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蜂の残した針 30話


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 父の髪はさらさらとした直毛で、きれいに高く結うことは不可能に思える。

 才祇は三十分ほど苦戦して、妥協することにした。

「多少ガタガタになってもよろしいですか」
「えーっ……」

 珍しく父はごねる。

「見かけくらい優雅にしていないと、私は肩身が狭いんだ。頼むよ」
「せめてワックスとか要るでしょう。私のものを持ってきましょうか」
「髪に油をつけるのは嫌だ。洗って落とすのが面倒くさいから」

 昨夜、酒の入った父は、色舞にいちゃもんをつけたそうだ。お前の付き合っている男、あれはよくないぞ、気味の悪いやつだ、もう別れなさい。

 だから今日は無視されて、髪も上げてもらえなかったのだ。しょんぼりしていたから才祇が仕方なく手を貸したが、これほど高い技術を求められるものとは思っていなかった。

「髪がぼさぼさでも、ととさまはお美しいのですから、堂々としてらっしゃれば充分ですよ」
「若い頃はそうだったんだろうが、もう年だから、きちんとしていないとみっともないだろう。私は背もたいして高くないし、服もね、このところあまり立派なものをあつらえることもできないし」

 自身の外見に関することで、父がわずかでも卑屈な物言いをするのは珍しい。髪を触られていると、心が緩むのだろうか。

「ととさまが自虐をなさると、だいたい同じ顔の私が巻き込まれるのですが」
「だいたい同じ顔でも、若いお前のほうが素敵だということだ。容子もそう思っているんだろう」
「ほう……」

 そこには触れない方針で行くのだと思っていた。

 才祇はいったんくしを置き、父の座る卓袱台の九十度横に座った。正面だと深刻になるような気がしたのだ。
 父は特に変わった表情は見せず、首などかしげている。

「やっぱりお前のほうが男前だな。洋服を着ればもっとよくなるのに、なんで私のお古なんかを着るのかな」
「服に金をかけたくないんです。それより、遥候のことですが」
「私が迷惑をかけているから、お前が面倒を見てくれるなら助かるよ」

 ここは、引っぱたくべき場面なのではないか? 別に引っぱたきたいというわけではなく、父がテンプレートを誘発しているのでは、と才祇は考える。しかし機を逸した。軽く拳を上げて、コラッという仕草だけ作ってみる。

「何か気に障ったか?」
「いえ、下ネタかと」
「下ネタだが、悪かったかな」

 父の仕事はヒモと間男である。この話題はカジュアルなものであるらしい。才祇はなるべく平静に言った。

「自分の女の引き継ぎをするのは下品です。といっても、非常識なことをしたのはこちらですから、その点については詫びようと思っていたのですが」
「非常識なこととは?」
「父親の、その」
「私の愛人を寝取ったことを、非常識だと思っているのか? よくあることだろう、私たちの世界は狭いんだから。お前が誘ったわけでもないんだろうし」
「いえ、遥候が悪いわけではありません」
「わかってる。私が充分なことをしてやれていないんだから、若い男に乗り換えるのは、別に悪いことではないさ。非常識でもない、普通のことだ」

 そのわりには引っかかる言い方をするものだ。嘘をついているわけではないのだろうが、おもしろくないという自分の内心に気付いていないという気がする。

 そもそも父は、このところ珍しくご機嫌が斜めなのだった。だから色舞に鬱陶しがられるようなことを言ってしまうし、才祇にも何か言いたげな接し方をしてしまうのだろう。さほど重い本心はないはずだ。

「今日は、ラジオ体操はなさったのですか」
「髪を上げないとそんな気にもならない」

 じゃあ切りゃいいだろ、と同じくらい髪を伸ばしている才祇は言葉を飲み込んだ。長髪で暮らしていると、身体の一部になり、切ればすかすか・・・・して落ち着かないものだ。

「右近様がととさまのことを心配していましたよ」
「誰のことでも心配するんだ、彼女は」
「誰にでも配るから価値が低いということもないでしょう。いや、低いのか?」

 言っていてそのような気がしてきた。愛は希釈式だ。気遣いも同じ気がする。

 父というティッシュは箱の中身を四分割していて、だからぎりぎり四束だ。一枚のティッシュでは女の涙も拭えまい。

 今は、三束か。少し厚くなった。しかし、その束に猫パンチをしてしまうらしい。色舞と才祇に嫌味を言って、まさか朝露にまではそうするまいが。

 従者たちにはティッシュを分け与えないから、いざというとき裏切られるのだと、父は自分で承知している男だ。だから父がこぼした水は、蘭香たちの自前のハンカチで拭かれることになる。遠からず、拭いてもらえなくなる日が来る。

 その時に、配られたポケットティッシュがありがたみを発揮するのだろう。才祇は先ほど、心の中で父に同調したことを取り消した。誰にでも配られるものであっても、染みを拭けるのだから価値がある。

「せめて右近様と仲良くなさってはいかがですか。刹那様が早く亡くなった日には、ととさまの発言力が一気に弱まるのですから」

 刹那だけが、朝露を擁する父に援護を示してくれている。当局から父への風当たりは厳しい。得るはずの権力は取り消され、どんな無理を言われても耐えるしかない立場だ。

 父は畳に寝転がり、猫のように伸びてつぶやいた。

「大草原の小さな家で暮らしたいな……」
「ここがそうですよ。それに、共同体が小さくなればなるほど、そこに馴染めない者はつらいでしょう。周りをそぎ落としていっても、残るのは桃源郷ではありません」
「此紀みたいなことを言うね」
「此紀様が言っていたんです。桃源郷の形に周りを削げる者もいるのでしょうが、私やととさまは違うでしょう。狭い家をこしらえて、色舞に文句を言われるのがオチです」
「色舞が望むなら増築するさ」
「簡単に言わないでください。今もできていないのに」

 だから色舞はアウテリアを外注しているのだ。父はそれに文句をつけて、無視されている。すでに失敗が約束されているのだった。

 父にとって色舞や朝露は、シルバニアファミリー森の小さなうさぎたちらしい。生きて肉を食い、欲望を持つものだということを、今ひとつわかっていない。それで施主が満足する家を建てられるわけがないのだ。

 色舞の望む家は古典的で、そこには愛する夫が必要だ。自分や父がそれになってやるわけにはいかない。小さな家で楽しく暮らすことは、父が思うよりはるかに難しいのである。

 父はむっくりと起き上がると、仏壇を改造した物入れから何かを出してきた。メガネだ。それをかけてピースサインを向けてくる。

「目が悪くなってしまったのですか」
「違う、伊達メガネだ。知的に見えるだろう」
「どちらかというとアート系に見えますが、お似合いです」
「この顔で、こうして和服なんか着てアート系を気取っている男なんか、いけ好かないボンボンだろう。腹が立ってきた」
「何を言っているんですか? 心の糸がこんがらがっていますよ。ドライブにでも行きましょうか」

 もやもやした時は車で山の中を走るに限るのだ。才祇は車の運転が好きであるから、妹や父がぐずっている時は積極的に誘う。

 父が小首をかしげて「どうしようかなあ~?」と語尾を伸ばしたので、軽くどついて、駐車場に引っ張っていくことにした。




 昼に機嫌のよかった姉が、夕方に怒っているということは、前場で稼いだ分を後場で失ったのだろう。

 西帝はそう察知して、なるべく気配を消すことにした。これが賢い生き方。しかし部屋の主がど真ん中を踏みに行く。

「姉貴、デイトレード向いてねえんだから、やめれば? 今月の負け方は特にヤバいだろ。判断の迷いが結果に出てる」

 もちろん炸裂した。

「ババアの介護しかしてないあんたに、何がわかるっていうのよ。あたしだってやりたくてやってるわけじゃないのよ、こんな地味なこと。誰のために毎日毎日、こんなに美容に悪いことしてると思ってるの? 次に生意気な口きいたらこうよ」

 こう、で空中の何かを締めている。炸裂させた兄はやれやれの顔をして、部屋から出ていった。

「そんな」

 残された西帝は、怒れる姉を前に呆然とした。なんて無責任な男なんだ、あいつとは結婚したくない。

 姉は、今まで兄が座っていた座布団に腰を下ろすと、煙草を取り出して咥えた。

「火!」

 昭和のモラハラしぐさが板についている女なのだ。公私ともにそれに慣れている西帝は、反射的にライターを取り出して火を点けた。

 姉は煙草を吸いながら、髪を留めていたクリップを外した。そうして長い髪を下ろすと、途端に女っぽくなるので、西帝は居心地が悪くなる。

 色舞とはだいぶ体格が違うなと、なんとなく比べてしまうのも自分で嫌だ。色舞どころか西帝よりもしっかりとした肩、長い腕、頼りがいを感じる腰に、恰好のいい大きな胸。
 長身の美女で、何に見えるかといえば女スパイ一択であろう。モデルにしては着ている服に覇気がないし、日本の格闘家は興行従事者なのだから、この愛想のなさでは務まるまい。

 男物の白いシャツに、ブラジャーのレースの形が浮いている。今日は化粧をしているのだろうか? 西帝には判断がつかない。

「これからどっか行くの?」
「行かないわよ。なんで?」

 それはよそ行きのブラジャーではないかと思ったのだが、言えるわけもなくごにょごにょと誤魔化す。

 姉は腕時計を見ると、煙草を咥えたまま舌打ちした。

「遅いわね。この時間に来ないってことは、明日になるんじゃないの。暗くなってから山に入ったら危ないし」
「なんか待ってんの?」
「お父さんが帰るって言ってたでしょ。家族グループ見てないの?」

 見ていない。兄の不機嫌と、姉のブラジャーの謎が解明されて、西帝はこの場から去りたいと思った。暇だから立ち寄っただけなのに、ポータブルの地獄が展開されている。

「犬は元気なんでしょうね。ちゃんと洗ってあるの?」
「元気だし、まあ汚くはないよ。先月くらいに洗った」
「もっと洗いなさいよ」
「あんまり洗ってもよくないんだよ、犬にはストレスになるから。親父の機嫌を取る時にしか気にしないヤツに、犬のことをああだこうだ言わないでほしいね」

 昔から思っているのだが、自分たち三兄弟には機嫌の伝播がある。ひとりが苛立つとふたりがそうなり、三人目も気分が荒れる。四人目も成長すれば加わるのだろうか。
 今日は、姉が株で損をしたことが発端というわけではなさそうだ。もっとも、兄と姉の精神性はやや円環状であるから、正確な順番はわからない。原因も変遷していそうだ。

 ろくにここに居つきもしない、でかい図体の父親に、自分たちはずっと支配されている。西帝はそのことにイライラする。円環が肥える。

 姉の繰り出してきたパンチを叩き落とした。もう腕力では負けないのだ。子供の頃とは違う。

「生意気ね!」
「煙草吸ってる時に暴れるなよ、危ないな」
「あんたがおとなしく腹パンされてりゃ、あたしが暴れずに済むのよ」
「なんでそんなにゴリラなんだ。姉さんが親父を迎えることないよ。放っとけよ。どうせ何日も居ないんだから、勝手に怒らせとけばいい」
「そしたらあんたに当たるじゃない!」

 西帝はびっくりした。とてもだ。姉は弟の度肝を抜いたことに気付く様子もなく、怒りながら灰皿に灰を落としている。

「ここの灰皿は汚いのよ、いつも。なんで斎観はこれが平気なのかしら? ライターも汚いし」
「兄貴は、自分しか使わないものは汚染されないと思ってるタイプだから」
「だからヒゲなんか生やしてて平気なのね。あんなに衛生的じゃないものもないわよ。ヒゲを生やしてる男って、全員セックスが下手だと思わない? 自分勝手なのよ」
「男と寝たことないから知らないよ」
「こっちは下の毛まで永久脱毛してるのに、男ってどうして顔からあんなもの生やしてて平気なのかしら。馬鹿なんじゃないの?」
「強火の潔癖症だと、髪も剃るらしいね。程度問題なんだろ」

 姉は批判されたと感じたらしく、また舌打ちした。

「あたしは短い髪が似合わないのよ。いちいちうるさいわね、あんた」
「相槌を打ってるだけのつもりだけど……」
「色舞に振られるわよ」
「呪いの予言をしないでくれよ。わかってるし。始まった瞬間から秒読みだよ」
「もう振られそうなの? 屈辱的だわ。あたしの弟が連続して斬られるなんて」

 自他の境界が曖昧な女なのだ。弟の恥辱を自分の恥辱と感じ、弟が斬られると痛がる。愛を怒りで表現するのは、父から継いだのだろう。接続が多い。

 男になど連動しないで生きてほしいと思う。しかし、自分の代わりに怒ってくれる姉がいることは、西帝にとって誇りの一部でもあるのだ。現実世界で口に出しはしないが、インターネットの掲示板で自慢することはある。

 あんたの敵はあたしの敵よと言い、そのことを態度で示す、美しい姉がいりゃあ、誰だって誇らしいだろう。西帝は開き直ることでコンプレックスから逃れるタイプである。兄はそれができないから、ぎくしゃくとした態度に現れることになる。

 姉は髪をかき上げて、煙を吐き出している。え、下の毛を永久脱毛してんの? 西帝はちらっと姉の腰を見そうになるのを、ぐっとこらえて横顔を眺め続けた。姉はあまり屋敷の風呂を使わないから、そんなことに西帝が気付くわけがない。

「ちょっと走ってくる」
「やめなさいよ、もう暗くなるって言ってるのに。いつもこんな時間に走ってるんじゃないでしょうね」
「いや、いつも走ってるのは朝だよ」

 今はなんとなくもやもやしたから、発散しようと思ったのだ。

 姉はまだ吸える煙草を灰皿で揉み消した。

「あたしも行くわ」
「どこに?」
「自転車でついていってあげる」
「俺のランニングに!? いいよ、庭の周りちょろっと走るくらいだし」
「あたしを随伴させるか、走らないかの二択よ。どっちにするの」
「じゃあ走らない……」

 無難なほうを選びかけたが、西帝はふと思いついた。汗をかいたら、少なくとも下着は替えるだろう。姉がゴージャスなブラジャーを着けて、どこにも行く気がないというのが、西帝にはとても不快だ。

「やっぱり走る」
「そう。じゃあ早く用意して。本当に暗くなるから」

 夜道を走ろうとすると、自転車でついてきてくれる姉のことを、インターネットで自慢しようと西帝は思った。



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