蜂の残した針 14話
小さな小さな、手のひらに乗るようなテディベアを、女は机の引き出しの中にたくさん座らせている。
ディスプレイというよりも、隠れキリシタンに近い。この屋敷で、熊といえば災厄の象徴である。人里で言えば鬼であろう。
尊属を熊に殺された者もいるから、この引き出しの世界を知られてはならないのだ、と女は思っている。禁じられているわけではないが、誰でも親の仇を愛玩されては不快だろう。
だからこの趣味を知るのは、師と姉弟子だけだ。どちらも、小さな熊をこっそりと買ってきてくれることがある。それは特別な熊として、下段の大きな引き出しの中に座らせていた。
愛好者の世界では、リボンを巻いて名前をつけた日が、テディベアの誕生日になるだとか言われているらしい。女は布の熊にそれほどの感情移入はしない。引き出しに入りきらないくらいに増えたら捨てるし、そのときはハサミで手足を落としたりもする。だから名前はつけない。
しかし、男からアクセサリーの小箱などをもらうと、まずその箱に巻かれているリボンを確認する。女は自分を飾ることに興味がないから、中身はどうでもよい。かわいらしいリボンだと、帰って熊の首に巻こうと考えてわくわくする。
他のものより少し大きい、その真っ白な熊は、先日、師が海外土産にくれたものだ。凛々しい顔をしていてとてもかわいらしい。目は水色のビーズでできていて、安物なのだろうが、縫い付けた者の愛情が感じられるような気がした。
そっと持ち上げて、机の上に座らせてみる。左足にうっすらと染みのようなものがついていた。おそらく引き出しの中が汚れていたのだろうが、他の熊は茶色や黒だから気が付かなかったのだ。
「まあ……」
指で拭ってみたが意味はなかった。コットン地の表面が、湿気のある汚れを吸ってしまって乾いたのだろう。薄い灰色の小さな染みだが、あると思って見てしまうと目立つ。
石鹸で、いや、薄めた漂白剤で洗ってみよう。そう考えて、熊をタオルハンカチで巻いて抱き、時月は部屋を出た。
洗濯機から洗濯物を取り出して干しに行き、干し終わって戻っても、その小柄な女はずっと洗面台の前にいた。
何かを手洗いしているらしいが、ずいぶん長い。水で手が赤くなっている。大丈夫だろうかと思い、声をかけることにした。
「困りごとですか?」
あきらかに格下の若者が相手であっても、和泉は一律、軽めの丁寧語で接する。そのほうが面倒がないからだ。
若い女は、明確に困った顔をして振り向いた。
「和泉様……」
「あれ? 髪を切ったんですね」
時月である。ショートカットになっているから気が付かなかった。
瘋癲の父が、何年か前から従者としている女だ。目立つ娘ではないが、看護師の資格を取ったということで、立派だ感心だと老爺たちが褒めていた。その褒美として、束縛しない高位の師を与えてやろうという運びになったらしい。
褒美としての価値があるのかと和泉は疑問に感じたが、ちょうど時月の父親が亡くなった頃であったそうで、形ばかりの後ろ盾でもないよりはましだろう、と和泉の師は言っていた。
女は小さな両手で、洗っているものを隠すようにしている。下着だろう。
「──高価なものですか?」
和泉が問うと、時月はさらに困ったように首をかしげた。
「そんなこともないと思いますが……」
「でしたら捨てては? リカバリーがきかないものにこだわっても、手が傷むだけですよ」
経済的なことを師に頼っている若者の場合、こうして誰かが許可を出してやらなければ、古い下着も捨てにくいのだろう。
そう気を利かせてやったつもりなのだが、若い娘は小さくうなずいただけで黙っている。それは、傷ついた女がよく見せる様子であるから、和泉は対応を失敗したことを悟った。
「すみません。大事なものでしたか」
「気に入っているので……」
「私が口を出すことではありませんでしたね。失礼」
「あの」
女は、「内緒にしてくださいね」と言って、隠していたものを和泉に見せた。まったく下着ではなく、白く小さな、熊のぬいぐるみであった。
「可愛いですね。どなたのものなんですか」
「私のです」
「え? では、内緒というのは何を」
誰かのものを汚してしまったから、こっそり洗っているという話だと思ったのだが。
時月は答えずに微笑んで、熊と和泉を交互に見るようにした。
「似ていらっしゃいますね、やはり」
「私と? はあ」
白地に青い瞳のぬいぐるみであるから、言いたいことはわかるが。しかし和泉がネグロイドだとして、茶色い熊と比べながら同じことを言われたら、それは問題があるとされるのではないか。その線引きについて和泉は考えている。
「肌や瞳や、血液の型については、少なくとも本人の前では触れないのがベターではありませんか」
「申し訳ありません、そういうことではなくて──いいえ、そういうことなのですが」
女は指で、熊の小さな頭を撫でた。
「宣水様からお土産でいただいたんです。きっと、あなたに似ているから、かわいいと思って買われたのではないでしょうか」
「そんなことはしないと思いますが……」
不可思議なセンチメンタリズムを持つ女である。和泉は父の意外な一面のほうを気にしている。
「父でも、こんな気の利かない土産を買うんですね。迷惑でしょう。捨てて構いませんよ」
「え──どうしてそんな」
「子供でもあるまいし、ぬいぐるみなんて、困るでしょう」
和泉は徹頭徹尾、親切のつもりで言っている。しかし女がまた、どうも傷ついた様子なので、意思の疎通しないことに困惑する。そういえば、気に入っているのだと先ほど言っていた。
「すみません。気にしないでください」
「私、その、昔から集めているんです。このくらいの熊のぬいぐるみを、ずっと。いけないとは思うんですが」
「いけないというのは?」
「花苑さんだとか……」
「ああ、はい。そういうことか」
熊そのものをタブー視した上での、だから内緒にしてくださいということであったらしい。おそらく妥当な判断だ。和泉の父につけておくにはもったいない、常識的で繊細な女であるらしい。
「一番気に入っているんです」
「へえ……」
ひょっとすると愛しているのだろうか。あの男のことを。
まあ、たまに帰ってきて、好みの土産を渡してくれる美しい男のことを、わざわざ嫌う女も珍しい気もする。
「違うんです」
なぜか真っ赤になって、時月は片手で熊を抱き、片手を一生懸命に振った。
「あの、宣水様がくださったからというわけではなくて、かわいいからです。あなたに似ているから」
「はあ」
変わった世辞だ。和泉が師の孫たちに気を使うように、この女も和泉を持ち上げなければならないと思うのだろう。
「あの、和泉様、私……」
濡れている熊を抱きしめているものだから、ブラウスに染みができている。
「私、ずっと、和泉様の顔ファンなんです。わあ、言っちゃった」
「顔の? ファンというのは、顔が好きということですか」
「顔が好きだから、すべて好きということです!」
「すべてとは……」
自分のすべてなど、和泉でも知りはしない。しかし若者の間で流行っている、独特の言い回しなのだろう。なんとなく聞いたことがあるような気がする。
「そうでしたか。どうもありがとう」
芸能人のようなことを言ってしまった。
若い女は、芸能人に微笑まれたファンのように、きゃあっと言って熊で顔を隠した。
東雲は昔から、悲しそうな女を放っておけない性質である。
まして、何度か寝たことのある女ならばなおさらだ。親身な気持ちが湧き上がってきて、最近声を掛けていないという気まずさを忘れた。
「どうしたよ」
日当たりのよい縁側で、何か白いものをかざすようにしていた時月は、ぴょんと小さく跳ねた。驚いたのだろう。自分の身体を抱くようにしている。
華奢な若い女と、狼藉を働かんとするチンピラの対峙模様になってしまった。両手を挙げて害意がないことを示す。この女はそんな勘違いをしないが、第三者が通りがかったらヤバいと思ったのだ。
「あの……」
「なんもしねえよ」
「いいえ、あの、信仰対象なので……」
身を守っているのではなく、何かを胸に抱いているらしい。
「あ、そういう系? ご本尊? そっか」
今は原則として、特定の宗教を奉じてならないとされている。実際には信仰を持つ者もいるが、表向きはみな無宗教のふりをしていた。体制側も、踏み絵を仕掛けて炙り出したりはしない。すべては暗黙の了解ということだ。
東雲の父なども、おそらくクリスチャンの系譜なのではないかと感じるが、息子の自分さえもはっきりと聞いたことはない。グレーゾーンに周りを巻き込まないというのが、あの女の立派なところである。
「間が悪かったな、わり」
「あっ、あ、そうではなくて。本当の信仰ではなくて、すみません。比喩なのですが、邪教なので……」
「邪教とわかった上で……?」
危険な女を察知する嗅覚はあるほうだと自覚していたのだが、鈍ったものである。
「あの、ですから、比喩です」
「大丈夫だ、去るから」
「あっ、ああ……あの、声をかけていただいてありがとうございます。このところ、すみません。不義理をしておりまして」
「いえいえ、全然。じゃあ」
「ち、違うのです、本当に」
東雲が心のシャッターを下ろしたことを察したらしく、女は周りをさっと窺ってから、胸に隠していたものを見せてきた。
小さな人形、ぬいぐるみというのだろうか。白い、熊か? かわいらしく見えるが、邪教の本尊だと思うと、深夜に見る白装束の女よりも不気味だ。
「イケてるな。じゃあ」
「ああっ、待ってください……違うのです」
これこれこういうわけで、という時月の説明を聞いて、東雲は心のシャッターをまた上げた。紛らわしい物言いをしないでほしいものである。
「なんで掲げてんだよ。そういう礼拝かと思うだろ」
「洗って、しばらくドライヤーをあてていたのですが、ずっと使っているとうるさいかと思って……こうして日に当てていたんです」
「置いときゃいいじゃねえか」
「邪神像ですから」
「あー、そうか、嫌がるヤツもいるのか。犬だのネコだのが転がすかもしんねえしな。お前は好きなの? 熊が」
「ええ、これくらいの……もっと小さなものも。こう言っておくと、小さなベアを見つけるとわざわざ買ってきてくださる方もいて、それが嬉しいのです。並べると、思い出をそうしているようで」
熊よりもお前がかわいいと言おうとしたが、今は服薬中なのである。
「見つけたとしても俺は買えねえな、こっぱずかしくて」
「宣水様はあえて買って、レジの店員のハートをキャッチなさる方です」
「若っけえなあ、そこまでしなくたって女に困る方じゃねえだろ。あんな年になっても楽しいのかね、落とす過程が」
「女がお好きなのだと思います。私にも優しくしてくださいますし」
「万羽様にはあたりキツくねえ? 見ててちょっとビックリすることあるんだが」
白熊を抱いた女は、黒目がちの目をさらに大きくした。
「やっぱり、他のかたからご覧になってもそうなのでしょうか。私も時々そう思うのですが……愛情から来る厳しさというものなのでしょうか?」
「知らねえけど、子供だったらグレるくらい露骨だろ。お前は可愛がられてんの? やりにくくねえ?」
「万羽様も優しい方なので、私には良くしてくださいますが、そうですね……宣水様が帰っていらした時は、気になってしまって」
「へえ、万羽様ってお前には優しいんだ」
「どなたにも優しいと……でも、男性はあの方の優しさを知る機会がないのかもしれませんね。お美しい方ですから」
「顔ばっか見て中を見ねえってこと? その理論にはでかい欠陥ねえ? 不細工な女の内面をわざわざ見に行く男はいねえだろ」
時月は黙って熊の両手を動かした。そういえば、こういう女だったと思い出す。男にあまり反論しない。しかし流されて適当な返事をすることもしないのだ。か弱げな外見に反して、やや癖のある手ごたえの、一筋縄では行かない女である。
こういうことかなと東雲は少し思った。この女の性格はよく知らない。自分に対する感触がわかるだけだ。美しい女ほど、感触ばかり重視されるというのは、なんとなくわかるような気がする。
「大変だな、美人も」
「そう思います」
「お前のことだよ。結局、なんで困ってたんだ」
「困っている? というのは、私がでしょうか」
「なんか、雰囲気でそうかなと思ったんだが。しょんぼりしてるっつうか」
「あ、汚れが落ちきらなかったので、そうかもしれません。そんなにわかりやすい顔をしておりましたか」
恥ずかしい、という仕草を熊を使って表現している。古い言葉で言えばぶりっこに見える。女には嫌われるタイプかと思っていたが、そういうわけでもないようだ。ならば女にも同じ対応をするのだろう。
「お前はそんなに大変じゃねえ美人なんだな」
「急に評価が変わりましたか……?」
「男の前でだけ、良かれ悪しかれ態度が変わる女って、悪口言われやすいだろ。沙羅さんとかそうなんだが、性格はめちゃくちゃ良いんだけどな。性格が良いから好かれるとか、悪いから嫌われるってわけじゃねえんだな」
「真理ですね、それは。私は顔をいちばん重視するので、特にそうですし」
「へえ?」
まんざらでもない気分になった。自己肯定感の高い東雲は、個別指定がない限り、褒め言葉は自分に向けられているものだと解釈する。
時月が白熊を眺めていることについては、照れているんだろうなと思った。
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