蜂の残した針 8話
父の寄越した土産は、紺色の石を使った耳飾りで、鏡の前で和泉はほうと思った。
似合うような気がする。光らないアクセサリーというものを、和泉はほとんど持っていないが、髪と瞳が光るのだから、宝石の色は控えてもいいのかもしれない。
髪を下ろして、顔に角度をつけてみる。知性的に見える気がした。ブロンド女である和泉は、不当に内面を低く見られることがある。日本でも有数というレベルの大学を出ているのだが。
和泉は学歴も美貌も、ことさらアピールしたいとは思わない。後ろ指をさされない程度に、また鏡を見ると少し楽しくなる程度に、みすぼらしくはなく自由でいたいと思う。
この石は、なかなかよい。自分ではつい淡色のものばかり買ってしまうが、黒や紺という色も合わないわけではないのだ。
普段よりも軽い足取りで師の部屋に向かうと、美しい師は膝に猫を乗せて帳簿を開いていた。牧歌的な姿に似合わぬ苦い顔をしている。
「手伝いましょうか?」
「いや、もう書類の処理は終わったのだ。その結果、すーごい赤字があきらかになって、むむむとなっているところだ」
「すーごいんですか」
和泉がそばに座ると、猫は面倒そうに顔を上げて、一応という様子でにゃあと挨拶をしてきた。額を指で撫でてやり返答とする。
「洗濯機って本当に三十万もするのか? これウソを計上してないか?」
「あの新しく入った洗濯機ですね。最新機種なら、そのくらいはすると思います。家事をしないのに、家電に文句をつけるのはいけませんよ。白鷺さんなら怒ります」
「そうなんだよなあ、あいつそういうことで怒るんだよな。男みたいなナリして、地雷がどこにあるんだかわからんところだけ女っぽい」
「白鷺さんは地雷のありかがわかりやすいと思いますが……」
気軽に用事などを引き受けるが、それに感謝をしないと怒る。それだけのシンプルな、だいぶ心の広い女であるのに、師は凝りもせずに何度も炸裂させている。
女心に疎いのだ。和泉が髪を下ろしていることにも、新しい耳飾りを着けていることにも気付いていない。服に頭をこすりつけようとする猫のことも無視している。
「新しいアパート買っちゃおっかなあ。出物があるのだ。あの立地なら店子が入る気がする」
「勝手に買わないでくださいね。蘭香さんによく相談してください」
「へん。どうせ俺には不動産経営の才能がない」
わかっているのに、不動産を買うのが好きらしい。暇があれば売り出されている土地や建物を見に行き、その運用方法を考えては楽しそうにしている。経営のセミナーなどにも行っているようで、それらが最大の赤字を出していると和泉は見込んでいた。
微妙な立地の建物を、微妙な値段で買う癖があるのだ。日頃の性格に反して、そこだけは安牌を取らない。そこでこそ発揮してほしいものだが。
高位の師が私財で行っていることだから、周りは口を出さない。孫娘と長老だけが、なぜそれを買ったのだと裏手を入れる。
老後の趣味の中では、最大限に金のかかる部類だ。そこ以外は質素に寄った男なのに、一部分だけがリッチなのである。
一族の財政はけして楽ではない。医師が勤めに出られなくなり、不動産収入もこのありさまで、財源は長老の経営する会社にかかっている。紙製品の製造販売という業種は、カーボンニュートラルの直撃を受けるような気がするが、実際の景気はどうなのであろうか。
和泉の博士号は、今のところ金を生み出していない。道楽で取ったようなものだ。師の出してくれた学費を、どこかで返さねばならないとは思っているのだが、外見の目立つ和泉は人里に住まうことを禁じられている。通学のあいだは師がいろいろと誤魔化してくれたが、就職となるとそれも難しいだろう。
結局、ブロンド女として男から小金を引っ張るしかないという、自分の身の非効率を思う。やはり物理など学ばずに、医学部へ行くべきだったのだろうか。あるいは不動産運用の役に立つ勉強を今からでも始めるか。しかし師は、それに口を出されることを嫌うのだ。
せめて身体でも合わせて気を紛らわせてやりたいところだが、どっこい師はそれも望まぬタイプなのだ。このところ特に性欲が減退しているらしい。
「お茶でも淹れましょうか」
「飲んだばっかりだからいい」
いよいよ、和泉にしてやれることはなくなった。
「おもしろい話でもしましょうか?」
「大丈夫か、そのハードルの上げ方」
「これは私の行っていた大学の教授が、本当に経験した話なんですが」
「怪談なの?」
「二度離婚している教授なんですが、色男という感じでもないんです。まあ、理系の研究者にしては人あたりのいいほうかなというくらいで、経済力も中の上というくらいの中年男なんですが」
「それ総合すると、かなりハイクラスの男じゃないか? お前の大学の教授なんて、スーパー高学歴なんだろ」
「あれ? 本当だ」
和泉にはなんとなく、中年の男を父と比べる癖がある。そうするとどんな男でも平凡になるから、今この瞬間まで、和泉はあの教授のスペックを正当に勘定していなかった。
「続きはよ」
「ああ、その教授は若い頃から、美人局に憧れていたそうです」
「どういうこと?」
「そんな商売を成立させるからには、よほどいい女を使うんだろうと。そういう女に会ってみたいものだと」
「商売じゃねーだろ。犯罪だ」
「まあ本当のところは、犯罪心理学というのかな、そういう観点で、そういうことをやる女に興味があったようですね。詐欺師はそれぞれ罪悪感を無くす言い訳を持っているものだが、あからさまに男の手先にされて、身体まで使う女というのは、何を考えているものなんだという」
「ヒモつき風俗嬢のもうちょっと悪いヤツってだけなんじゃねーの? ぜんぜん珍しくもないもんだと思うが」
「私もそう思うんですが、その教授はですね――操縦手の切り替えは可能なのか、そこに関心を持っていたそうなんです。つまり、カモがより良い条件を提示する男であったならば、バックにいる男を裏切って、カモとくっつくこともあるのかと」
師は猫の頭を撫でながら、ほほうと言った。
「おもしろくなってきた。それに経験談がくっつくのだろう」
「そうなんです。それで三十過ぎたあたりで、念願かなって、美人局に引っかかることができたんですね」
「ほう!」
「なにしろ待ち望んでいたわけですから、もう途中からの雰囲気で、これはそうだとわかったそうです。ここでシャワーを浴びに行けば、女が電話で怖い男を呼んで、ここに乗り込んでくるという手筈だろうと」
「事前? 事後?」
「そこはぼかしていたので、つまり事後だと思います」
咳払いして、話を再開した。
「――タイムリミットはすぐそこで、一瞬でも目を離したら女は電話してしまう。そうなったらもう操縦することはできない。教授は考えました。どうすればここから、女の心を素早くつかむことができるか」
「事後ということは、ベッドテクニックでつかむことはできなかったわけだな」
「そうですね。――まず思いつくのは、大金による揺さぶりですが、それは現金でないと不可能です。ここから出たら百万やると言ったって、ホラを吹いているとしか思われません」
「確かにそうだ。うーんと」
師は挙手した。
「どうぞ、刹那さん」
「ヤクザのふり?」
「違います。どこをどう見ても、そういう風に見える男ではありませんし」
「ビンタ?」
「より高額を請求されるだけでしょう。違います」
「なあに~?」
まんまとわくわくしている師に、おごそかに正解を伝える。
「芸能プロダクションのスカウトのふりをしたそうです。自分は今、女優を探している。あなたはイメージにぴったりだ。少しきわどいシーンもあるから、お高くとまったアイドル女優なんかには務まらない。フルヌードにはならなくていいが、セミヌードになる覚悟がもしもあるのなら、考えてみてほしい」
「なるほど! けっこう人心掌握に通じているな? 世間的には不利な条件をわざわざ提示するあたり、リアリティのある嘘を普段からついてるタイプだろう」
「そうですね、普段から話が上手いとは思っていたんですが。それで、その女はしっかり引っかかったんだそうです。男を呼ぶことはしなかった」
「うまいことやり逃げできたというわけだな」
「いいえ、やり逃げをしなかったんです。教授はその翌週、またその女と会う約束をしたんです。そして会った」
「えーっ! なんで?」
この美しい師は、耽美な見かけをしているわりに、下世話な話を聞くセンスがある。話していても気持ちがよいというものだ。
「教授の目的は、美人局から逃げることではなく、操縦手をバトンタッチすることでしたから」
「性格が凶悪だな」
「美人局をやるような女ですから、度胸がある。だから芸能界へのチャンスを示したら、釣れる可能性はあると思っていたそうです」
「不幸な女なんじゃねーの? 実験動物みたいにいじくり回すのはどうかなあ」
「私たちもそう思って、少しピリッとした空気で聞いていたんですね。講義中だったので」
「講義の途中に何を話してんだ」
「雑談を振った学生がいたんですよ。奥様とのなれそめを教えてくださいと」
「結婚したのかよ!」
大きな声で叫んで、師は後ろ向きにひっくり返った。土台に動かれた猫が、にゃんと文句を言って走り去った。
「おもしろい話だったでしょう」
「おもしろかったが、どういう飛び方なんだ。何をどうやって結婚ということになったんだ」
「僕も嘘をついたが、あなたも嘘をついていただろうと。もし金銭的に困っているのなら、僕が援助をするから、こんなことはやめなさいと説得したそうです。芸能プロにも本当にコネがあるから、希望するのなら紹介してあげよう」
「どうせそれも嘘なんだろ」
「いいえ、その女は今もテレビに出ているそうですよ。今というか、その話を聞いた当時ですが」
「嘘じゃん」
「私たちもそう思ったんですが……」
その怪しげなエピソードを学生たちに話した翌年に、彼は二度目の結婚をした。相手は当時まだ二十代の女優で、彼女が出ているテレビCMを和泉はときどき目にすることがある。先週も見た。
そう話すと、ひっくり返っていた師は素早く身体を起こした。もう一度ひっくり返って正位置になったということだろう。
「つまり、実話ということか? その女優がその美人局の女?」
「それだと年代が合いません。だから一度目が美人局ということですが、その話のリアリティが補強されたということではないでしょうか。芸能界にコネだかツテだかがある、女優と結婚する地力がある、それらは証明されているんです。だから美人局の女と結婚した話も、まあ、本当かもしれない」
「ああっ、なるほど。嘘かもしれないし本当かもしれないというラインを突くことで、倫理的な糾弾を避けてるということか。うまいなあ」
「本当だったとしても、男に犯罪行為をやらされていた女を、きちんとした芸能人にしたわけですから、美談なのかとは思いますが」
「そう聞くとそうだが、なんでこの話、こんなに悪属性の雰囲気があるんだ? 動機か。女をラジコンだと思っている」
「だから、理系の男だなと思いましたね。そこを伏せればいいのに、話してしまうあたりが」
同じく理系の男である師は、なるほどと言ってあごを撫でた。
「俺も女優と付き合いてえー」
「その結論になりますか?」
「トロフィーワイフの最上位だろ。うらやましいなあー」
「ふふ」
和泉は在学中、その教授に口説かれたことがある。決まった男がいると断った和泉に対して、彼は卒業まで変わらず穏やかに接した。
トロフィーワイフを娶りたがる男のことが、自分はどうやら嫌いではないらしいと、和泉はそっと微笑んだ。
なにか小さなものを踏んだ。
小石だろうと思って見ると、それはもっと細やかなものだった。拾い上げて、手のひらに乗せてみる。
「ピアスじゃない。そんなもの拾うんじゃないの」
覗き込んできた姉が、嫌悪をあらわにそう言って、西帝の手のその小物を払った。小さな音を立てて廊下を転がっていき、目の悪い西帝には見えなくなった。
「なんでそんなことをするんだ」
「身体を貫通してるものよ。汚いでしょ」
「なんか宝石だろ? 高いヤツなんじゃないの? 落とし主が探してるかもしれないのに」
「弥風のピアスに似てたけど」
「やべえ!」
慌てて探しに行こうとした西帝の首根っこを掴んで、姉は「最後まで聞きなさい」と低い声で言った。
「似てたけど違うわよ。ソーダライトかなんかでしょ。そんなに高そうでもなかったから、落としたって気にしないわよ」
「わかんないだろ、そんなもん。親の形見とかかもしれないだろ」
「あんたが落としたらショックなものは、親の形見なのね」
姉はときおり、わざと露悪的に手品の種明かしをする。メンタリズムが嫌いなのだろう。
「絶対に違うってわかっててそういうこと言うの、やめてくれよ」
「そう、つまらない一般論を深層心理だと言うのは愚かなことだわ。あんたはお父さんが死んだとしても、胸がスッとするだけでしょう。形見なんか欲しがりはしない」
「そうだろうね」
「なのに、誰かが親の形見を落としたら、探すだろうと思う。その視野の広さはあんたの長所だわ」
「褒めてもらうほどのことじゃないけど」
「紺色の石なんか好んで買う女は、この屋敷にはいないわ。安物だから、男にもらったとしたらナメられてる。蘭香ね」
50%の、おそらく外れの占いだと西帝は思った。当たる時は推理をしないからだ。兄や西帝はその法則に気付いているのだが、姉はどうやら自覚がないらしい。
そんなことを指摘しても仕方がないから、西帝は雑談の枝を伸ばすことにした。
「蘭香さんって男にナメられるタイプかなあ」
「馬鹿にされるわけじゃないでしょうけど、服だのカバンだのが安物でしょ。そういう女は安物をもらうものよ」
「勉強になります」
上司の話を聞く時の相槌が出てしまった。逆らえないという意味では同じだ。
「あたしをつまんない話する上司だと思ってるの?」
「怖っ。上司だとしても、美人でよかったと思ってるよ」
「あんたの師は、美人だけど性格が最悪の師にいびられてて、殺意を抱いてたそうよ」
「らしいね。今でも思い出し怒りしてるよ」
「え? あんたが八つ当たりされてるの?」
「そんなことはされないよ。いつも不機嫌だけど、それはそういう性格なだけだから、周りに当たったりはしない」
「あんたの目は節穴だわ」
小突かれながら廊下を歩いていると、そうかなという気になる。そうだとしても細かいことが気にならない、姑にいびられる耐性のある嫁ということだから、良いことなのではないか。
「姉さんは愛を強要しないところが長所だね」
「節穴ね」
「そう? 俺や兄貴が親父を嫌うことについて、よくそんなに無関心でいられるなと思うよ。普通、自分の推しを憎まれたら嫌なもんだろ」
「わからないわね、あたしにはそういうの。あんたが妹だったら、もしかしていじめたかもしれないけど」
「姉さんはそんなこたあしないよ」
室内履きをコツコツと言わせながら廊下を歩いていた姉は、急に立ち止まった。
別に同伴していたわけではない。たまたま廊下で一緒になったのだ。そこは確か万羽の部屋であるが、彼女を訪れる用があるのだろうか。
「キャットファイト?」
「え? 何?」
「万羽様と姉さんが話すことなんかあるのかと思って」
「は?」
何を言っているんだかわからない、ということを顔で表現して、姉はまた歩き出した。
「どこ行くの?」
「どこだっていいでしょ」
「いいけどさ」
なぜ急につれなくなったのかわからず、西帝は戸惑ったが、すぐにどうでもよくなった。耐性の発揮である。
「じゃあ、俺は不機嫌な師に呼ばれてるから」
「あんたの目は――」
「節穴なんだろ。はいはい」
「そうじゃなくて、あんたの目はね」
姉は何かを言おうとしたようだったが、西帝のズボンのポケットからトークアプリの通知音が鳴った。怒れる師の催促であろう。
「なんか話があった?」
「いいえ」
庭から風が吹き込んできて、姉の長い髪がなびいた。
その一瞬だけ、儚い女のように見えて、西帝は目を細める。視力が落ちて以来、こうしなければうまく焦点が合わなくなったのだ。
姉は悲しそうな顔をしている。
この威容の女が、突然そのようになるわけはないので、なんか今日は目の調子が悪いなと思いながら、西帝は師の部屋へと向かった。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。