蜂の残した針 26話
刹那の漬けた薬草シロップは、悪心に効くのだと本人が言い張っている。
それを湯で割ったものをマグカップで出すと、典雅はおとなしく口をつけた。
「ありがとう。甘くておいしいな」
そう言って微笑む。多くの女が、脈がないとわかっていながらフラつくのもわかる顔だ。
和泉はさりげなく目を逸らして答えた。
「刹那様はいつ戻るかわからなくて、すみません。私には薬が出せないので、このくらいのものしか」
その刹那の部屋である。医者がいない今、薬師である師がその役割を代わっていた。このように二日酔いの者が訪れることもある。
「たいしたことはないんだ。ただ、部屋にいると子供たちに見つかるから。これだと運転もできないし」
「そうですか……」
男は青白い顔をして、浴衣もいい加減に着ているのに、よい香りがする。乱れ髪は色気に貢献していた。
「そんなに飲んだわけじゃないんだが、年だから弱くなってるのかな。沙羅の胸を触ったことをぼんやり覚えていて、謝りに行ったんだが部屋にいなかった。こう、びっくりするほど重くて」
架空の何かを持ち上げているが、それが女の胸だとすれば、かなりしっかりと触っている。
「あなたでもそんな酔い方をするんですね」
「それ以上のことはしていないと思う。今月は容子のノルマも足りていないのに、いくら酔っていても無駄打ちはしないはずだ」
「ノルマ制なんですね……」
それでは女の立つ瀬がない気もするが、この男に抱いてもらえるのならば、収支は合うのかもしれない。差し向かうだけでも、和泉は緊張して汗ばんでいる。
和泉の父と同じ種類の男なのだ。そこに座っているだけで、周りの女は胸を高鳴らせて気を使う。目が合うと照れてしまう。生殖能力の高い個体なのではないだろうか。顔の美しさだけでは説明がつかない、何かフェロモンのようなものを発している気がする。
沙羅は、酔った男に身体を触らせるような女ではないと思うが、この男に言い寄られればその限りではないのかもしれない。和泉は自分の胸の大きさを意識する。沙羅と同じくらいだろう。手を伸ばされたら、きっと振り払うことはできない。師の部屋で、そんな。
「触りやしないよ」
突き放すように言われて、和泉は頭を抱えた。
「態度に出ていましたか……?」
「いや、なんとなく雰囲気で。欲求不満なのか?」
「そうかもしれません……」
どうも語尾が消え入るようになってしまう。
甘い薬湯を飲みながら、典雅は特に表情も変えていない。
「克己にサクッと解消してもらったらいいんじゃないか」
「ええ、そうですね……」
そう濁しておく。あの方は怖いから嫌だなどと、突然吐露されても困るだろう。
克己という男は、誰が相手でもああなのだろうか。それとも、当人が言っていたように、和泉にだけ特別の執着を覚えるのだろうか。サクッとどころか、粘着質な擬音を三つは重ねたいほどの目に遭った。
「私がいると落ち着かないか? これを飲んだら出ていく」
「いえ、ああ、いえと言うのも私が決めることではないのですが、落ち着くまでゆっくりしていらしてください。すみません、あなたのような──魅力的な男性に慣れていないもので」
「刹那の部屋でそんなことを言われると、背徳的な気持ちになるな」
「あの、変な意味ではなくて。刹那様はもう枯れているので、そういう気になるのが慣れていないというか」
言いながら、変な意味であることに気が付いた。そういう気になっていることを白状している。熱い額をおさえた。
「すみません……」
「私はそういう気になられるのが慣れているから、別に構わない。若い女を満足させていないのは師が悪いよ。まあ、私も鬼のことを言える身じゃないんだが」
「私は若くはないのですが……」
「若く見えるけど、そうか? 刹那を怒らせると面倒だから、何もしてやれなくてすまないね。酔っている時に言ってくれたら、胸くらいは揉むかもしれないが」
「そんな」
「冗談だよ」
わかっているが、この顔で笑いかけられるとつらい気持ちになるのだ。
つらい? 自分で考えておいて、和泉は不思議に思う。ときめきなのだろうが、胸というよりは胃に響くような気がするのだ。それは師への罪悪感があるためか。
スイッチがほしいと、和泉は考える。性欲や寂しさをオフにするスイッチだ。たとえば目の前の男にとっても、そのほうがいいだろう。和泉の放つべとつく感情は迷惑をかけている。
和泉は師を愛し、満たされている。そのはずだ。しかし、たまには熱い抱擁を受けたいと思う。
「これは薄荷と、あと何が入っているんだ?」
「エルダーフラワーと、カモミールと……それ以外は教えてくれないんです。違法なものは入っていないと思うんですが。近くでハーブを育てているらしいんですが、その場所も教えてくれません」
「大麻でも栽培してるんだろう」
「しているかもしれません。規則を作る側なのに、しめしがつかなくて困ります」
「悪さに巻き込まないために、君には秘密にしてるんじゃないか? 大事にされてるな」
どうであろうか。和泉が口うるさいから隠しているだけだと思っている。
しかし優しい解釈を示されると、心が丸くなるものだ。
「お菓子でもいかがですか。蘭香さんの焼いたチョコレートケーキがあります」
「私の部屋にもあるから、いらない」
「蘭香さんのお菓子にしてはおいしいですよね」
「そうなのか? 食べてない。いつもパサパサで、食べると損をするだろう」
「確かに普段の菓子は負の質量を持っていますが、今回のチョコレートケーキは中にベリー系のジャムが入っていて、しっとりしていましたよ。材料が足りていたんでしょう」
「いつもは足りていないのか?」
「少量しか使わないものは省くと言っていました。菓子なんかを作る時は、その少量の何かが仕事をするわけですから──少量でも必要だからレシピに書かれているわけですから、省けば不味くなるのは当たり前ですね」
和泉は料理をしないが、化学実験については少しわかる。蘭香の菓子は、味はそうおかしくないと思うのだが、舌触りが悪い。何らかの化学反応の不足を感じる。もしくは、日持ちを重視して長く焼いているのだろうか。
蘭香は昔から、物事を適当にやっつけるところがある。大きなポイントはつかんでおり、要領がいいとも言えるのだが、味わうと粗がある。枝葉を優先する祖父にはあまり似なかったようだ。
「蘭子に渡している金は少ないとは思う。そのせいで材料を惜しんでいるのかな」
「性格の話のような気がしますが、少ないんですか、お給料は」
「刹那が金を持っているから、それほどは必要ないかと思って。容子には多めに渡してる」
それは問題だと和泉は感じる。家が金持ちだからと給与を安く設定されたら、その企業は辞めたほうがよい。
だが、従者の待遇は当人たちの問題である。蘭香が不服を申し立てていないのならば、和泉が口を出して波風を立てるべきではない。
「君はたっぷりもらっているんだろうな。その耳飾りは本物のダイヤだろう。似合ってる」
「いえ、これはブロンド女でないと抱けないという、因業ジジイからもらいました。本物なのかな、鑑定書がついていなかったのでわかりません」
「ジルコニアだとしても、君がつけているとよく光る。因業ジジイも貢ぎ甲斐があるだろう」
「青年実業家はあまり宝石を買ってくれませんね。因業ジジイなんかと違って、自分自身の魅力でモテるはずだと思うんでしょうか」
「実際にそうだろう。此紀は青年実業家が好きだった」
翳を帯びるとますます色気がある。
「会いには行かれたんですか? きれいなマンションだそうですね」
「家には行ってない。近くで顔は見た。桐生のいない隙に、抜け出してもらって。束縛されているらしい」
「それは……そういうものですよね」
自分で自分を縛ることができないから、家族が縛って管理するのだ。治療は、最初のうちはそうして始まる。縛らなければ溺れてしまう、その状況にあるのが依存症だ。
典雅は大きく舌打ちをした。
「ごめん、君に怒ってるわけじゃない。それを聞いた時、桐生を待ち伏せて、陰からエアガンで撃ってやりたいと思った。そんな馬鹿馬鹿しいことを考える自分にもイライラする」
「飛び道具で……」
「腕力だと勝てないからな。なんでこう、天の采配というのは偏っているんだ? 美しい顔に高い身長、長い手足、勉学もよくできて、女に取り入るのも上手い。伯母が金を持ってる。こんなことがあっていいのか」
「采配を平等にする場合、あなたからも多くのものが奪われると思いますが……」
「私にはありふれた怨嗟を言う権利もないのか。望んでこの顔に生まれたわけじゃない」
桐生もそうだということは、和泉が言うまでもないだろう。愚痴にマジレスをしても野暮だ。それとも、女を取られることに慣れていないから、本当に桐生ばかりが恵まれていると信じているのだろうか。
可哀想にと同情する。選ばれなかったという寂しさを、和泉はよく知っていた。万羽はアッパーで寂しさを表現しているが、典雅はダウナー系らしい。
典雅はため息を吐いて、アンティークの置き時計を見た。
「ああ、ラジオ体操をやらないと」
「その習慣はご立派ですが、体調の悪い時は無理をなさらないでください」
「なんにしろ私が出て行かないと、君も動けないんだろう。すまないね、今飲んでしまうから」
「いいえ、ゆっくり飲んでください。私はどうせ暇で、ここで刹那様のお戻りを待つだけなので、大丈夫ですよ」
師を語る時に尊敬語を使うという、この屋敷に千年残るルールは、里の学校に通った和泉には少し抵抗がある。郷なのだから郷に従いはするが。
実質的に夫であるのに、家内ヅラをできないというのも少し寂しい。宅の刹那はそろそろ戻ると思いますが、などと言ってみたいものだ。
典雅は部屋を見回すようにした。
「猫はいないのか? あの猫は毛並みがフワフワだから、触ると癒される」
「彼女は現金なので、この時間は白鷺さんのところにいます。エサはあちらが出すので。食べ終わったら、刹那様を探しに戻ってくるでしょう」
「この前、朝露が手に引っかき傷を作っていたんだが」
和泉が息を呑んだのを見て、典雅は「いや、苦情じゃなくて」と軽く手を振った。
「朝露が無理に抱こうとしたんだろう。傷は浅かったし、そんなことはいいんだが、自由に外に出して大丈夫なのか。獣に襲われたり、道に迷ったりして、帰ってこられなくなることもあるんじゃないのか?」
「それはそれで、彼女の運命なので。ハンサムな野良猫と出会って運命の恋をするかもしれないし──と刹那様が言っていました。この部屋に閉じ込めていたら、未来も発展もなく、壁をバリバリにされるだけだと」
「風刺的だな」
「私もそう感じましたが、そのつもりでは言っていないと思います。退屈を苦痛だと感じる方ですから、猫には野を駆けさせてやりたいだけでしょう」
典雅は自虐を感じさせる笑い方をして、それから言った。
「君は運命の恋をしたいか?」
「もうしているので、二回目は要りませんね」
「おや、ごちそうさま」
ぴしゃっと叩き落とすような言い方をしてしまったかと思い、和泉は言い足した。
「百年以上、この恋に縫われているので、満腹になったんです。私も若くないので、あなたのようなハンサムにときめくことはあっても、刹那様を愛したのと同じような気持ちにはもうならないと思います。あなたと恋に落ちたい女は、たくさんいるのでしょうね」
「恋に落ちると、女はみんな同じ性格になってしまうだろう。私の従者なんかも、私以外の者と接している時のほうが魅力的だ。そう考えると、恋なんてつまらない」
「蘭香さんは少し毒のある方ではありませんか? 同じ性格の女性は珍しいと思いますが」
おもしれー女という語彙を持たないなりに、師の孫娘のことを褒めたつもりである。
「蘭子のそういうところを知ってはいるんだが、私の前だと借りてきた猫でつまらない。世の中、そういう理由で振られている女も多いんだろうな」
「我を出しすぎて振られている女と比べて、多いかどうかはわかりませんが」
「そうなんだが、恋なんていつか終わるだろう。その短い間、我くらい見せてほしい。わあ、うれしい、大好き、どうして返信してくれないの? これ以外のことも言ってくれないと、返信をする気が失せる」
この男を愛してしまうと、競技に参加することになるらしい。よりテンプレートを外して気を引いて、一番目に留まった女が返信をもらえるシステムなのだろう。
蘭香はその種目においてなかなか強い選手だと思うが、なまじ愛しているだけに、ハンデ戦になってしまうようだ。
和泉は少し、ほんの少し、不愉快になった。女をスポイルしておいて、それがつまらないと言う男は、あまり素敵な紳士ではない。
「飲んだらお帰りくださいね」
「ん? ああ、ふうん」
典雅は「おもしろい女だな」とつぶやいて、和泉の顔をまじまじと見た。
甘蜜はミニマリストというわけではないが、部屋が散らかっているのは我慢ならない口である。収納がごちゃごちゃしているのも嫌だ。
押し入れを開いて、ときめかないものをどんどんゴミ袋に入れていると、ふわふわとした小さな生き物がシュッと衣装ケースの奥に飛び込んだ。
「猫ってどうして、一番邪魔な時に来るのかしら。出ておいで、ヤッちゃん」
ヤツデは大きな丸い目で甘蜜を見ながら、絶対に出てたまるかという構えを取っている。あたしここが気に入ったから、絶対しばらくここにいるんだから。
甘蜜は押し入れを後回しにして、箪笥の整理をすることにした。セーターの段を引き出す。するとシュッと飛び出してきたヤツデが、ピョンと跳躍して毛糸の海に飛び込んできた。
「あなた性格が悪いわよ」
ヤツデはきょとんとした顔の猫だ。猫なのに猫目ではなく、どんぐりまなこである。腹を出して愛嬌をアピールしている。
その腹がぽよんとしていて、妊娠しているかのように見えるが太っているだけだ。そこを指でつつく。たちまち喉を鳴らしはじめた。
「構ってちゃんなんだから。顔が可愛くってその性格だと、人間なら地雷女よ」
「すげえこと言うなあ」
男の声がして、甘蜜は振り返る。埃が立つから障子を開け放っていたのだ。
東雲は軽く手刀を切ると、「いま邪魔?」と猫にはない気遣いを口にした。
「いいえ、どうぞ」
押し入れの戸を閉め、ゴミ袋を端に避けて、猫入りの引き出しはそのままにする。
東雲は部屋に入ってくると、客用の座布団に座った。障子を閉めないところにも男の気遣いを感じる。
甘蜜が正面に座るとすぐに話を切り出してきた。
「あんた税金のこと詳しい?」
「いいえ、まったく」
「そうなの? 確定申告とかしてるんじゃねえの」
「それはしております。税金とおっしゃられると、範囲が広くって。政治経済の話でも振られるのかと思いました」
「自分でした方がいいのか、刹那様に頼んだ方がいいのか、あんたに聞いといてくれって親父が言ってたんだが」
「刹那様に収入の子細を知られて構わないのでしたら、頼まれた方がラクですわね。私はそれが嫌なので、仕方なく自分で処理しておりますけれど」
税理士に依頼するにしても、刹那を通すのが決まりだ。自身ですべてクリーンにできる者以外は、財布の中身の出入りを刹那に申告しなければならない。そこを飛ばして青柳の女に頼むこともできるが、非常に高価くつく。
脱税は、刹那にバレると強く叱られる。殺し屋ほど法定速度を守るものだと、若い頃に甘蜜も説教を受けた。職務質問にも愛想よく答えるのだぞ。
もっとも、甘蜜は職務質問など受けたことはない。警察官にとっても、顔を爛れさせた女は憐れみの対象なのだろう。その女が人を取って食うとは思っていないらしい。
反対によく警察官から声をかけられるという東雲は、猫が引き出しから洋服を蹴り出すさまを眺めている。
「地雷女なの? あの猫」
「ええ、構ってもらえないものですから、気を引きたくてあんなことをしておりますし。犬と違って役に立たないしわがままなのに、姿が可愛いものだから許されていて、妬ましいわ」
「犬は役に立つの? 猟犬とかか」
「警察犬とか、麻薬捜査犬とか、救助犬とか。表彰される犬はたくさんいても、猫が表彰された例は、ネズミをたくさん捕ったイギリスの猫しか存じませんわね。サウザーみたいな名前の」
「心臓が右にありそうな猫だな」
猫はぴょんと高く跳ねて箪笥から下りると、甘蜜の膝に乗ってきた。
「これですもの。片付けを邪魔して、服を散らかしておいて、平気で甘えてくるんですから、勝手だわ」
「言いようのわりに嬉しそうだな」
「それは可愛らしいものに好かれたら、悪い気はいたしませんもの。ねえヤッちゃん、お客様にしっぽを立ててみせるのは失礼よ? 女の子なのに、お尻が丸出しで恥ずかしいわ」
「あんたも動物に話しかけるタイプだよな。通じてんの? こんなに頭のちいせえ生き物に」
「警察犬とはわけが違いますけれど、私が怒っているかどうかくらいはわかるようです。叱るとサッと逃げますもの」
東雲はどうやら、ここの庭で飼われている犬を思い浮かべているようだ。その飼い主のことも。
甘蜜は動物を好きでも嫌いでもない。懐いてくるヤツデのことだけは比較的好きであり、他の猫や、犬全般はどうでもよい。
憎い男が飼っているからといって、あの小汚い犬をわざわざ嫌ったりはしない。赤ん坊も同じだ。勝手に健やかに育ってほしいものである。
「右近様は今日はお忙しいのかしら? 郵便局に行く用事がありますので、帰りにお買い物でもご一緒できたら楽しいと思ったのですけれど」
「納品書だの請求書だの作ってててんやわんやだったから、今日は無理なんじゃねえかな。俺は暇だから、荷物持ちについてこうか?」
東雲は右近の血をよく継いだ、善良な男だ。こう言葉を添えることも忘れない。
「去年は痛い目見たから、悪さもしねえし」
甘蜜をそんな目で見たことはないくせに、こうした物言いをすることが礼儀だと思っているのだろう。その価値観の古さに可笑しさを覚え、だから甘蜜はこの男と話すとなかなか楽しい。
髪を脱色してタトゥーを入れているような者ほど、旧弊的な価値観を持っていることがある。その恰好をカウンターブローだと信じている者は特にそうだ。右近のように、自分の心で思いついて金髪にしている者はちがう。逆張りと自由意志の違いは、案外誰が見てもわかるものである。
甘蜜はこのヤツデや東雲のような、わかりやすい者が嫌いではない。屈折した者が真似ることのできない、不可逆的なすこやかさがある。
しかし甘蜜は、ヤツデを撫でながら口にした。
「せっかくですけれど」
「そう?」
「沙羅さんが焼きもちを妬きますもの。私こう見えて、友情に篤いんです」
「そう見えるよ、普通に」
気分を害した様子もなく、東雲は猫のシッポが左右に揺れるのを面白そうに見ている。
「あんたは最近、沙羅さんとどっか行ったりしてんの? 遊びに出たり」
「ときどきは。でも花嫁さんはお忙しいですから、以前ほどは訪ねてくださらなくて寂しいわ」
「沙羅さん、体調悪そうじゃねえ? 忙しいからなのかね。おとといなんか暗い廊下でこう、頭抱えるみたいにしてて、尋常じゃなかったぜ。聞いても、ちょっと頭が痛いだけとか言うんだが、そんな感じには見えねえんだよな」
「まあ……」
甘蜜の思い過ごしではなかったことが裏付けられて、不安になる。
「そう、頭痛が酷そうで気になっておりましたの。刹那様にお話しして、街の病院にかかられたほうがよろしいでしょう」
「医者にかかんのも刹那様を通すの?」
「もう此紀様がいらっしゃいませんから。ほとんどの窓口は刹那様で、あの方も大変だわ──そんなことより、東雲さんから沙羅さんに勧めていただけませんか? あの方は頑固なところがありますから、しつこく言わないと行かない気がするんです」
「ああ、そうしとく。あんたからも言ってやってくれ。沙羅さんにはあんたしか友達がいねえから」
きっと本当は、このことを言いに来たのだと甘蜜は直感した。優しい男だ。心温まることがあまり起きないこの屋敷で、右近の周囲の数メートルにはほのぼのとした空気が溜まっている。
甘蜜は毒物について知識がある。ナイフの扱いも上手いはずだ。復讐の計画を緻密に妄想していることについて、自分でも驚くことがある。
しかし、それは復讐というよりも心中だ。右近や沙羅は悲しむだろう。だから甘蜜は音楽を聴いたり、猫を撫でたりして心をなだめる。
おまえが消えて喜ぶ者に、おまえのオールをほにゃほにゃほにゃ。
この歌詞はそれほど甘蜜の実情に沿うものではないが、マイナスの感情で動きそうになった時、その収支を見直そうという気になる文言だ。
復讐の問題点は、何も生まないことではなく、その後も道が続くことにある。本懐を果たして切腹など冗談ではない。裁判にかけられて腰斬に処されるのも、まっぴらごめんである。
氷水に浸かって凍死するより、温泉で和んだほうがいいに決まっている。
猫は体温が高く、抱いていると全身がぽかぽかとしてくる。今日にでも沙羅と話そうと思った。甘蜜の幸福には、沙羅の健康が必要だからだ。そう考える自分のことを、さほど嫌いではない。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。