蜂の残した針 11話
後悔のない生き方をしてきたと思う。
まだ若い身だが、だからこそ新品でいられるのだと、桐生は自分の誇り高さをやや遠くから見下ろしているところがある。
傲岸不遜と思われることも多いが、その逆だ。桐生は、周りの保護によって、自分が真っすぐに維持されていることを知っていた。曲がりそうになると誰かが支えてくれる。みなさまのおかげです、とインタビューされたら答えるであろう。
インタビューされるような、飛び抜けた技能はない。すべてが高い数値で安定している。特に努力せずとも生まれつきそうだったという、もっともインタビューのしがいのない存在であろう。
顔は祖父に、体格は父に、口達者は叔父に、自己の揺るぎなさは伯母に似ていると思う。同じ絵の具で描かれている。赤色のそれには、血という名前がついている。
ふすまを貫通して、犬の遠吠えが聞こえてきた。あの犬はいつも夕方にひと吠えするのだ。午後五時の時報の役割を果たしている。
桐生は犬が苦手だ。みなであの祖父の犬を世話しているが、桐生は寄りたくもない。
子供の頃、森を散策──思い出すと恥ずかしいのだが探検と呼んでいた──していたら、うなる野犬が現れた。牙を剥いた、狼かと思うほど大きな犬で、目が合った桐生は動けなくなってしまった。身動きしても、泣き出しても襲ってくる、本能的にそう感じたからだ。
顔の可愛い子供であった桐生は、ずっと世界の中心であった。どう動けば大人が言うことを聞いてくれるのか、だいたいわかっていたし、そんなところもお利口ねと可愛がられていた。
犬は、桐生の愛らしさも利口さも考慮してはくれない。弱そうな生き物、隙があれば噛み殺す対象物としてのみ桐生を見なし、灰色の目を光らせていた。
自分は世界の王ではないと、そのとき桐生は悟ったのだった。犬の機嫌次第で、首を噛まれて殺されるだけの、矮小な存在なのだ。
探検に同行してくれていた家来、叔父が犬の気を引いて、逃げろと桐生に叫んだ。桐生は逃げて、そして泣いた。叔父は死んだ、絶対死んだ。桐生が探検をしたがったから、弱いから、何もできないから。
泣きながら森を抜けて、屋敷の庭に出ると、そこには父と伯母がいた。そう都合よく二人が庭にいるかねとは思うから、この記憶は少し改ざんされているかもしれない。
──おじさんが死んだっ!!
父と伯母は顔を見合わせた。その顔色が真っ白だったから、本当に大変なことが起きてしまったと思った。すでに泣きじゃくっていた桐生はさらにパニックを起こして、たぶんちびったと思う。
──おじさんが、あっちで、ヘビイチゴの道で、犬に。すごく大きい! オオカミだったかも!
桐生が泣きわめきながら伝えたことを聞くや、父は森へと駆け出した。その短距離選手のような身のこなしと、それに対して、屋敷のほうへ走って行った伯母の背中に、ショックを感じたことを覚えている。
──おばさん、どうして。どこいくの!? おじさんがあっちで、あっちで犬に!
叔父が見捨てられたことが悲しくて、その場でわあわあと泣いた。
伯母は鉄砲を持って戻ってくると、大丈夫よと桐生の頭をぽんと叩いて、森へ走って行った。
あのライフル銃を発砲したのかどうか、桐生は知らない。
叔父が死んでいなかったこと、父が寿命が縮んだと言っていたこと、伯母が大丈夫と言ったでしょと桐生を抱き寄せたこと、それを覚えているだけだ。誰も桐生を叱らなかった。
叔父を見捨てたのは自分ではないかと、この記憶を再生するたびに、桐生は微小な罪悪感を覚える。もちろん行動としては唯一の正解であるし、家の周りを散策したことも、別に軽率というような話ではなかろう。野犬はこのあたりではほとんど見ないし、運が悪かっただけだ。
喉のあたりがチクチクする程度で済むのは、叔父が生きていたからだ。怪我も、逃げる時に草や木で作ったかすり傷だけだったらしい。
ほとんど傷のない桐生の経歴に、「傷ができた可能性」として、犬の件は刻まれている。それ自体は傷ではないが、幸運だっただけだ。
今でも桐生は、犬に睨まれる夢を見る。手をつないでいた叔父が、見上げると手首だけを残して消えていたという、トラウマを反映しているにしても怖すぎる夢も、何度か見た。
父は叔父ほどは夢には出てこない。伯母は白い上着の裾を海賊のようにはためかせて、桐生を守る者として出てくることが多い。常に背中をこちらに向けている。
フィルムの製造元がはっきりしている映画であり、恥ずかしいと桐生は思う。何度も上映しないでほしい。
自分は後悔に弱い。
このエピソードを統括する時に、桐生が背表紙に貼るラベルはそれだ。しそうになったということでさえ、脳は何度も何度も再生してくる。
桐生の犬の夢を、父は笑う。笑うんじゃねえよとは思わない。そりゃ笑うであろう。真剣に慰められたりするほうが気色悪い。
ただ、もうひとつの、同じくらいの頻度で見る夢については、父に話す気にはならなかった。
「桐生……」
座椅子にぐったりと座って首を折り、眠っているものと思っていた此紀が、うめくように桐生を呼んだ。
「はい」
「どうしてなの……」
この師の口癖、というよりも、酔っている時のうわごとの1パターンである。翌日には忘れているから、適当に答えることにしている。
「果物の酸が強くて、寒天の凝固力が負けたからでは?」
「そう……どうしたらいいの」
「果物は一度、砂糖で煮るといいそうです」
「そう」
息苦しいのか、ブラウスのボタンを外している。桐生は目をそむけて、見て、またそむけた。
見るからに柔らかそうでたっぷりとした、下着からこぼれ出そうな乳房である。けしからんな、たまらんなあと感じはするが、病人だと思うとしゅんとなる。
このけしからん肉体を持つ師は、男が好きだ。その手配を命じられることもある。酒を飲んでいない時ならば、それは、屈辱的であるが、仕事なのだから仕方がないと受け入れる。
しかし飲んでいる時のこの女を抱く男については、それはちょっと道徳的にいかがなものですかね、とかけてもいないメガネを上下させたくなる。いくら求めているとはいっても、それは責任能力に欠く状態の脳が言わせているのですから、ねえ。
「桐生……」
その声の色っぽいことから、桐生は心のメガネを外したい気分になる。酔ってるっつったって、求めてんだからさあ、なあ。
しかし、エアメガネをかける。占い師のアドバイスであるからだ。あの占い師には実績がある。頼りがいも。
薄い毛布を棚から出して、しどけない師の肩に羽織らせた。酒と香水、それに女の甘酸っぱい匂いが立ちのぼってきて、ううと思う。若い男にはつらい試練である。
女はかすれた声でささやく。
「どこにいるの……」
「伊豆では?」
「どうしてなの」
「立正安国論が幕府に疎まれたからでしょう」
亡くなった師とやらの姿を追っているのだろうが、日蓮をかぶせておいた。
「ここはどこなの……」
「千代田区千代田1の1です」
「風刺……?」
「え!? とんでもない、ノーメッセージです」
適当な住所を挙げろ、と言われたら何割かが挙げるであろう番地を選んだだけだ。ノーメッセージだからこそ選んだと言える。
師はしくしくと泣き出した。
「伊豆なんか千代田区から遠いじゃない。どうしてそんなところにいるの」
「サフィール踊り子で快適に行けますよ。すぐです」
「鉄オタなの?」
「いいえ、乗ったことがあるだけです」
ハンカチを取り出して師の涙を吸った。桐生は最近、アイロンを扱えるようになった。最初は布を焦がして首をかしげていたが、間にもう一枚挟むのよと色舞に教わったのだ。
アクセサリーの汚れを落として磨くことも、上着をクリーニングに出すことも、簡単なケーキを焼くこともできるようになった。どれも芯を食っていないと、周りに思われていることは知っている。わざわざ桐生が習得すべきことではないだろう。
しかし、星はそれを示しているというのだ。女の身の回りの世話をすると、桐生は幸福に近付くらしい。
桐生は、星座も字画も花言葉も、誰かが勝手に言っていることだと思っている。信じるとか信じないとか以前の話だ。出まかせと区別がつかないものは、出まかせと同じ値がつくべきだと思う。そうでないと思う者だけが高い金を出せばよい。
しかし、いや、だからか。
鉄砲を構える占い師の言うことには、鉄砲と同じ威力があるはずだと桐生は思う。大きな野犬を御すための、現実的な力を持っている。その女が言うからには、赤い耳飾りを手入れするべきなのだろう。世界の渡り方を知っている者の言うことは聞くべきだ。
──と、父や叔父には説明している。
嘘ではないが、半分だ。あとの半分は説明しない。言うと価値が下がる気がする。
眠っているのか泣いているのか、下を向いている師の、毛布越しの肩にそっと触れる。
こうすると桐生は、夢と現実の境目がわからなくなるのだ。夢ならば、覚めるまでに、幸せな方向へ引っ張らなければならない。
そして、現実だとしてもそうだ。だから等価なのだと、口に出すことはない言葉で、桐生は考えている。
万羽の甘い声で歌われると、電話の保留音でも美しい曲に聞こえるものだ。
なあ、と雑談のつもりで振った刹那に、従者は氷の色の瞳で軽蔑をくれてきた。
「グリーンスリーブスを電話の保留音だと思っていたんですか」
「間違ってはいないだろ。原曲があるのか知らんけども」
「あるに決まっているでしょう。電話の保留のために、あんなに美しい旋律は作られないでしょう」
「電話の保留音を差別しているな。その曲を作る者のことも。いかんぞ、そういうの」
和泉は無視して、鏡に向き直ると、金色の髪に櫛を入れた。
それほど美容に凝る女だとも感じないが、部屋に来るといつも鏡台の前にいるような気がする。白鷺の部屋には鏡そのものがないはずだ。
和泉は小さな声で、なめらかに何事かを歌った。あのメロディだ。英語の歌詞である。聞き取れなかった。
万羽もいつも、英語で歌っている。マイディライトしか聞き取れたためしがないので、さてはでたらめな英語をつけているのではないか、電話の保留音に、と刹那はつねづね疑っていた。
「実在する歌詞か? 万羽のなんちゃって英語ではなく」
「実在は、たぶんすると思います。とても美しい詩ですから、オリジナルだとすれば作詞の才能がすごい」
「子守歌なのか」
「いいえ、悲恋を歌っているので、あまり適性はありません。原曲かどうかは私も知りませんが、曲調からしても子守歌ではないと思います」
悲恋の歌など、子守歌の次に興味がないものである。ふうんと言った刹那を、従者は少し不満に感じたらしい。
「Thou couldst desire no earthly thingという歌詞を、万羽さんが考えたのなら、世界観が深甚すぎはしませんか。言葉の古さからしても、讃美歌かと思うような一節ですよ」
「デザイアしか聞き取れない。何を欲してんだ」
「欲せない。あなたは、この世のものは、もう」
「死んでるな」
「どうかな……地上のものでは満足できない、形のあるものは望まない、あなたはもっと高みを見ていたとか、そういう印象を受けますが。前後関係からしても」
「その前後を聞き取れていないのだ、俺は」
しかし情報を統合するならば、確かに万羽がでっち上げた英文ではなさそうだ。
「お前の父親が伝来させたっぽい曲だな」
「私もそう思いました。好きそうですし。この大地ではないところを見るのが」
「冷笑的だな」
「言いますか、そういうことを? せめて歌詞にしてください。直接的すぎて野暮ですよ」
「なんか嫌だな、そういうの。直接言うとダサいから歌にするって、歌に対して失礼だろ」
批判されたからなんかケチをつけてやろうと思っただけであったが、和泉は「へえ」とつぶやくと、こちらを振り向いた。
「そういう美意識があったんですか」
「見るからにあるだろう」
「音楽が好きだったんですね」
「え? うん」
インタビューであったら、いや、そこまでは、詳しくないし、と答える質問であるが、流れとしてはこうだろう。別に嫌いだと思ったこともない。
「俺は森のエルフだからな。横笛も吹くし」
「ああ、吹いていましたね」
「最近吹いてないな。もっぱら吹かれるばっかりで」
従者は尖った金属を投げてきた。
「危ねっ。何? 暗器?」
「簪です。返してください」
拾って、よいしょと座布団から腰を上げて届けてやる。尖った金属を投げられるようなことを言ったなと自分でも思ったからだ。
「お前もけっこう歌がうまいな」
「下手ではないとは思います」
「お前には負けるな、エルフぶりで」
金髪碧眼で来られてはどうしようもない。今は白いワンピースを着ているから、いよいよ耳が尖っていないだけだ。名前からして水辺の乙女であろう。
「でっかい竪琴とか弾いたらどうだ? 似合うぞ」
「ハープをイメージしていますよね? 高価いでしょう、どう考えても」
「買ってやろうか?」
「とんでもない浪費をしないでください……」
名前の通りの澄んだ声で言って、そっと手に触れてきた。髪に香油でもつけていたのか、柑橘らしい匂いがする。
あまりにも透明感のあるパーツばかりで作られているので、本当に命が宿っているのかと思うことがある。刹那もそう言われることがあるが、比ではあるまい。この青い瞳を見ていると、赤い血がどうしてこの色を作れるのかと、疑問を感じる。
「お前が死の歌を歌ったら、本当に人魚だな」
「だから死ではなく、恋の歌です。少なくとも万羽さんと私が歌ったのは。それに、人魚というのは赤毛ではありませんか? ──これはディズニーのイメージか。死の歌を歌いそうなのは、船幽霊寄りのモンスターですね」
「モンスターというか、ニンフみたいなやつだ。男が夢中になって溺れるやつ」
「褒めていない……」
「そのくらい美しいと言ってんのだ」
和泉がこのまま誘導してくれたら、どれ、久しぶりに、という気分であったのだが、白い手は静かに離れた。櫛を取って、また髪を梳いている。
その櫛が、光る石のついた立派なものであったため、刹那は腹を立てた。男からもらったに違いない。これは浮気だ。
「その櫛をよこせっ!」
「なぜ急に山賊が……」
「ちょうだいよ! 俺も髪が長いのだから、要るのだ」
敏い和泉はこうした時、師のしょうもない意図を汲み取る。困ったように微笑んだ。
「いいですよ。あなたが欲するのなら」
「言ってみただけだ」
「そうですか。ではあげません。気に入っているんです」
髪を梳くエルフを見ながら、今誘ってくれたらいいのになあと、刹那はいい年をこいて受け身のデザイアを抱いた。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。