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蜂の残した針 27話


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 斎観はパンが嫌いだ。焼きたての一瞬はうまいが、冷めるとたちまち価値がなくなる。炭水化物を食わねばならない者が生み出した、ノルマのような食い物だと思っている。

 だからわざわざ食パンをトーストして、丁寧にジャムを塗っている白威を、変わったものとして眺める。

 桐生がいなくなって、一人部屋となった斎観の部屋に、白威はよく茶を飲みに来るようになった。父親よりは兄弟子を傍らに置くほうが、まだしもマシなティータイムを過ごせるということらしい。

 白威の淹れてくる紅茶は香料のわざとらしい香りがして、斎観はあまりうまいとは思わない。しかし文句を言うと女のように怒るから、黙って啜る。パンも食う。何の時間なんだと思わぬでもないが、まあ、親睦を深めるメンテナンスの時間であろう。

汗疹あせもができているから、ベビーパウダーをはたいておいた」

 不味いものを飲み食いするために、感覚を鈍くしていたせいで、その言葉も聞き流すところだった。斎観は顔を上げる。

「そうなの? 気付かなかった。どこに?」
「胸のあたりと、膝の裏にも少し」
「巨乳は胸の谷間が荒れるって聞いたことあるが、あんなに真っすぐでもそうなるのかよ」
「うつ伏せで寝ていることが多いから、通気が悪いんだろう。夏の間だけでも、もっと風呂に入れたほうがいいかもしれない」
「重労働だなあ」

 神無の体重は、見かけに反して70キロを超える。抱き上げるだけならば斎観にはどうということもないが、嫌がって暴れるのを濡らして洗うのは大変だ。

「まあ、入れるより仕方ねえな。俺が入れとくわ」
「助かる。ありがとう」

 その素直さ、さわやかとも言える簡潔さに、斎観は少し驚く。普段は隙あらば嫌味を挟んでくるのに、なにか良いことでもあったのだろうか。柔らかい声でこんなことも問うてくる。

「ジャムを食べたか? あまり甘くないから、桃の風味が残っていておいしい」

 斎観はジャムにも価値を感じない。生では食えない質の悪い果物をなんとか食おうとする、貧しかった時代の遺物だと思っている。
 食っていないと答えるかわりに、話を広げることにした。

「お前が作ったの? 相変わらずマメだな」
「いや、蘭香さんからもらった。ビンを返す時に飴でも入れようかな」
「飴って、戦後じゃねえんだから」

 斎観は飴のことも見下している。それを知る白威は苦笑した。

「最近は飴もしゃれて、おいしくなっているんだ。お前の石頭は情報を更新しないな」
「飴がプリンよりうまくなることは絶対ねえだろ」
「日持ちと携行性で、プリンが飴を上回ることも絶対にないだろう。比べるのはナンセンスだ」

 菓子を日持ちで論ずることもセンスがないと思ったが、口には出さない。斎観はこのところ、弟弟子の機嫌を損ねまいと気を使っている。離れて行ったら寂しいからだ。色舞はともかく、桐生のことはかなり堪えている。

 紅茶にもジャムを入れて、アフタヌーンティーを満喫している白威は、やけにハンサムに見えた。端正な顔をしているわりに影の薄い男なのだが。

「お前、痩せた? それか化粧してる?」
「は? ああ、眼鏡を変えた」

 言われても眼鏡の違いはわからなかったが、外見が上方向に修正されていることはわかる。

「女?」

 斎観の野卑な問いに、白威は答えない。うるさげに眉を寄せただけだ。

「男じゃねえだろ。お前は男には合わせねえから」
「セクハラだな」
「お前が匂わせを決めてきてんだろ。俺はジャムをもらってねえんだよ」

 不思議そうな顔をして、白威はマグカップを盆の上に置いた。

「俺が蘭香さんのジャムを持ってきたことを、匂わせだと思ったのか? 寂しいおじさんが過ぎる。下衆の勘繰りだ」
「一緒に出掛けてんだろ。見たんだよ」
「そうだが、俺がそのことを匂わせていると感じるのは、お前の精神の異常を現わしているだろう。俺はお前の女を寝取ったりしないし、ましてそれでお前にマウントを仕掛けたりしない。そのくらいはわかるだろう」

 もっともであった。斎観は深く息を吐いた。自分という風船に穴を空けるイメージである。

 再びカップに口をつけながら、白威はつぶやいた。

「重症だな。マリファナでも吸ったらどうだ」
「もっと上がるもんを勧めてくれよ」
「上がるほうは高い。俺には買えない」
「マリファナおごってくれる気だったの? ありがてえけど、少ない小遣いをそんなことに使うなよ。貯めとけ。もしくは自分のことに使え」

 弟弟子は茶の湯気が染みるかのように目を細めた。

「俺は貧乏が板についているからいいが、桐生君は大変だろうな。プライドが高いと小さなことでも傷つくから、世俗と相性が悪そうだ」
「やっぱり金を送ってやったほうがいいと思う? 姉貴は甘やかすなって言うんだが」
「まさに、甘やかすべき場面じゃないだろう。すごいな、お前の発想は。ドラ息子育成RTAだ」
「金で解決できる苦労なんかさせても無駄じゃねえ?」
「彼はしたいんだろう、苦労を。ちょっかいを出すな」

 親心をちょっかいと呼ばれ、言い返したい気はしたのだが、白威はそうでたらめなことを言うタイプではない。正しいのかもしれなかった。

 芳香剤のような味のする紅茶を飲み、パンの耳にジャムをつけて食う。ローズマリーを入れ過ぎだと思った。蘭香の作るものにしては珍しい風味ではある。

「ベビーパウダーって何? 赤ん坊から作った粉?」
「古代中国の猟奇的な金持ちか。赤ん坊にはたく粉だ。まさしく、汗疹や何かを防ぐために」
「桐生にそんなもんをはたいたことねえが。よくそんな限定的な用途のもんを持ってたな。買ったの?」
「借りたんだ。女性はだいたい持ってる。赤ん坊用というより、赤ん坊にも使える」

 誰に借りたのだ、蘭香にかという詰問をこらえた。これではいよいよ嫉妬に狂うジジイである。違うとわかっていても疑ってしまう、この心のシステムは何なのだろうか。自傷行為の一種か? 自分で自分のことが薄気味悪い。

 蘭香のことをそれほど愛しているわけではない。白威のことは愛しているかもしれない。そう考えて両手の汗をジーンズの太ももで拭った。自分で自分が汚らわしくなったのだ。今、絶対に父親には会いたくないと思った。姉にもだ。胸の内を誰にも知られたくない。

「俺は気持ちの悪いジジイだな」
「今さら落ち込むようなことか? お前は気持ちの悪いジジイで、蘭香さんに振られるかもしれないが、神無様には気に入られている。なにか不満なのか」
「一点突破で全部オッケーにはならねえよ。神無様がいなくなったとしても俺は生きてかなきゃならねえわけだし」
「大変だな」
「お前もだよ。お前も生きるんだ、ずっと」

 白威は知らん顔で紅茶を飲み終え、近くの棚から雑誌を出してきた。桐生が置いていった住宅情報誌だ。

「見るな、そんなもんを。縁起でもねえ」
「神無様はここを出たいとおっしゃっている。ここは狭くて不自由で、嫌な思い出が多いから、都会で暮らしたいんだそうだ」

 ホラを吹いているのかと思ったが、口調は神妙で、神無の意思を汲み取る時のそれである。

「言ってたの? マジで」
「この前、少し冴えていらっしゃる様子の時におっしゃっていた。前例ができたから、通るかもしれない。どうする」
「急に言われてもな」

 金はなんとかなるだろう。周りに迷惑をかけなくなる分、介護はむしろ楽になるような気がする。

 しかし、里の空気は身体に悪い。丈夫にできている斎観はともかく、神無と白威の寿命を縮める行いであろう。

「承認しかねるなあ、俺の立場としては」
「最後の望みだろう。それでもか」
「せめて綺麗な空気を吸って、少しでも長く生きてほしいだろ。言ったっつったって、どこまで本気なのかもわかんねえんだろ」

 白威が悲しげな顔をすることに、少し苛立つ。まだ若い身で、そこまで呪われることもなかろうに。神無はもう残滓のような状態だ。縛られるほどの価値はない。

 斎観は暴れ出したいような気分になる。色舞に振られたのは、理由のないことではない。彼女が小さな声で漏らした、解放感について、自分は不快の目を向けてしまったのだ。その時の色舞の、憐れむような微笑み。いい年をして近親憎悪などという、生臭いものをまき散らす男に、もうついていけないと思ったに違いない。

 ゆっくりとその場に寝そべった。茶器から距離を取る。そうして手足をバタつかせた。

「俺のそばにいてくれ! どこにも行かないでくれ。らんこちゃんのことも取らないでくれ」
「最低ランクのおじさんだな」
「強く抱きしめて、愛してるって言って支配してくれ」
「お前は心の病を患っているんじゃないのか? カウンセリングに通って治療したらどうだ。付き添ってやろうか」

 わざわざ言うほどのことではないだろう。斎観の心はねじれてえて異臭を放っているのだ。神無の強い欲望に巻き取られることで、自分の責任というものから目を背けていられた。叫ぶ。

「嫌だ! 俺は、俺の心なんていうグロいものを直視したくねえ。心なんかどうでもいいから、脳に電極を刺してくれ」
「主人を失ったマゾヒストの末路はこうか。気をつけよう」

 白威も、蘭香も斎観のむずがりには冷たい。あやしてくれた色舞は弟に乗り換えた。姉は寄りかかろうとすると避ける。父は──

 父だと?

 自分の思考回路のグロテスクさに吐き気を覚えて、斎観は寝転がったまま息を止めた。




 沙羅は普段、ぶどう酒をあまり飲まない。嫌いなわけではないが、果物よりは米で作った酒のほうがうまいと感じる。

 だから細長い華奢なグラスに注がれているシャンパンを、もったいないという思いで見た。金色の液体の中に、細かな泡が立ちのぼっている。高価なものに違いない。

 目の前の万羽は、グラスの半分ほどを静かに飲んで、うまいともまずいとも言わなかった。

 間をもたせるために、沙羅も自分のグラスに口をつける。香りの華やかさと、きりっと立つ果実の味に驚いた。

「とてもおいしい。高いのだろう」
「知らなあい。もらったの、この前。あたしは炭酸があんまり好きじゃないから、どうしようかと思ってたのよ。残りは冷蔵庫に入れてあるから、よかったら飲んで」

 本当にそうしようと思うほど、ひんやりと涼やかな味のするシャンパンだった。繊細なガラス細工を液体にしたかのようだ。ジェンダーレスという言葉まで思い浮かぶ。色気がないのに魅力的な、中性というよりも無性を感じる味わいだ。

「こんなに良い酒をもらうことがあるのか。お前の交友関係というのは、やっぱり私とは違うのだな」
「そう? あんたはお金持ちの奥様じゃない」
「今時流行らない土地成金だ。お前の男とは毛並みが違う。見栄ばかり張って、そのくせ自信がないからカリカリして、今さら私の男関係などを疑う。つまらない男だった」

 沙羅のこうした愚痴を喜ぶ者もいるが、万羽は首を傾げただけだった。興味がないのだろう。

 今夜の万羽は黒いブラウスと、革のタイトスカートを合わせていて、とても洒落ている。金色の控えめなネックレスがセクシーさを引き立てていた。

 こんな服装をしているからには、当然どこかに出かける予定であったのだろうに、万羽は庭をぶらぶらしていた沙羅に声をかけて、部屋に招き、冷えたシャンパンを出してくれた。

「酒を飲んでもいいのか?」

 車を運転するのではないかと問うたのだが、万羽は笑った。

「未成年に見える?」
「いや、大人のいい女に見えるが。未成年はこんな上等なスカートを履けないだろう」

 黒いストッキングから透ける肌の色には、女の沙羅でもつい目をやってしまう。これほど高級な女と知り合えるのは、由緒正しい金持ちだけだろう。沙羅はたまたま血縁だから口をきけるようなものだ。部屋に呼んでもらっても、気の利いた話題のひとつも思いつかない。

「なんというか、ランクが違うな。私などとは」
「あんたがそんなこと言うの? あんたは綺麗だし、お茶もお花もできるんでしょ。あたしは全部だめだもん。つまんないから若い男に振られるのよ」
「まだそのことを?」

 万羽のことを馬鹿にしたわけではない。その逆で、これほど美しい女が、従者に去られたという程度のことを、何カ月も引きずっていることを不思議に思うのだ。

「男などいくらでも代わりがいるだろう、お前なら」
「あたしはいつもそばにいてほしいの。夜寝る時も、朝起きた時も、呼んだら来てほしいのよ」

 まあと沙羅は照れた。東雲がちょうど、師にそのようにして仕えているから、そうした意味だと思ったのだ。万羽は察したらしくふくれる。

「そういうのじゃないのよ。はいはいってなんでも聞いてほしいわけでもなくて、かわいいねって甘やかしてほしいの。此紀もいなくなっちゃって、寂しいんだもん」
「そのレベルで忠実な男となると、確かに難しいな。ここの男はみな勝手だし」
「桐生はどうしてあたしには見向きもしなかったんだと思う?」
「それは……此紀は、その、男に好かれる能力に長けているのだろう」

 要するに巧みなセックスで男を虜にしているのだろうという意味だが、万羽は唇を尖らせた。

「あたしは好かれないわよ、どうせ。見かけばっかりチャラチャラして、つまんない女だもん」

 万羽はシャンパングラスを掲げて、蛍光灯の光をあてるようにした。

「あたし、お酒の味もよくわかんないし。ワインとか好きな男からは馬鹿に見えるみたい」
「私は味がわりとわかるほうだと思うが、食通を気取る者こそ馬鹿に見える。少なくとも、上品なことではないだろう。何かを食ってうまいのまずいのと言うことは」
「でも、わかるほうが楽しいでしょ。っていうか、つまんなさそうにしてる女って、つまんないじゃない。あたしってそういうことなんだと思うの。だから先生もあたしのことが嫌いなのよ」

 目がきらきらと潤んでいるのはこの女の持ち味だと思っていたが、ひょっとすると涙目になっているのだろうか。もし悲しんでいるのだとすれば、そう見えないことで損をしている女なのだろう。

「先生の、あの長い足をちょん切って、外国なんかに行けないようにしたいわ」

 沙羅はしかけた同情を撤回した。この女は馬鹿だ。宣水が嫌うというのもわかる。

「あの長い足が失われたら、宣水など価値が半減するだろう。気の抜けたシャンパンで、硬くなったパンだ。意味がない」
「そうかなあ」

 幼い声を漏らして、万羽はため息を吐いた。

「そばにいてほしいの。昼も夜も。あたししかいないって思ってほしい。それってそんなに駄目なこと?」
「駄目かどうかは置いておいて、そのために足を切られそうなら、男はみな逃げるだろう」
「あたしが全部世話してあげるのに。そういう小説あるじゃない」
「知らない、そんな恐ろしい小説は」

 ことさらはっきりとそう言った。あるのならば読んでみたいと思う心を隠すために。

 万羽はグラスに残ったシャンパンをひと息で飲んだ。

「あたしはもっと甘いほうが好き。強くて甘いお酒を飲んでぼーっとしたい……」

 その声があまりに色っぽいので、沙羅はようやく、部屋に招かれた理由に気が付いた。

「あの、私は女とそういうことはしない。すまないが」
「なんで?」
「なんでと言われても、そういうものだから。別に、偏見があるわけではないのだが」
「つまんない……」

 ぴったりとしたスカートには深いスリットが入っていて、そこからちらりと下着の端を見せてきた。

「見せられても」
「あーん……」
「そんな声を出されても」

 だが、それほどに寂しいのだろう。

 沙羅は自分もシャンパンを飲み干して、腰を上げた。

「残りを持ってくる。お前を抱いてやることはできないが、ここで酒を飲むことはできる。何か、甘い菓子も探してこよう」

 万羽はころんとその場に寝転がって、「うん」と甘えるように言った。




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