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蝶のように舞えない 13話


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 弟から八件の電話着信が入っている。それと、六件のメッセージ通知。

 その通知を見た瞬間、血の気が引いた。指先がさっと冷える。
 目の視えない弟の身に何かあったのではないか。マナーモードなどにするべきではなかった。まだ生きているだろうか?
 崖から足を滑らせて、虫の息で電話を握りしめる弟の姿が思い浮かぶ。

 震える指でメッセージのほうを開き、弛緩した。

 生きているし、足を滑らせてもいないようだ。しかし電話は折り返したほうがいいだろう。

 風呂の様子をうかがう。シャワーの音は止まっているが、まだ出てはこない。

 電話をかけると、弟はすぐに出た。

『今どこ?』

 やや不機嫌そうではあるが、それほど焦っている様子はなかった。すでに山場は過ぎたらしい。

「悪かったよ。外にいる。今から帰るが、どうなんだ、ええと――沙羅さんは」
『さっき部屋に戻らせたけど、いつもああなの? 兄貴は知ってたのかよ』
「沙羅さん自身が何も言わないんだから、口を出せることでもないだろ。嫌だと言ってるんなら俺だって仲介に入るが」
『言わなくたってあきらかだろ、あんなの』
「虐待なのか激しいプレイなのか、本人がはっきり証言しなきゃ民事不介入ってことだ。お節介を焼いても迷惑かもしれんし、おっと電波が」

 通話を切る。風呂の戸が開く音が聞こえたからだ。

「なにか言った?」
「電話だよ。もう切った」

 湯気をまとう身体にバスローブを羽織って、女はこちらを見た。怒りの表情。髪を洗ったようなのに、どういうわけか化粧は崩れていない。

「あの女?」
「そんなわけないだろ。そうだとしたら今出ねえよ」
「出てやればいいのよ」

 恐ろしいことを言いながらこちらへ来る。
 決闘を申し込むかのようにタオルを投げつけてきた。

「髪拭いて」
「なんでおかんむりなんだよ」
「早く。チェックアウトに間に合わなくなるわ」

 出陣前の武将のようにベッドに腰かけている。
 仕方なく、その隣に座り、投げられたタオルで長い髪を挟んだ。

「髪なんか家で洗えよ。風邪ひくぞ」
「ひかないように乾かしてよ。うちのお風呂って、いつも床が濡れてて嫌なんだもの」
「ああ、あれは嫌だな」

 髪に手櫛を入れてやる。量が多いなと初めて思った。豊かな黒髪というものなのだろうが、これでは首が凝りそうだ。

「あの女と比べたでしょ?」
「今は比べた。すまん。なんでわかるんだ」
「あんたは単純なんだもの。どうせ夢中なのはあんただけで、向こうは遊びか暇つぶしなのよ」
「いや、俺たちは心から愛し合ってる」

 黙らせるための冗談だったが、苛立ちのため息が返された。

「なんでそんなにカリカリしてるんだ? 妬いてるわけじゃねえだろ。比べたのは悪かったよ」
「わからないっていうの? あたしが怒ってる理由が」
「面倒くさいクイズ出さないでくれ。俺と先生のことが面白くないんだろうが、結局俺があんたから離れられないのもわかってるだろ。冬虫夏草みたいなもんなんだから」
「もっといいものに例えなさいよ」
「いいもんじゃねえんだから、例えも禍々しくなるわ。あんたは綺麗だよ。俺はずっとそばにいる。それでいいだろ。女のひとりくらい許してくれ」

 ぐいっと首をひねって、睨みつけてきた。濡れた黒い瞳。その美しさ。青い瞳には宿らぬ、その憎悪のきらめき。

「救われたいっていうの? いまさら」
「そんなこと言ってねえだろ。ヒステリー起こすなよ」
「あんたがあたしから逃げたいとしても」

 頬に触れてくる。しっとりとした柔らかい手だ。普段は手袋にくるまれているから、保湿されているのだろう。
 爪が食い込むほど力を込めてきた。

「あんたはあたしの代わりを求め続けるんでしょう。意味のないことだわ」
「わかってる」
「誰も立ち入らせないで」

 ささやいてくる。

「天国だって、観測された途端に地獄になるわ」
「わかってる」

 薄汚いけだものだと断罪されるまでは、耽美文学の顔をしていることもできるのだ。神話にもなれる。

 自分たちは速乾性だ。一瞬でも外の風に吹かれれば、ここが地獄であることを知らされてしまう。
 保湿が必要なのだ。絶え間なくくるまれていなければならない。

「どうせ地獄なら、あたしの隣にいてよ」

 崖から落ちて、互いの手だけを握っているのだ。そうしないよりは、この女が慰められるだろうから。

 それも欺瞞か。女の手を振り払えない自分のことを、後付けで美化しているだけなのかもしれない。

 抱いた女を愛しているような気がするのと同じだ。

「愛してるよ」
「愛してるかどうかはどうでもいいけど――」

 吹きかけられる吐息。

「あんたを奪う女がいるなら許さないわ」

 先ほど、弟を失うのではないかと思った時の冷たさが、指先によみがえる。

「ずっとあんたの隣にいるから、先生には手を出さないでくれ」
「そう?」

 触れるだけの軽い口づけをしてきた。契約印であろう。自分との割り印だ。

「――髪を拭くから」
「そうね。そうして」

 素直にうつむく、その首の無防備さが、信頼や――愛を示している気がして、胸のあたりが重くなる。

 自分には愛を感じ取る才能などないと、ありありと思い知らされるからだ。




 小さな、優しい顔のサメに寄り添う夢を見ていた。

 ならば舞台は海だったのだろうかと、天井の木目を見ながら沙羅は考えている。
 海に入ったことは一度だけある。遠い過去の話だ。自分の脳は、そんなことを後生大事に記憶しているのだろうか。

 鼻の奥から揮発性の塗料のようなにおいがする。手足が重く、起き上がろうとしてもうまくいかなかった。
 自分の部屋の布団に寝ていることはわかる。それでだいたいのことは了解できた。強い痛み止めを飲んだため、感覚が麻痺しているのだろう。

 眠りに落ちていたのはどのくらいだったのかと、腕時計を見ようにも、手が持ち上がらない。部屋の暗さで、もう日が暮れていることはわかったが。
 空気はしんと静かで、外からの物音ひとつ聞こえない。深夜帯なのだろうか。机の上の鳥かごも静かだ。

 西帝は毛布を掛けていってくれたが、少し寒い。体温が下がっているのかもしれない。裸であるし、血も失っている。

 ――しかし、若い男に肌を見られてしまった。

 いや、見られてはいないのか。それにしても触られはしたのだと、そんなことを考えて照れる。あの部屋から戻った道中のことは覚えていないため、ひょっとすると、抱き上げられて運ばれたのかもしれない。

 ――にゃあ。

 心の中ではどんな奇声をあげても許されるだろう。

 初めてあれほど近くで顔を見たが、睫毛が長く、印象よりもずっと美少年であった。それに親切だ。自分がもう少し若ければ、今回のことで浮ついた気持ちを持ったかもしれない。

 ――にゃ、

 もう一度心の奇声をあげかけたところで、ふすまの開く音が聞こえた。
 顔を動かして見てみれば、兄弟子が立っている。

 沙羅を見下ろして、ピアスだらけの顔を緩ませた。

「起きましたか。西帝君から聞いて、何度か見に来たんですけど」
「うん――そうか」
「どうですか。体調は」

 布団のそばに膝をついて、心配そうに覗き込んでくる。
 泣いてしまったし、寝起きであるし、自分はひどい顔をしているはずだ。そのことを恥じる。

「化粧を直したい……」
「何を言ってんです。あなたは綺麗ですよ。その、身体は痛みますか? 起きられないくらい?」
「痛くはない。薬が効いているのだろう。だから身体も重いのだと思う」

 兄弟子の顔は暗い。

「迷惑をかけて、すまないな。先日から」
「かかってないですよ。傷は、すみません、親父に塞いでもらいました」
「なぜ謝る? ありがとう。右近にも伝えてくれ」

 これまでも彼女に傷の手当てをしてもらったことがある。いつも何も聞かれなかったので、なんとできた女だろうと感動したものだ。

「では、先生や――お師さまにも言わないでくれたのか」
「知られるのは嫌なんでしょう」
「うん。ありがとう」

 近頃、この兄弟子の優しさが染み入る。なにかと沙羅を気にかけ、手を貸してくれた。
 今回のことで迷惑がかからなければいいのだが。

「帳簿のことだが」

 ピアシングを施した眉がかすかに動いた。

「たぶん、持ち出すところを蘭香か誰かに見られてしまったのだろう。それで――皇ギを怒らせて」
「そんな目に?」
「でも、これで済んだのならよかった。どうせいつも似たようなことをされているのだし。私が従順にしていれば、もう蒸し返されることもあるまい。躾なのだろうから」

 兄弟子は何か言いかけて、首を横に振った。どういう意味のジェスチャーなのだろう。

「誰にも見せてはいないと言ったから、大丈夫」
「いえ――」
「もちろん、お前が戻したとは思っていない」

 持ち出した帳簿は元の場所に戻されていた。
 その経緯を問うつもりはなかった。この男がそうしたわけではないことはわかるからだ。
 右近なのだろうか、と思っている。そうだとすれば、その判断は正しいのだろう。恨むつもりはない。嫌な役回りをさせてしまったと思うだけだ。

 自分でもどうすればいいのか、どうしたいのかさえわからぬものを、他者に委ねても、どうにもなるわけはなかったのだ。

「私が馬鹿なことをして、あの女を怒らせるべくして怒らせただけだ。面倒に関わらせてすまなかった」
「違う」

 指輪を嵌めた手が沙羅の額に触れる。冷えた肌に温かさが染み入った。

「俺が何も知らなかったんです。女の――悪意のことを。リンゴの菓子には毒が入ってるとか、そういうことを全然、何も。蘭子ちゃんに言われても、自分には関係ねえと思ってた」

 普段、それほど比喩的なことを言う男ではない。誰のことを魔女だと目しているのだろうか。皇ギならばその通りだが、もし右近のことをそう思っているのならば、それは誤解というものだろう。

「アレルギー反応は免疫の機能だ。アレルゲンが毒というわけではない」
「どういうことです?」
「機構を維持しようとする者は、それを崩そうとする者を嫌う。それは当たり前のことであって――悪意のせいというわけではない。彼らからすれば、私こそが悪意の持ち主だ。それを制御しようというのは、適切な防御反応だろう」
「ん? あなたがアレルゲンなんですか?」
「今の話だとそうなってしまったが、先の話はそうではなくて――つまり、菓子が毒入りに見えても、そうとは限らないと言いたかった。悪意があるとは限らないと」

 体制を維持し、息子を厄介に巻き込みたくないという、その親心が悪意であるわけもない。
 もっとも、右近が帳簿を戻したと言明されたわけではないため、擁護も回りくどい言い方になる。

「沙羅さん」

 今度は頬に触れてきた。幼子にするような、優しい仕草だ。

「すみません。償いますから」
「それはお門違いだ。お前が気にすることは何もない」
「気にしないということはできないんですよ」

 それは自分の言葉だ。
 少し笑う。

「そうだったな。それなら、そうだな」

 もう少しそばにいてと言って、目を閉じた。


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