蜂の残した針 3話
全身ずぶ濡れの、男か女かわからぬ者が、白い浴衣の裾を引きずりながら歩いていたものだから、刹那は悲鳴をあげた。
「七人ミサキだ!」
「一人ですよ」
その冷めた声で、溺死した者の幽霊という疑いは晴れた。
「なんだ、西帝か。肝試しでもやってんのか?」
「高校生じゃないんですから。裏で滝行をやっていたんですが、タオルを忘れたんです」
肝試しよりも滝行のほうを一般的な行いだと思っていることについて、突っ込みを入れたい気はしたのだが、先にタオルだろう。
「ちょっと待ってろ、あー廊下ビタビタにして。あとで拭いとけよ」
襟元を探って、首から下げているホイッスルを取り出した。和泉から持たされているものだ。顔にまったく似合わないので、普段は上着とシャツの間に隠している。
吹いた。
数十秒で、白鷺が走ってきた。
「いかがされましたあ?」
「ご覧の通りだから、バスタオルを持ってきてやれ。あと床拭くから、雑巾」
「見ても何がなんだかわかりませんけど、まあ西帝ちゃん、可哀想に。使い終わったバスタオルで床も拭いたらよくありません?」
「衛生観念もうちょい見直せ。駆け足!」
素直さを取り柄とする白鷺は、駆け足で洗面所のほうへ向かった。
また数十秒で戻ってくる。二枚のバスタオルと、きちんと雑巾も別途持っていた。
「ありがとうございます」
タオルを受け取って、まず顔を拭く西帝をニコニコと眺めてから、白鷺は雑巾で床を拭き始めた。気が利くわけではないが、言ったことには従うのがこの従者の美点だ。
「すみません、あとで俺が拭いておくので、もう大丈夫ですよ」
「そう?」
いいのよこのくらい私が拭くわ、という1ターンのやり取りもせずに、白鷺は雑巾を床に放置して「じゃあ」とさわやかに去って行った。
髪をごしごしと拭きながら、西帝は言った。
「気持ちいいですね、白鷺さんのああいうところは」
「俺もそう思っている。あれ、お前、眼鏡は?」
「水に浸かる時はコンタクトにしてます。その笛、便利ですね」
「バードコールのほうがステキだと思ったのだが、鳥の声を出されても気付けないと言われてな。過保護だ」
「美女ふたりに保護されて、いかにも序列高位ですよね」
「和泉があからさまにトロフィーワイフっぽいのは俺もそう思うが、白鷺を同列に勘定するの、お前だけだと思うぞ」
ハーレムを好んで構築するタイプの者は、現在では神無のみである。典雅は望まずそうなっている。
多くの従者の面倒を見るならば、経済力に余裕が必要だ。一人ならば幹部会から補助金が出るが、二人目からは自費である。
此紀は男の従者しか取らないが、それは性的な目的ではなく、女は面倒だという考えによるものらしい。神無も同じことを言っている。女性差別というよりは、自身と同性だとやりにくいという意味であろう。
師弟間はともかくとして、従者間がギスギスするのは、確かに女同士に多い。刹那の孫娘はいつでも姉弟子と小競り合いをしている。よく飽きないものだと思いながら眺め、なに見てるんですのよとヤンキーの絡み方をされる。
刹那の従者たちは、関係良好というわけでもないのだろうが、少なくとも表面上は問題なくやっている。和泉が気を使うのと、白鷺が気を使わないためであろう。凹凸がうまく噛み合っているという気がする。
白鷺を取るより前に世話をしていた従者は、和泉を迎えるのならば嫌だと言ったために、師弟関係を解消した――刹那がされた形となるが。その者はもう亡くなっている。刹那は昔から原則として、父を持つ者については五年の一期、あるいは十年の二期で徒弟契約を完了するものとしている。その満期を待たずに中途解消となったのは、その一度だけだ。
和泉の父親は存命であるが、あまり山に居つかない。そのためにド苛烈な虐待が発生していたので、やめいやめい、和泉に文句がある者は俺を通せ、と刹那が看板を掲げた。そうしなければ止めることができなかったのだ。
「そういえばお前は、弥風について長いな」
「そうですね。独立の目途も立たないので」
「滝行なんかさせるの、あいつだけだろ。見合う給料をもらってるとお前が思っているのなら、俺がどうこう言うことでもないが」
「誰かに尻を叩かれないとトレーニングって続けられないので、それで給料出るんだからありがたいと思っています」
そう言いながら前髪をかき上げている。美少年が出現して、刹那はライバル意識を燃やした。
「俺の方が美しいし」
「は? 弥風様と比べてですか? 確かにそう思いますが」
「お前にあいつの顔面を貶されるいわれなし!」
「そちら様がおっしゃったんでしょう。何なんですか」
きょとんとしている。若く見える。美少年に見えるが、きょとんとするほどの年じゃねえだろうと、燃えている刹那は腹を立てた。
「許さん……」
「俺は何を呪われているんですか?」
「白鷺に色目を使ったらマジで許さんからな」
「使いませんよ。あなたの第二夫人にそんな」
近頃では珍しい言い回しであるが、まんざらでもないため、刹那は燃焼を鎮めた。
従者が二人というのは、三人の孫を足して五人の扶養家族ということになり、いささか心労を感じるが、妻が二人と解釈すれば一気に誇らしい気分になる。どちらも甲斐性の程度で言えば変わらないはずだが、刹那は一夫多妻に憧れを持っているのである。
「へへん」
「得意満面ですか。お顔のわりに、価値観がゴリゴリのマッチョですね」
「扱いやすくていいだろう。ヨイショさえしといてもらえたら頑張って働いて妻たちを養うのだから」
「誰だってヨイショされて気分よく働きたいでしょう」
「和泉みたいなこと言うなお前も。それはそうなのだろうが、ヨイショしたくないが働くのは苦ではない、というタイプもいるだろ。お前の師なんかもそうだ」
「俺の師に対しても後方腕組み彼氏面奴ですよね」
「なんか知らんが、悪口を言ったろ」
西帝は見かけの通り、内向きでそこそこ知性があり、あまりマッチョではない。身体を鍛えているが世俗的ではなく、山伏寄りだ。
次代のリーダー候補としてはやや資質に欠ける。血筋も丈夫さも問題ないが、野心や責任感を持つまい。甥のほうがまだ向いている。
そしてそれよりも向くのが、姉だ。当代で軸を固めている。もう少し重鎮が死ねば、猛威を振るいだすだろう。
兄はその方面、まったくであるらしい。神無の第一夫人におさまっている。
刹那には理解できない。あきらかに優れた血筋に生まれながら、なぜ何も志すことがないのか。去勢されているのかと思う。
自分はそうではなかったということを、刹那は考えている。これほど長く生きることを、誰も予測しなかった。自分もだ。権力も失うはずだった。三百年も生きて幹部となることがわかっていたならば、もっと違う生き方をしただろう。
刹那という名が、そもそも長く生きることをまったく想定していない。目の前の若い男に対して、名前にさえ嫉妬を感じる。
西方を治める帝。なんという大層な名であろうか。この男の父親は、自身の系譜を王の血筋だと思っている。
「お前の一族ギラギラネーム」
「なんで今そんなことを……? 現在が順風満帆で自分を愛しているなら、誰かの名前つかまえて悪口言おうなんて気にならないと思いますよ。光宙くんが誰かに迷惑をかけたんですかという話です」
きっちり球を打ち返して、西帝は雑巾で床を拭きはじめた。
お前の母ちゃんデベソと言ってしまう前に、刹那はここから去ることにした。
汽笛合図を受けて、発されたであろう場所へ向かうと、そこでは若く小柄な男が、水を浴びせられた姿で床を掃除していた。
百年以上も前の自分の姿がフラッシュバックして、和泉は軽い嫌悪感を覚える。目の前の光景がどうというよりも、この脳震盪のような感覚が不快なのだ。
深呼吸して、男のそばに屈む。
「誰がこんなことを?」
「え? 誰とは」
美しい少年に見える男は、けろりとした顔で和泉を見上げた。
「あの笛、あんたたち二人を呼ぶだけ呼んどいて、もういいの合図はしないんだな」
「ああ」
つまり師と白鷺がすでに来たのだ。和泉は手洗いで女の背中をさすっていたから、馳せ参じるのが遅れた。
二人が来て去ったのならば、この男がシンデレラだとしてもすでに義姉は制裁されたのだろう。事情はまったく呑み込めないが。
「経緯は存じませんが、風邪をひきますよ。お風呂に行かれてください」
「うん、ひととおり拭いたら入る」
「私が拭いておきますから」
西帝は怪訝そうな表情を浮かべた。
「なんで? やめなよ、そういう、とりあえず自分が被ろうっていうスタンス。これは俺がしでかしたことだから、言葉通り自分で拭ってるだけだよ」
「別に、慈善家のつもりはないのですが」
若い頃の自分の姿が重なったからだと、そんなことを言いはしない。
軽い体運びで、西帝は玄関のほうまで雑巾がけをし、同じ道を戻ってきた。その雑巾と、廊下の隅に置いていたバスタオルを持って立ち上がっている。
ぼんやりと立っていた和泉に話しかけてきた。
「あんたの一門、みんな善人だね」
「師はそうですが、私たちはどうでしょう」
「まあ白鷺さんはちょっと悪いかな。でも、俺の親父に比べたらみんな天使だよ」
西帝は風呂に向かって歩き出している。和泉が戻るのもそちらの方向だ。一緒に歩く形になる。
「あんたは泳げる? 本来は推奨されてるだろ。山には川も滝もあるから、いざという時のために」
「一応、少しくらいは泳げますが」
「水の災いは刹那様にだけ及ぶのかな? わかんないけど、泳げるに越したことはないね」
「お姉様の占いですか」
師は雨の日に死ぬと言われている。和泉は嫌がらせだと思っているが、師自身はどうやら信じているらしい。気の弱いところがあるから、不安になってしまうのだろう。
不快なことを言われ続ければ、誰でもストレスを感じる。そういった攻撃だとすれば卑劣だが、西帝の姉が刹那を呪って得をするとも思えない。
女が霊感を自称して周りの注意を惹こうという、それだけの話である気もする。
「信じてないね」
西帝は気を悪くするようでもなくそう言った。
「いえ……」
「別に占いを信じてなくても、水辺に注意するに越したことはない。雨の日は足元に気を付けたほうがいい、誰でも。もちろん火にも」
「その通りですね」
若い男であるから、合理主義者であるらしい。あるいは姉の尻拭いに慣れているのか。
神秘を授ける教祖のそばには、高学歴の男が侍るものだ。あの眼力強き女が、まさか誰かの傀儡とも思えないが。
「土砂災害は水の凶事ですか」
「それは土じゃないの?」
「五行思想を?」
「いや、わからないけど。その場合、金の災いっていうのはどんなんだろうな」
「鉱物毒などでしょうか? 転じて、中毒系は金に類するような気がします。私も詳しくはないので、勝手な解釈ですが」
さほど考えもせずに言ったことだが、西帝は「嫌だな」と本当に嫌そうに言った。
「金の災いが一番嫌だ。なんとなく」
「そうですか? 私は火が恐ろしいですが」
「あんたには水の加護があるんだから、火はそんなに怖がらなくてもよさそうなもんだけどね」
「私にそのようなものがあるんですか」
「今のは軽口。弥風様に風の、万羽様に鳥の加護があるようなもん。刹那様には、まあ六十個か六十五個の加護」
「ああ……私の師に好意的な加護を与えてくださって、ありがとうございます」
この男には、名の祝福がなさそうだと考える。支配者の座だ。祝福を与える側の者であろう。
ならば水と六十五個の加護をありがたく受けようと、和泉は思った。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。