蝶のように舞えない 11話
確かによく見てみれば、色舞はなかなか綺麗な女と言えた。
顔が小さく、顎がとても細い。肉ではなく果実でも食っていそうな骨格だ。首や肩の線も華奢で、ブラウスの袖から見える手首などは折れそうだった。
東雲の趣味にはまったく当たらないが、こういう女が好きだという男はいるだろう。
「君は中国の富裕層とかにモテそうだよな」
「どういうイメージなんです? 何度か言われたことがありますが。日本の庶民には受けないのかしら」
「すべてを手にした大金持ちの変態が最後に望みそうな女つうか」
「中国人セレブにも、私にも失礼ですよ」
そう言いながらくすりと笑っている。赤い石の耳飾りが揺れた。
もう日付も変わる頃だが、色舞は化粧も落とさず、ネクタイさえも締めていた。数日前、この部屋を同じような時間に訪ねたときは、浴衣姿で髪も下ろしていたが。
「お茶を淹れてきましょうか」
「いやいや、構わねえでくれ。俺が淹れてきたらよかったな」
「そうね。私の淹れたお茶なんて飲めないでしょうから」
歌うように不思議なことを言って、色舞は姿勢を正した。
少女のような顔に厳しい表情が浮かぶ。
「あの帳簿については、初めて中身を見ました。酷いものですね」
「やっぱり君が見てもそうなの?」
「多額の横領は明らかです。――ただ、明らかにしてなお、私たちが何もできないことを知っているから、あんな帳簿をつけられるのでしょうね」
「あー」
やはり、父の言っていた通りであるらしい。見られたからといって困る帳簿ではないのだ。
色舞は目を細めた。
「沙羅さんか蘭香でしょう? 流出の責任のほうを問われると思います。ですから、まだ父には話していません」
「そうか。そりゃそうだな。見せびらかしてもよくねえのか」
「一部の写真を撮って、帳簿は戻しておきました」
一瞬、考えた。
これまで帳簿を見たことがないという色舞が、こっそり戻しておくということはできるのか。
また耳飾りが揺れる。
「ふふ、全部顔に出るんですね。隠蔽しようなんて思っていませんよ。本当にどうしようもないんです」
「いやあ」
「それに、皇ギさんはあれで商才はあると思いますよ。すべて補填されるとまでは思いませんけど、だいたいは戻るんじゃないかしら」
「え? そうなの?」
「少なくとも、彼女と同じくらい経理ができる者はいません。外して外せないことはないかもしれませんが、得策ではない気がします。なんというか――」
色舞は宙に指で字を書くようにした。
「あの方は努力の方向性が正しいんですよ。いえ、横領しているから、正しいとは言えないのかしら。でも、父親を補佐するために金勘定を勉強して、一族の財源を潤沢にしようとはきっと思っているわけです。同じだけの志を持っている者は他にいません」
「耳が痛てえなあ」
自分はそういった努力を一切してこなかった、ということを考えるここ最近である。
「悪が勝つんじゃなく、努力家が勝つのか」
「この件に関してはそうですね。悪もただ食って寝ているわけではありませんから。成果が追い付けばダークヒーローなのでしょうし」
「対案なしで野次だけ飛ばすなってか」
「汚職があきらかならばリコールというのは、感情的にはわかりますが、後継の層が薄すぎるんです。薄くしているという側面もありますが。足の引っ張り合いが起きないように」
「つまり、どうしたらいいの?」
「目的はなんですか? それによります。財政のクリーン化を目指してらっしゃるというわけではないでしょう」
そう問われると、東雲は顔を斜めにするしかない。
財政の破綻は困るが、そうならないと言うのならば、あとは何のこっちゃ知らんプーである。次期長老の失脚がかなうのなら沙羅も助かるだろうが、それが無理だということはわかっている。
色舞はさとりの化け物のようになめらかに言った。
「沙羅さんの負担を軽くしたいということですか?」
「そう、それそれ」
「帳簿を持ち出したのは、蘭香ではなく沙羅さんなのですね」
「俺また誘導尋問に引っかかった?」
「もともと見当はついていましたけどね。沙羅さんはそうですね――お怪我もなさっているでしょう?」
それは周知なのだろうか。だが東雲も血の染みを見て気が付いたのだから、他にも見た者はいるのだろう。色舞は怪我が慢性的なものであることも承知している様子だった。
「沙羅さんは大事なお身体ですし、そのことを争点にすれば、豪礼様に謹慎処分くらいは下せるかもしれませんが……」
「いや、それは駄目だろ。俺でも駄目だってわかるわ」
「そうですよね。ですがそのプロセスを踏んでおけば、その後なにがあっても沙羅さんに同情が集まりますよ」
その言葉もなめらかに発せられたので、毒気を含んでいると気付くのにワンテンポ遅れた。
毒気。その言葉がこれほど率直な意味を持つのも珍しかろう。
「やっぱり最終的にはそれしかねえの?」
「それしかないかどうかはともかく、すべてを解決しますから。父はお金にも権力にも興味がありませんが、あったとすれば考えているはずです。遺恨は残りますが手っ取り早いもの」
「遺恨ってそんなオマケみてえに考えていいもんか?」
「よくはありません。一族郎党を皆殺しにするのは、そうしなければ遺恨から復讐が生まれるためですし。目の見えない西帝さんにまで手をかけるわけにも行きませんものね」
東雲は心の中でヒューと言った。
怖い女だ。蘭香などは同じようなことを言っても、わたくし意地悪を言っていますのよという演技っぽさがあるが、色舞は淡白だ。その分、そう薄くはない本心が混じっているように思える。
「――それができないのでしたら、豪礼様の寿命を待つほかありませんね。あと百年生きそうに見えますが」
「逆に? 沙羅さんを幹部会から外すみてえなことはできねえの? 俺の親父みてえに」
「難しいと思います。同居の長男の嫁が介護にノータッチを宣言して、次男の嫁を通わせるような話でしょう。普通の神経ではつらいと思います」
「その例えがまったくわかんねえ」
「自分の親族にさえ責められるでしょうね。神経わからんまとめでは判定が割れるでしょう」
「禍々しいことだけは伝わってきた。それと、俺の親父は普通じゃねえんだな」
「悪くはないのですけれどね。慣例や同調圧力の話なんです。ポジションには責任と義務が課されてしまうんですよ。それが正当なものではないとしても」
「沙羅さんのポジションってのは何なの? なんで沙羅さんはあんなに耐えるのかね」
「ポジションは『長く生きそうな孤児』です。一族の養い子として、子供の頃から予算が割かれています」
「んん? だとしても元服するまでの期間だろ。二十年もねえはずだが」
「ですから、そういう慣例としか言えないんです。たとえ沙羅さんや克己様が、その二十年分の経費を返還したとしても、養ってやった二十年は変わらない――というのが圧力をかける側の言い分ですね。豪礼様や皇ギさんはもちろん、長老や蘭香もそう思っています。帰属意識の負の面ですね」
つまり、東雲や父には理解しにくい話であるということだ。
「責任感を捨てられない女は、一族の介護係になるんです」
「男は違う?」
「性器の形ではなく、幻視される介護係は女だということです。私たちには嫁入りなどないのに、そんなところは人里から仕入れているんですね」
色舞の言うことがすべて理解できたわけではないが、言っていることの方向性はわかる。
つまり、呪いの話なのだろう。放っておいても解かれることはない。
唐突に、氷漬けのマンモスが思い浮かんだ。そんなものを見たことはないので、漫画のようなイメージだ。
氷漬けは辛かろう。しかし、溶かしたとしても朽ちるだけだ。
マンモスは沙羅なのか、この屋敷そのものなのか。
「やっぱりお茶を飲みたいわ。蘭香に淹れてもらいましょうか」
「嫌なんじゃねえの?」
「何がです? ――蘭香が何か言ったのね。私が毒を盛られると思っている、とでも言っていたんでしょう」
「また俺の口が滑った感じ?」
「いいんですよ、あの子はそういうことを隠さないもの。父の従者はみんな私のことが疎ましいのよ。蘭香はさっぱりしているほうです」
「蘭子ちゃんがさっぱりしてるなら、君なんか透明じゃねえの?」
色舞は少し困ったように微笑む。
「そう見えますか? あの子は口は悪いけれど、それほど陰湿なことはしないんです。私の髪飾りを捨てたりだとか、私の車のガソリンを抜いたりだとか」
「蘭子ちゃん以外にはそんなことをされてたの?」
「お茶に泥を入れられたこともあります。蘭香は自分が疑われていると思ったらしいですね。証拠のあることではないけれど、蘭香がそんなことをしないというのはわかっているのに」
「蘭子ちゃんと任期がダブッてた姉弟子つうと、あの三つ編みの? なんつったっけ」
「――ですから、証拠はありませんから。須磨がしたこととは言い切れませんけれど」
透明でもないらしい。須磨という名前をしっかり覚えてしまった。
女は陰湿だ、という感想は的外れなのだろう。東雲の父は女だがカラッとしているし、女の腐ったような――これもどうかと思う言い方であるが――男もいるものだ。
「父のせいでもあります。上辺だけ優しいことを言って、それがどんなに若い娘を傷つけるかわかっていないんだわ。父がもっとうまくやれたら、娘たちの気も済むでしょうに」
妹弟子と同じことを言っている。そういえば彼女は、その文脈で色舞のことを案じていたのだった。
東雲の目には、色舞はそれほど弱ってはいないように見える。むしろ背筋が伸びていて凛々しい。
沙羅のほうがはるかに憔悴していた。このところ、青白さを通り越して青黒い顔をしていることがある。肝臓でも悪くしているのではないか。
助けてやりたいと思うが、東雲には助け方もわからない。誰かを助けた経験などなかった。
「そういや、お兄さんって元気なの? たまに廊下ですれ違うけど、無視されるんだよな」
「すみません。年々気難しくなるようで……そうね、身体も丈夫ではありませんし。いまさら良くなることはないでしょうけど、悪くなることはあるというのが切ないですね」
「なんか蘭子ちゃんもそんなこと言ってた気がするな。良いパワーより悪いパワーのほうが強い的な」
「健康にしろ何にしろ、成るのは積み重ねで、崩れるのは一瞬ですからね。皇ギさんの牙城を崩せば、誰かが再建するまでは空席になってしまうように」
「君とか蘭子ちゃんは帳簿つけられるんじゃねえの?」
「私たちのリソースも無限ではないんですよ。別に会計を務めてもいいのですけど、汚職を疑われたときに抗弁するパワーまではありません」
説教の気配を感じ取る。
つまり、普段何もしていない分際で、務めを果たしている者に文句を言ってくれるなということだろう。予算の融通は権利のうち、という父の言葉を思い出す。
それは帳簿がどうこうではなく、もっと大局的な話のように思われる。
積み重ねたものがなければ、妹弟子のひとりも助けてやれないのだろうか。
「なんか一発逆転みてえなパワーはねえの?」
「愛か憎しみでは?」
「答えの瞬発性がすげえな」
「普遍性がありますからね」
澄ました顔は、善良なのか魔性なのか、本性をうかがいにくくさせている。
ほのかに果物のような匂いがする。それが清潔さのあらわれなのか、誘惑の甘さなのか、それも東雲にはわからない。
この娘は、次期長老の息子――皇ギの弟――には親切なのだそうだ。
それが何かの積み重ねであったとして、自分にできることは何ひとつないと、そんなことを考えた。
そういえば今日も水曜だと、男の腕の中で和泉は気がついた。
先週の水曜も、その前の水曜も男は来たような気がする。火曜や木曜だったかも知れないが。
少し頻度が高いと思わないわけではないが、それだけ息抜きが必要なのだろう。
今も和泉の髪に顔をうずめて、何かを憂えているようだった。
「先生は――」
よく響く声が後頭部から骨伝導のように伝わってきて、鳥肌が立つ。
「風呂場に置いてあるのとは違うシャンプーを使ってるんですか」
「ええ。髪に黄味が出ないように、青い色のついたものを使っているので。匂いがしますか?」
「いい匂いですね。紅茶みたいな」
長い指が和泉の髪を梳いている。他の女と比較するしぐさだ。風呂のシャンプーを使っている誰かと。
「俺は小柄な女って苦手なんです。子供みたいだし、壊れそうで」
「そうですか。実際、あなただと――小柄な女では壊れるでしょうね」
「なんか自分のことが怖いんですよ。食欲でも性欲でも血を見るって、獣みたいでしょう。あなたくらい体格のいい女じゃないと不安なんです」
「それは難しいですね。日本人だと」
「すみません、いつも。遅いし、疲れるでしょう」
構いませんよと答える。実際、どうでもいいことだった。どうせ男に抱かれている最中は考え事をしている。早かろうが遅かろうが、小柄だろうが大柄だろうが、たいして気になりはしなかった。
和泉の兄弟子もそうだった。仕事は丁寧だが、いつも目の焦点をずらして他のことを考えている。苦手な味のものを無理に食っているようだ、と昔から思っていた。特に女の乳房を触るとき、酸味をこらえるような顔をしている。
「先生? 大丈夫ですか」
「胸の大きさは重要なんですか?」
「う、俺はまあ、大きいほうが好きですね。小さいとそれこそ怖くて」
「色舞さんのような?」
「典雅様のお嬢さんの色舞さんですか? 彼女の胸を気を付けて見たことはないですが、小さいんですか」
他者が見ているかどうかは重要ではないのだろう。そのくらいのことはわかる。
男は和泉の上半身をぎゅっと抱いてきた。
「先生は男っているんですか」
「スポンサーはいません。セックスの相手ということなら、今はあなただけですね」
「……気を使っていただいてます?」
その声が緊張しているようなので、和泉は少し笑った。
「他にいるとしても、今この場で言うほど神経の通わない女ではないつもりです」
「欲求不満の男がいたら寝てやるんですか? 誰でも?」
「あなただけですよ」
「先生、嘘をついてくださるにしてももう少し」
「生理的に嫌だと思ったらしませんよ。そうでなければ、僕――私でいいなら。身体は使わないと硬くなりますし」
「男が好きじゃないんですね」
今の会話でその結論を導き出すということは、案外女の内面をよく見ているのかも知れない。
男の骨張った手首にそっと触れる。その太さに、触っておいて驚いた。
「女性が好きだと思ったこともありますが、それも違ったようです。僕はたぶん精神的に童貞なんですね」
「先生がですか? というと?」
「美しい女性に迫られて優しくリードされると興奮します」
「それは心の底から本当によくわかります。男ならみんなそうだと思いますが」
「自分が男だと思ったことはありませんが、性欲についてはそうですね。というよりも、トラウマなのかも知れません。原体験が強烈だから、それ以外のことは平坦に感じるという」
「それもよくわかる」
和泉を抱く腕に力が入った。
「先生もつらいんですね」
「え? 別につらくはありませんよ」
「そうでしたか~」
「言葉が不適切でしたね。俗語としてのトラウマは、ポジティブな意味でも使われているので、そういうつもりでした」
姉弟子ならば避けたであろう用法だ。不用意なことを言うものではないなと反省する。
ところでまだピロートークは終わらないのだろうか。男の腕が解かれる様子はなかった。
できればもう風呂に入りたいと思いながらも、空気を読んで言葉を探した。
「あなたはつらいんですか?」
「いえ、そんなことより、先生のポジティブなトラウマの話を聞きたい。すばらしい話の予感がします」
「それはプライペートなことなので」
「急にがっつり線を引いてきますね……すみません。今はパブリックなんですか」
「そうではなくて、相手のあることですから」
もう亡くなってしまったが。
そのことを、和泉はそれほど悲しんではいない。老いて亡くなるのは自然の摂理に他ならないし、覚悟を決めるだけの時間もあった。
しかし、こうして思い返すと寂しい気分になる。あの手は二度と和泉に触れることはなく、あの声は二度と優しい小理屈を語らない。
「先生?」
涙は無音で流れる。鼻水もそうなのだが、そちらは啜らなければ悲惨なことになってしまう。だから後ろの男にも知れてしまうのだ。
男が息を呑んだこともまた、和泉に伝わる。
「先生」
「ごめんなさい、ちょっと……もう大丈夫です」
実際すぐに涙は止まったのだが、男はさらにきつく和泉を抱き締めてきた。
背骨が軋む。
「あの、ちょっと力が強」
「先生に本気になってしまうと迷惑ですか?」
「え? 今?」
「あなたが泣いていると思うと、放っておけない気分になって」
「もう泣いていませんし、大丈夫ですよ。あの、もう少し力を」
「俺が守りますから」
何からであろうか。
思い込みが激しいというよりは、情が移ったということなのだろう。
悪い傾向ではないのかも知れない。弟へ向けている庇護欲が和泉によって分散されるならば、少なくとも弟のほうの負担は減りそうだった。
なるべく棒読みに聞こえないよう、ありがとうございますと言った。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。