蜂の残した針 31話
ガードレールが破損していることに気付いたのは、蘭香だったそうだ。
少し不自然な話ではないかと、白威はかすかに思った。
屋敷の者が勝手に設置したガードレールは、山道の一割もカバーしていない。ランダムのような間隔で、いくつかのカーブに心ばかり添えられているだけだ。それが壊れているからといって、すぐに気が付くものだろうか。
「すぐとは限らないんじゃない? 半月前に壊れてて、半月経ってようやく蘭子ちゃんが気付いたのかもよ」
父が鋭いことを言ったので、白威は感心した。しかしそうだとすると、車を探しに行く者がさらにひどいものを見ることになる。
それに任命されたという父は、丈夫な上着でも探しているのかと思ったのに、寝間着用のTシャツに着替えていた。
「おい、そんな恰好で……」
「いや、捜索は夜が明けてからだって。こんな夜中に出たら、二次災害起こすかもしれないし」
「そんな悠長な」
半月前に事故が起きていたら、発見が一日ずれたところで変わりはすまいが、二時間前に起きていた場合は、一刻を争うのではないか。
父は布団を敷き始めている。
「子供でも乗せてたんなら、刹那様も今から探せって言うかもしれないけどさ。連絡が取れないのは、豪礼様だけだから」
だから緊急ではないと判断されているのか。白威は意外に思った。子供よりも、重鎮のほうが命が軽いとされる世界であったらしい。
白威が子供であった頃、その命はかなり軽く扱われていた気がするが、まあ、天秤として見れば仕方のないことだろう。感染症は、一族すべての命と重さを競うことになる。不満に思ったところで仕方もないので、深く考えないことにした。
父は扇風機を止めて、蚊取り線香を焚いている。まったくいつも通りの行動を取りながら、わずかに慎重そうな声で問うてきた。
「斎観様は大丈夫なの?」
「大丈夫ではないだろうけど」
そう答える自分の声が、父よりも冷淡な気がして、白威は咳払いをした。
「青い顔をしていたけど、ショックを受けているというよりは、皇ギ様のことを心配していたんだと思う。家族の問題だから、俺が首を突っ込むことはできないだろう」
「組み立てて喋るねえ」
温度の低い冷やかしに、かっとなってしまったのは、自分でも同じことを思っていたためだ。文章を組み立てて喋っている。しないことの言い訳が綺麗に立つように。
朝まで、家族は眠ることができないだろう。何か言葉くらい掛けてやるか、聞いてやるかをした方がいいのだとは思う。
しかし、あの長身の兄弟子の、あの体重で寄りかかられることを考えると、白威はぐったりとした気分になる。頑なそうに見えて、白威がたまにつつくといっぺんに崩れてくるのは、例のあれを内側にたくさん湛えているということだろう。寂しさを。
寂しい男というのは、気色が悪いものだ。飢えているからあさましい。亡者の手前の存在である。白威は嫌悪していた。
少し愚痴を言えば、兄弟子の部屋に行く気になれる気もしたのだが、父は夏用の薄い布団に入り、イヤホンを着けている。今、そこそこ衝撃的なニュースが駆け抜けているこの屋敷で、音楽など聞いている者は他にいるのだろうか? 呆れるほどの薄情さである。
「刹那様も色々お忙しいんじゃないのか。手伝いに行かなくていいのか」
イヤホンを貫通する程度に声を張る。父は壁時計を指す。業務時間外だという意味だろう。
美少年の師に眦を下げているくせに、この淡白さだ。和泉はおそらく、夜間でも師の手伝いをすることだろう。姉弟子にどれほど差をつけられても気にする様子のない、このマイペースさは、必ずしも短所ではないのだろうが──。
──いや、短所だろう。
良しも悪しも表裏一体だが、その量によって結果を測るものだ。父の性質はマイナスの査定のほうが嵩む。薄情、冷淡、変わり者。外見主義者で、しかし自分の身なりには無頓着だ。良いところがない。この女にずっと給料を出している、刹那の懐の深さを思う。
そんな父親に、自分が似ていると思うのが嫌で、白威は部屋を出た。風呂に入るのは不謹慎だろうか。葬式が控えていると考えれば、身を清めたほうがいいと思うが。
考えるのが面倒くさくなって、兄弟子の部屋に行った。しかしそこは留守であった。廊下は深夜に相応しく静かだが、やはり灯りのついている部屋が多い。会議なども開かれているのかもしれない。
凶事が起きた時特有の、空気のざわめきがある。交通事故が起きるのは何年振りだろうか。人里ではなく、山の中で起きただけ、内々で処理できるために幸運とは言えるだろう。もう救命のことを考えていない自分に気付く。死んだのだろう、兄弟子によく似たあの大きな男は。
突然、白威の胸に影が落ちた。こんな部屋の前で突っ立っている場合ではない。廊下を引き返して、地位の浅い者の部屋が集まっているあたりまで出る。
正確な場所を知らないため、電話をかけた。着信音が鳴った部屋を確認して、すぐに電話は切る。襖越しに声を掛けた。
「起きていらっしゃいますか」
襖が開いた。茶色の薄いワンピースを着た蘭香は、戸惑ったように眉をひそめている。
「どうかなさったの?」
この上まだ何か、と言いたげな、疲れた声だった。事情聴取が続いたのだろう。
「すみません、夜中に。話を聞いたもので」
「発見者のプライバシーも守られないのね!」
怒りを込めて、しかしあたりを気にしたらしい小さな声で、蘭香は言った。
「たまたま気が付いただけよ! どうせ、通ったけれど気付かなかった者が大半なのに、気付いたわたくしに責任が生じるんですもの。やっていられないわ」
「責任?」
しぐさで入室を勧められたため、それに従う。歓迎ではなく、周りに話し声を聞かれたくないという様子だった。襖がすぐに閉められる。
「あのあたりは電話が通じないでしょう? 通じないのよ。もう暗かったし、わたくし、急いでここに戻りましたの。でもご家族は、わたくしの行いを責めるのでしょう。なぜすぐ下りなかったのかとか」
「そんなことはしないと思いますが──」
先ほど、悠長なと口走った自分のことを思い出して、白威は語尾を濁してしまった。そのかわりに聞く。
「すぐ下りられないような状況だったのですね」
「昼でも無理よ! 崖の下ですもの。レスキュー隊じゃないのよ」
「夜が明けたら、父が行くと」
「形だけの捜索でしょう。見つからないわよ、あんなところを落ちたのなら。見つけたとしても、車を引き揚げる手段はないわ」
車の中で死んでいた場合、運転手も回収できないということか。どうやら白威の父は、傷んだ遺体を見ずに済むらしい。
「落ちたことは──確実なのですか?」
「何十回も聞かれたわ。見たらいいじゃない、絶対に落ちたわよ、あのガードレールの壊れ方は。ほら」
蘭香はスマートフォンを操作して、画面を突き出してきた。フラッシュで白く照らされた山道の写真。確かに、崖に向かって突き破られた形のガードレールが映っている。
きちんとした第一発見者である。あるいは、本当はそうでないのかもしれない。蘭香ほど誠実ではない者が、先に事故に気付きながらも、面倒を嫌がって、見て見ぬふりをした可能性はある。
そんなことは考えもつかなかったらしい蘭香は、自分の不運を呪う言葉をぶつぶつと吐いて、座布団にぺたりと座った。睨むように白威を見上げる。
「斎観さんに言われたの? 現場のことを聞き出してこいとか」
「いいえ、あなたが心配で」
蘭香は少しぼんやりしたような顔になった。
「わたくしが?」
事故の現場など見たならば、ショックを受けているだろうと思ったのだ。蘭香の白目は血走っている。何度も証言させられたせいか、声もかすれていた。
冷たい紅茶を飲ませてやりたいと思った。夕方に作ったものが冷蔵庫に入れてある。グラスに入れて持ってこようか、いや。
「温かい牛乳でもお持ちしましょうか」
「子供ではないのですから、そんなものいただきませんわ」
子供の頃にホットミルクを飲んだという記憶のない白威は、蘭香がお嬢様言葉を取り戻したことに安心する。祖父か、亡くなる前の父親か、誰かに温かい牛乳を飲ませてもらった、育ちの良い女なのだろう。ショックに弱いのも当たり前だ。
白威が隣に座ると、蘭香は肩をもたれかけてきた。
「嫌だわ、わたくし。斎観さんの落ち込んだ顔を見たら、こちらも気が滅入るに決まっていますもの。まさか落ちたのが豪礼様だとは思っておりませんでした。あの方、事故なんて起こすようには見えませんでしょう? わたくしの祖父が落ちたかもしれないと思って、帰りの運転で手が震えたんですのよ。怖いわ、ああいう時、電話が通じないというのは」
一気に喋って、蘭香は深く息を吐いた。吸って続ける。
「なのに祖父ときたら、わたくしがどれほど怖かったかも聞かないで、目を吊り上げて、誰が落ちたかばかりを気にするんですもの。それは当たり前ですけれどね。わたくしに聞かれたって、わかるわけないわ、あんなに暗い崖の下のことなんて。──まあ、嫌だわ、こんな言い方」
「言い方?」
「暗い崖の下だなんて、冷たい海の底みたいな、遺体を憐れっぽく装飾する言い方に聞こえますわよね。ご遺族にはつらいでしょう。気を付けないと」
やはり蘭香の中でも、豪礼は亡くなったことになっているらしい。その言い方のほうを気を付けるべきではと思ったが、今は何も言わないことにした。
「嫌だわ。朝になって、斎観さんの顔を見るのが」
先ほどその顔を見た白威は、蘭香の頭を抱き寄せる。女物のシャンプーの甘い香りがした。
「蘭香さんがそれほど気になさることはないと思います。本当に」
「そうはおっしゃっても」
「自然死だとすれば、大往生でしょう。事故死だけ悲愴ということもないと思いますが。突然だからびっくりしたというだけで、あの年の方が亡くなるのは、当たり前なのですから」
「それは……え? 本当にそうですわ」
気付きもしなかったという様子である。威風堂々とした、背筋の伸びた大男であったから、老人であったという印象がないのだ。
きっと、兄弟子も同じなのだろう。その姉もそうなのではないか。弟は、少し違うような気がする。
蘭香がもう少し落ち着いたら、西帝の顔を見に行こうと思った。もっとも、彼は寝ているかもしれない。それはそれでいい。そう考えると、白威もうっすらとした眠気を感じた。
高い塔の上から飛んで、傘で風を切って空を滑走する、やけに爽やかな夢を見た。
その傘は黒色であったような気がする。顔を洗って服を着替えて、師の部屋に挨拶をしに来た西帝は、師の目を見ながらそう思った。
弥風は普段通りの灰色の服を着て、普段通りに畳に寝転がっていた。しかし、普段よりも目が合う。つまり西帝のことを見ているのだ。
心の中では快哉を叫んでいるかもしれない、実際に声を出して叫んでいたのかもしれないが、西帝の前では神妙そうな顔をするのだなと、師の意外な一面を知った。
「今日は十四時に会社ですよね。昼にお迎えに上がります」
「は? 今日は、お前、忌引きだよ」
意図して黒い服を着ていないのだろうに、死んだことは確定として扱うらしい。西帝は憂鬱になった。葬式をやるってことか? 面倒すぎる。
師は上体を起こした。そのまましばらく黙っていたが、不機嫌そうに言った。
「下がっていい。というか、だから、休んでいい」
「はあ、ありがとうございます」
喪服って持ってないんだよな。西帝の憂鬱は加速する。みなが着るのだから、誰かに借りることもできない。ちゃんとしたのは高いんだろうな、一番安いヤツにしよ。
「お前、喪服は持ってるのか。買うなら金を出してやる」
しばしばあることだ。師がエスパーというよりも、西帝が分かり易いのだろう。ありがとうございますと頭を下げる。
「それと刹那に言って、薬をもらっとけ」
「お風邪でも?」
「違う。鎮静剤だ、飲み薬も注射もある。お前の姉がヒステリー起こした時のために」
「起こすかなあ? 大丈夫だと思いますけど」
弥風は怪訝そうにしている。
西帝の姉は、誰からも理解されない女だ。西帝ももちろん理解していない。しかし、傾向くらいはわかる。
とか言って、ヒステリーの叫び声が聞こえてくるパターンかなと思ったが、今のところそうではないようだ。今日はまだ兄にも姉にも会っていない。部屋の区割りが遠いから、パターン通りに暮らしていると、あまり顔を合わせないのだった。
どうせ車は見つからない。兄は探しているかもしれないが、西帝が加わる必要はなかった。形だけの捜索で疲れても仕方ない──
師の電話が着信した。
「ああ、そうか。だろうな。ああ──はあ? あそこを下りる? 崖だろ。沙羅が? ロープで?」
大変なことが起きそうになっていた。西帝は両手でバッテンを作って、やめてくれとアピールする。
「やめさせろ、絶対駄目だ。──そのロープでふん縛って止めとけ。ポテンシャルのバケモンだな。鎮静剤打っとけ。ああ」
沙羅がロープを持ち出しているのを、他の者が止めているという図式であるらしい。師は電話を切って立ち上がった。現場へ出るのだろう。
「申し訳ありません、いろいろご迷惑をお掛けして」
「迷惑を掛けてるのは沙羅で、お前じゃない。車──いや」
「出します、車を。喪服はあとで買いに行きます。どうせそれしかすることありませんし、せめて沙羅さんの説得にあたります」
ふん縛る手伝いをする、をマイルドに言った。沙羅は体力があるし意志も強いから、現場は苦労していることだろう。
「いい。お前は休んでろ」
「ですが」
「お前を今日運転手にしてたら、周りがどう思うか考えてみろ。僕が困るんだ」
一瞬そうかと思ったが、世間体を気にするのならば普段からしているだろう。やはり配慮と考えるべきで、ならば従うのが礼儀か。
廊下に出て、縁側から空を見上げた。快晴である。桐生は今日帰ってくるそうだから、道が悪くなくてよかった。
やや気分がよい。意外と、この程度のもんなのだなと西帝は思う。それとも、これから感慨が湧いてくるのだろうか。
蕎麦でもたぐりたい、と唐突に思った。別に好物ではないし、江戸っ子でもない。喪服で入ってもおかしくない食い物屋として、なんとなく連想したのだろう。日に三度の食事が必要なわけでもなし、喪服を着たなら、汚さぬようどこにも行かぬのがベストだと思うが。
浮かれているのかもしれない。沙羅や、姉と接する時に気をつけなければ。
水でも飲もうと台所に行くと、兄が赤飯を炊いていた。
「浮かれすぎだろ」
「違うんだって」
炊飯釜の中の、炊きたてらしい赤飯をしゃもじで混ぜながら、兄は言い訳した。
「長生きしたもんが死んだ時は、赤飯を炊く風習が……日本の一部にあるらしい」
「ここはその一部じゃないだろ、たぶん」
「暗くすると、気分が落ち込むもんもいるだろ。ケ丸出しにするのもよくねえっていうから」
「赤飯はハレすぎない?」
しかし伝聞調である。兄自身の思い付きではないようだ。そのあたりにあったコップで水道水を汲み、飲みながら話す。
「姉さんは?」
「ぼーっとしてたから、その隙に鎮静剤打っといた。部屋で寝てる」
「鎮静剤ってそんな気軽に打ち打たれしてるもんだったのか。怖いな」
口に入れるものならば警戒もできるが、注射は避けようがない気がする。刹那が管理しているようであるし、誰でも手にできるわけではないのだろうが、選択肢として存在していることが恐ろしい。倫理や人権という言葉が思い浮かぶが、どちらもこの屋敷にはあまり浸透していない概念である。
「その赤飯、どうすんの? 配るの?」
「そうだな、何人かに。らんこちゃんとか」
「なんで愛人に赤飯を配るんだよ」
「迷惑かけたから」
痴話喧嘩を赤飯で挽回しようとしているのなら、センスが壊滅的だ。あまりにもモテない。西帝よりも下を行っている。
兄は赤飯をラップで小分けにしている。握るつもりらしい。
「やっぱ変か? 赤飯は」
「変っていうか、強めのメッセージ性が発生するよね」
「俺も変だと思ったんだが、あいつが言ってたから、そういうもんかと思って炊いちまった」
兄がこの距離感で呼ぶあいつは、桐生か白威のどちらかだ。交友関係が狭いのである。
「白威さんに担がれたの?」
「そう思う? いや、そんな不謹慎なことしないだろ、あいつは」
「──昨日俺の部屋に来たかも」
半分寝ながら対応した。寝ていたならいい、とだけ言われた気がするが、やり取り自体が夢かも知れない。深夜に彼の訪問を受けたことなど、これまでない。
「兄貴、なんかやらかしたの?」
「やらかしたとしても、今日この日に復讐されるレベルのことじゃねえと思う。たぶん」
「そりゃそうだ。今日この日に復讐するような男じゃないもんな」
はは、と兄は笑った。それから握った赤飯を差し出してくる。
「食う? メッセージ性の強い赤飯」
「食おうかな、じゃあ」
メッセージ性の強い儀式を交わして、晴れた一日が始まった。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。