断章 「破れる世界」
ここはどこだ。天井が白い。屋敷の天井は、どこも木目なのに。
新居に越して半月ほど経つにも関わらず、冷や汗をかきながら桐生は目を覚ました。
カーテンを閉めた薄暗い部屋。昼過ぎのようだ。隣には女が眠っていて、その安らかな寝顔を確認し、桐生はようやくほっとした。
天井や部屋よりも、同じベッドで師と休むことが慣れない。クイーンサイズのマットレスの、落ちるほど端で桐生はいつも身を硬くしている。リビングのソファで寝る方がマシかと試してみたが、長身の桐生には無理だった。
此紀は外出する用事のないとき、薄い部屋着で過ごす。眠る時もそうで、今は白いTシャツ一枚だった。下半身は下着だけで、シャツの下にはそれも着けていない。
脚の長い女だ。胸を見ないようにすると、そちらへ目が行く。この脚が腰に絡みついてくる妄想を、眉間を強く押さえることで追い払う。
もう少年でもあるまいし、自分をそれほど抑制のきかない男だと思ったことはない。実際、これまでずっと我慢している。風呂や着替えを手伝い、男を手配したこともあった。そのシーツを洗濯しながら、これはどういう苦行なのだと憤ったものだ。
───でも、もう俺のものになったのだから。
理性と矛盾する、暗い満足感を桐生は得ている。誰ももう、この女を追っては来られない。典雅もだ。買い物と通院には桐生が付き添い、それ以外では外出をしないよう見張っている。軟禁と、言わばいいと桐生は覚悟を決めていた。長く甘やかしていた典雅が、この女の容態を快方に向かわせたか? 俺は違う、治してみせると、経文のように桐生は唱える。
俺のものだ、いや違う。治してやりたいと純粋に思っている。でも、俺のものになったのと同じことだ。治ってほしい。あの知性的な視線で、上から桐生を見据えながら、数学と社会のことを話してほしい。あの時のように、それはいつだ?
桐生が祖父の采配で師事を決められた時には、この女はもうしじゅう酒を飲んで、うつろな目をしていた。短い正気の間も、学問など教わったことはない。この女のもとで桐生が覚えたのは、掃除と洗濯、介助、簡単な調理である。子供の頃、桐生に勉学を教えてくれたのは、父親の弟弟子だった。理数系は性に合っていると思ったから、独学で続けた。社会や経済は伯母がいくらか詳しいから、その影響を受けた程度である。
寝起きだから、認知が混乱しているのだ。桐生は師を起こさないように、そっとベッドから出た。
歯を磨き、顔を洗って服を着替えた。長い髪に櫛も入れる。鏡に映る自分は、祖父や父にそれほど似ている気はしなかった。自分のほうが美しいと桐生は思う。造作の話ではなく、若いためだ。此紀に、それほど釣り合っていないことはないはずだ。
流し台に置かれていたグラスを洗っていると、此紀が起きてきた。寝起きの青白い顔で、気分も悪いのかもしれない。かすれた声で要求を述べてきた。
「水……」
「はい」
洗ったばかりのグラスに浄水器から水を注いで手渡した。
ひと息に飲み干して、空いたグラスをそのあたりに放置すると、此紀は洗面所へ行った。先程の桐生と同じように、歯を磨いて洗顔をしている音が聞こえる。化粧もしているようだ。
外に出る予定のない日も、此紀は化粧をする。桐生はそれを、自分に向けられたものかと思ったのだが、どうも習慣的なものらしい。
水色のワンピースに着替えて、顔色も明るくなった此紀が戻ってきた。リビングのソファに腰かけてぼんやりとしている。
桐生は湯を沸かして、コーヒーをドリップした。マグカップを此紀に差し出す。
「ありがとう」
熱い飲み物を少しずつ飲む姿は可愛らしい。まだ眠たげだ。長年の暴飲により、飲酒しなければ夜も寝付けぬ体質になった師は、睡眠薬を使っている。
桐生はキッチンの安い丸椅子に座り、師のカップが空くまで時間をつぶした。主従の関係であるから、同じソファに座ることはできない。ベッドは同じなのに、なんだかなあと、桐生は少し苛々とする。それは不平ではなく、鼻先にニンジンを下げられた馬の気分だ。
「ねえ……」
間続きであるから、小さな声でも届く。桐生は腰を上げてリビングに移動した。
「はい、なんでしょうか」
「お腹空かない?」
「明日、青柳の使いが参りますので、少々ご辛抱ください」
「そう……」
よく身体に合った洋服の、胸の部分から桐生は目を背けた。依然としてブラジャーは着けていない。化粧はするのに、そちらはいいのだろうか? 女のルールは未だ桐生にはわからない。
師は、悲しそうな顔をしている。越してきた前日に食事をしているから、それほど空腹なわけでもないだろう。
典雅のことか、色舞のことを思い出しているに違いない。桐生は悔しくなる。それは、まだ家族になれたわけではないだろう。しかし目の前にいるのに、透明なものとして扱われるのは、桐生の自尊心がいたく棄損される。
この女を犯してしまうかもしれないと、桐生は腹の奥で思う。今はこらえられるが、いつまでも続きはしないだろう。性欲と苛立ちと、虚しさと、泣きたいような気持ちが濁流となって、桐生の底を破ってしまう日が、もうすぐそこまで来ているような気がする。
たった半月だ。典雅の寄り添った日々の、爪の先にも及ばない。
深く息を吸う。そうしなければ涙が出てしまうような気がした。
「どうしたの……?」
此紀はカップをサイドテーブルに置くと、立ち上がって、桐生の前髪を指でそっと払った。優しい仕草だ。子どもの頃、よく伯母がこうしてくれた。
「触らないでください……」
「どうして」
どうしてだと? かまととぶるのも大概にしろと、桐生は叫び出しそうになる。
誘惑していないとは言わせない。この、淫乱女。桐生が女と会う時間を作れないということは、この女も男と会っていないということだ。男なら誰でもいいくせに。だから、桐生に身体を見せつけているに違いない。
逸脱者のようなことを考える自分にも、桐生はショックを受けている。吐き気を覚えた。それを紛らわせるために、また息を吸う。
師はソファに座り直すと、桐生を見上げて言った。
「座ったら?」
こう言われれば、桐生は隣に座ることができる。そうして腰掛けて、髪を軽く結って上げている師の、白いうなじを見る。
「ごめんね」
穏やかな声でそう言われて、桐生は多くのことを恥じた。
「いいえ───申し訳ありません、私が、未熟で、至りませんで」
「あたしと寝たい?」
「はい」
桐生の肩に、頭が寄り添ってくる。女の甘い匂いが立ちのぼってきて、比喩ではなく本当に目眩がした。心臓が痛いほど脈打つ。
山にいた頃は、これほどまでに激しい劣情を催したことはない。いつかありつきたいとは思っていたが、今の衝動とは種類が違う。
この女を独占したいという欲望が、桐生の中で粘るように育っている。それが手口だと、かつて誰かが言っていた。美しい女だが、罠を張る食虫植物だ。甘い匂いを嗅がせて男を馬鹿にし、そこを取って食うのだと。
それは、捨てられた男の泣き言だろう。桐生には自信がある。なにしろ、典雅を排除したのだ。この女は桐生が獲得した。心も身体も、未来までもだ。
───全部まだだろう。
そう嘲る自分の声が聞こえぬように、桐生は別の声を発する。
「愛しております」
「愛……?」
不思議そうに言って、女は桐生を見上げてきた。何がわからないのだと、桐生はまた腹を立てる。明白ではないか。この女を手に入れたいと思う。この強い執着を、そう呼ぶはずなのだ。
此紀の手が桐生の膝を触って、それは幼子をあやす手つきだと思った瞬間、桐生は女を押し倒していた。
自分の手が勝手に、女の乳房を服の上から揉む。想像していたよりも柔らかい。そのことを、許せないと桐生は思う。こんなものを他の男に触らせてきたのだ。
服を毟るように脱がせる。ボタンが千切れる手ごたえがあった。愛している女にすることではない。しかし、こうするしかないのだ。この女は自分自身のことを制御できない病なのだから、桐生が支配しなければならない。
下着を脱がせても、此紀は抵抗しなかった。どこか眠たげな表情で桐生を見ている。やはり薬が残っているのかもしれない。
陽にあたることのない肉体は白く、どれだけ批判的に見てやろうとしても、絵空事のように美しかった。不摂生も不養生も、まったく表に出ていない。
「桐生」
腕を伸ばして、桐生の髪を撫でてきた。
「抱きたい?」
「はい」
此紀は「そう」と小さな声で言って、なぜか笑った。
「可笑しいですか」
「いいえ。ただ、慣れてないの……従者と寝ることに。怖い顔しないで」
顔? 桐生は自分の顔を触った。もちろん表情などわからない。手が冷たくなっていることだけがわかる。その手に、此紀の手が重ねられた。
「優しくして。それと、軽蔑しないで……あたしがどんな声を出しても」
背筋にぞくぞくと震えが走る。頭だけが熱く、それ以外のすべてが冷えていた。
師の手が桐生の服にかかる。脱がされていくのを、どこか遠いことのように感じた。夢のようなと言うには柔らかさに欠いて、心は鋭角的だ。目の前の女を突き刺したいという思いで、気が狂いそうになっているのに、血が回らずに桐生の男性器は萎えている。
惨めなのか、もどかしいのかわからず、桐生は荒く息を吐く。
「大丈夫よ……」
そこに優しく手が添えられた。ゆっくり、ゆっくりと摩られる。
「これからずっとしてあげるから、大丈夫……」
そうささやく声が、これまでに聞いたことのない、色っぽい響きを帯びていて、桐生は一気に血が巡るのを感じた。
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