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蜂の残した針 2話


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 プロパンガスのボンベの搬入、その設置や配管、撤去は、沙羅の指示において行われる。火器管理の責任者は刹那であるが、その範囲が広すぎると、沙羅が同情を示したのだ。

 妹弟子のそういったところを、東雲は立派だと思うし、若いなと思いもする。善意で申し出られた、誰が見ても適切な意見は、反映されることになる。強制力があるという意味だ。刹那自身さえもが「ややこしくなるので面倒くさい」と思う意見であったとしても、正しいので決議される。

 空になったボンベを軽トラの荷台に積んで裏口に戻ると、妹弟子は土間の掃除をしていた。モルタル敷きの床にホースで水を撒いている。

「よく働きますねえ」
「今日は暇だから、あとで犬も洗おうかな。――ああ、ありがとう。あとは大丈夫。棚に菓子があるから、手を洗って食うといい」
「俺は十歳のガキか」
「どら焼きだぞ」
「俺の大好物みたいな言い方ですが、好きでも嫌いでもないですよ。暇ならどっか行きます? イオンで買い物してなんか食ってホテル寄りましょうよ」
「典型的な田舎のカップルだな」

 デッキブラシで床を掃く沙羅はこちらを見もしない。

「買い物には行ってもいいが、もうお前とは寝ない」
「え? なんで?」
「いつでも抱ける女だと思っていたのか?」
「そんなこたあ思ってないですけど、なんで急に全拒絶なんですか。俺なんかしました?」
「いや」

 不愛想に言って、沙羅は床掃除を続けている。待っても続きは語られなかった。
 女の、面倒くさいクイズ大会が開催されているのだろうか。東雲は、手を洗って菓子を食って部屋に戻ろうかと思ったが、そのクイズ大会をばっくれると、のちに特大の制裁を受けるものだということも知っている。

「なんかしてたらすみません」
「……いや、お前がどうというわけではない。私の問題だ」
「なんかありました?」
「ちょっと」
「性病?」

 妹弟子はぴたりと動きを止めた。うつむいている。

「うわ! マジか。わけのわかんねえ男と生でやるからですよ。ちゃんと先生のとこ行きました?」
「行った……今は薬を飲んでいる」
「薬飲んで治るヤツですか?」
「そう、よくあることらしいのだが、一応」
「そのわりに俺に冷たくないっすか? あっ、俺がもらってきた可能性あんのか!」
「そう」

 ブラシを壁に立てかけて、沙羅はアンニュイな様子で言った。

「濡れ衣だったら本当に悪いのだが、お前はその、そういう仕事の女と付き合いがあるのだろう。お前も薬を飲んだ方がいいかもしれない。男は無症状であることも多いらしい」
「そう言われると、俺じゃねえとは言えねえな。うわー、俺かよ、わけのわかんねえ男は。やべっ、つまり克己様も持ってるかもしんねえわけか?」
「頻繁に姿を変えている者は罹りにくいと先生は言っていたから、お師さまは大丈夫かもしれないが、診てもらうに越したことはないな」
「その豆知識、初めて聞きました。そうなんですか?」
「私も知らなかったが、先生はそう思うと言っていた」

 ならば毎日変えたいものだと思ったが、それは非常にカロリーを消費するし、生殖器にピアシングを施している東雲にはそもそもできない。せっかくここまで安定させたピアスホールが無に帰す。過去、無に帰させてしまって後悔したことがあるのだ。

「俺だとしたら申し訳ないです」
「いや、感染元を特定できない私の素行にも原因があるから……。これからはひと時期にひとりとしか寝ないようにする。だからお前とは寝ない」
「それはまあ、そう言われるとなんも言えねえな」

 寂しいような気もするが、例によって正しい。

「性病ねえー」
「声が大きい……今までに罹ったことは?」
「なんべんか疑わしい感じになって、先生に診てもらったことありますが、ピアス開けてからは初めてかな。恥ずかしいけどまあいいか、先生に触ってもらえるんなら嬉しい気もするし」
「おい、医者を店ととらえるな。ああ……」

 沙羅はしゃがみ込むと、頭を抱えるようにした。

「恥ずかしい……」
「薬飲んだら治るんでしょう? 大丈夫っすよ、宇宙の大きさに比べたらちっぽけなことですよ」
「その例えを聞くといつも釈然としない気持ちになるのだが、なぜ宇宙の、しかもサイズと比較するんだ。私が恥をかいていることと、宇宙の大きさには何の関係もない。ノミだって小さな身体で懸命に生きているのだろう。小さければ無意味だというのか?」
「確かに」

 正しい女である。性病に罹って恥ずかしいということを、それほど論理立てて説明する必要もないと思うが。

「まあ元気出して、イオン行ってカルディ行ってスタバ寄りましょうよ。女は好きでしょう」
「雑だ、女性観が」
「こんな暗いところで犬なんか洗ってても、気が滅入るだけですよ。いや、犬は洗ってやった方がいいのか? じゃあ一緒に洗いますよ。そのあとイオン行きましょう」
「好きだな、イオンが」

 別にイオンが好きなわけではない。女を元気付ける外出先というものが、地方であるから極端に限られるのだ。

 犬を連れてきてやろう。東雲は腕まくりをして、裏口を出た。





 庭から裏手に上る道のひとつが、カラーコーンと、キープアウトのテープで雑に封鎖されている。

 姉がアーチェリーの練習をしているのだろう。ブーメランかもしれない。的を狙う競技が好きなのだ。クレー射撃もやっていたが、銃は持ってくれるなというお達しがあり、あの散弾銃はもう手放したはずだ。

 それらはいずれもスポーツであり、生産性はない。どうせ弓を扱うならば、害獣指定の動物でも射れば、役場から報奨金が出るのであろうに。その手続きの多さと、条件の厳しさを知らぬ斎観は、そんなことを考える。

 冷たい茶でも差し入れてやろうか。そんなことを考えて台所へのショートカットとなる中庭を突っ切っていると、中型の犬が突然飛び掛かってきた。

 野犬ならば叩き落さねば命の危機に瀕するが、よく知る犬であったため抱きとめて、よしよしとする。

「散歩か? よかったな、楽しいな」

 斎観は犬に話しかけるタイプだ。この犬はいつも笑顔で、尻尾をばたばたと振り回してご機嫌だ。自分や弟には特に懐いている。やはり飼い主と似た匂いがするのだろうか。

 犬が口を開けた顔は、別に笑っているわけではない。それはわかっているが、全身で「あなたが大好き、うれしい、最高!」という感情を訴えてくるから、斎観は笑顔と判断する。コミュニケーションとはそういうものであろう。

 顔から首、全身を撫でてやると、ころんと腹を出した。

「プライドのない犬だなお前。桐生には飛び掛かるなよ、あいつ犬が怖いんだから。今は姉貴のとこに行くのもやめとけ、流れ矢当たるかもしれん」

 こんなに細かい言葉が通じるとも思っていないが、感情の方向性は伝わる気がするのだ。犬は腹を出したまま斎観を見つめ、目をうるうるとさせている。

「なんかお前、フカフカでいい匂いするな? 西帝に洗ってもらったのか」

 ちょんと前足で斎観の手に触ってきた。

「そうか、綺麗になってよかったな。白威んとこ行くか? あいつ洗いたてじゃないと触ってくんねえからな」

 犬はころんと横に転がった。

「嫌か。神無様にご挨拶するか?」

 起き上がって、美しいおすわりをした。

「行くか。お前、メスのくせに女が好きなんだよな。神無様はオスのほうがお好きだが、犬ならなんでも――」

 誰かが草を踏みながらこちらに近付いてくるのを察知したため、犬に話しかけたことなどないという顔をする。

 その顔で振り返ると、濡れた白いシャツを肌に貼りつかせ、刺青の柄を透かしている、やけにセクシーな東雲が、ハーフパンツにビーチサンダルでこちらへ向かってくるところだった。ここは湘南の海か?

「よかった、逃げたかと思いました」
「こいつは散歩に出ても戻ってくるよ。いじめてねえだろうな」
「そう思われてるかもしんねえ。押さえつけて洗ったから」
「あ、お前が洗ってくれたの? なんで?」
「沙羅さんが洗おうとしてたから、手伝ったんですよ。ずっと沙羅さんにしがみついて震えてるから、すげえ悪人になった気分だった」

 この犬は沙羅にも懐いている。猟犬としての訓練、と言うほど本格的でもないのだろうが、よく山の中に連れて行ってもらっては楽しそうに帰ってくる。

「お前、乳首のピアス透けてるぞ」
「ブラ忘れたんで」

 適当なことを言いながら近付いてくると、東雲はしゃがんで犬を撫でた。犬はすまし顔だ。

「動物って何考えてんだかわかんねえな」
「桐生もそう言うが、こいつはわかりやすい方だぞ。特に尻尾に全部出る」
「それは検証したんすか? たとえば嫌で尻尾振ってる可能性はねえの?」
「付き合ってりゃわかるよ」

 完全に治安の悪い外見をしている東雲が、中身はそうでもないこともわかる。この屋敷においては、むしろ治安維持に協力している側だ。柄の悪い部分も確かにあるが、総合すれば善良さが勝る。付き合っていればわかるものだ。

「こいつメスなんですよね? 避妊手術とかしてるんすか」
「いや。かかってる獣医が、必要なけりゃしないほうがいいっつう考えだから、そいつはしてねえ」
「性欲あったら可哀想じゃないすか? そういうのなんかしてるんですか」
「なんか?」

 考えたことがなかった。オスならばわかるが、メスにも発情の衝動というものがあるのだろうか。この犬を基本的に世話しているのは弟であるから、斎観よりは詳しく知るのかもしれない。

 そう繊細にも見えぬ東雲は、やたらとしみじみした様子で犬を撫でている。

「誰しも性欲に振り回されて、面倒くさいっすね」
「面倒な女にでも引っかかったか?」
「斎観さんって沙羅さんと親しくしてます?」
「いいや、全然。あんま喋ったこともない。揉めてんのか?」
「親しいと発生する問題もあるつうか」

 深みを出そうとしている言い方だ。ということは深みのない問題なのである。

「性病?」
「なんで今のでわかったんですか?」
「付き合い長いからな。その感じだと、あんま深刻なやつでもねえんだろ。しばらく大人しくすることだな」
「それはまあ、まあいいんですけど、女に連絡すんのがだりい。どいつもヒステリー起こすだろうし」

 付き合いのある女たちを無言で切って、自分がうつしていようが知らん、という顔をしようとはしないところに、まさしくこの男の善性というものが見える。事案としてのランクは非常に低いが、その中ではましな方だろう。それほど不潔ではないほうのはえだ。

「俺、最近朝勃ちしないんすよ」
「何の話はじまってんだ?」
「振り回される性欲も薄くなってきたつうか。なのに女の機嫌取るためにやって、それで病気うつされたかもっつって、宇宙の広さのこととか考えちゃいましたよ」
「まあ、なんとなくわかるが」

 労働したのに赤字だということを言いたいのだろう。宇宙の広さに思いを馳せるほどのことではないと思うが。

「精力増強には、運動と睡眠と風呂だぞ。お前はまだ若いんだし、薬に頼るのは最後にしといた方がいい」
「言うほど若くないんすよ。昔は女の裸にテンション上がってたのに、今はノルマに見えるし、そういう自分の変わりようがショックつうか」

 東雲の性格は、平均的な明るい男で、女の前ではカラッとしている。
 男と犬しかいない場では、多少愚痴を漏らすが、それもさほど湿っぽくはない。根がラテン系なのだ。

 弟弟子の父親が、やや似た系統の性格だ。テキトーオッケー大丈夫。手を抜いて気を張らず、それでいて大抵のことをうまくこなす。その軽い空気で残酷さを流し、罪も罰も背負わない。

 自分はそうなれないということを思い知らせてくる存在であるが、だからといって憎い理由はない。励ましてやることにする。

「風呂上がりに手足があったかけりゃ、血行がいいから大丈夫だ。まじない的にそう思っとくと効く」
「そんな体格よくてもまじないに頼ることあるんすか?」
「どっちかつうと大男のほうがあるんじゃねえの? 血も総身に回りかねることがあるんだろ。小柄な方がよく巡る気がしねえ?」

 東雲に撫でられていた犬がぴょんと跳ねて、自分の尻尾を追いかけてぐるぐると回りだした。

「なんで急に回ったんすか?」
「さあ、もう撫でるなっつうことを平和的に示したんじゃねえの?」
「そんな知恵働くのかよ」

 中型犬ならば、そのくらいは働く。

 斎観が「もう行くからついて来い」と目線で命令すると、彼女はぴたりとついて来た。



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