であったら、どんなにいいだろう。それならば、つらくても考えてみたい、いっしょに考えてほしいと言うこともできるだろう。しかしそうではないから、沙羅はもう何も言うことができない。



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