蝶のように舞えない 最終話
庭の木に背をつけて、沙羅は立っている。
拘束されているわけではない。つまり、自分の意志でそうしていると言えた。
面している縁側には、沙羅の師と兄弟子が座っている。右近と万羽も臨席していた。
庭に立っているのは沙羅と、重たげな洋弓――アーチェリーを手にする皇ギ、その後ろに立つ豪礼だけである。立会人という言葉を沙羅は思い起こした。
「あんたは、運の強い女だそうだわ」
声を張り上げて、皇ギはそう言った。距離が離れているから、張り上げなければ聞こえないのだ。
だから沙羅も張り上げて返答する。
「そうか。知らなかった」
皇ギは弓を構えた。沙羅を射るために。しかしまだ矢はつがえない。
その仕草が美しく物慣れているから、なるほどと沙羅は思った。この庭にアーチェリーは不似合いだが、心得があるのだろう。処刑人には得物を選ぶ権利がある。
「命までは取らないわ。意図的にはね? 目測を誤ることがないとは言い切れないけど」
「信じよう」
処刑人の慈悲ではなく、利害においてだ。ここで沙羅の命を奪えば、その後に何が起きるか、承知していて、沙羅の肩を持ちうる全員を集めているのだ。
だから正確には、処刑ではない。儀式に近いものだ。けじめ。そして、同じ権利を求めるのならば、こうなるという見せしめだ。姿は見えないが、あちこちに見物人の気配がある。
皇ギは微笑んで、次の瞬間、冷たい表情を浮かべた。その通りの声で宣告する。
「事前に取り交わした通り、足ならばあんたの免許証。手で万羽の免許証。頭で、その両方と、万羽の相続権についての見直し」
「頭だ」
「どうかしてる! やめろ!」
叫んだのは兄弟子だった。立ち上がろうとしたその袖を右近が引っ張り、何かを早口で伝え、言い含めたようだった。
皇ギは侮蔑の目でそちらを見てから、沙羅のことも同じ目で据えた。
「権利と責任については承知しているんでしょうね? 万羽が人里で事故を起こして、警察を呼ばれても、あたしたちは関知しないわ」
「承知している。私たちは、私たちの責任を取る。だから権利を返してほしい」
「自治権の要求ね。承認するわ。あたしたちに漕がせた船、それに乗ってきた代償を、いま勇気で支払ってみせると言うのならば」
手と指定して腕を伸ばせば、矢が胴に当たる率は下げられよう。足はそれよりは難しい。頭は、沙羅の関知できることではない。
中てる場所を選べと言われているのではない。
中ててもいい場所を選べと言われているのだ。外すつもりだが、近くを狙うと。
沙羅と同等のリスクを皇ギも負っている。沙羅の頭を射れば、少なくとも兄弟子は、皇ギに同じことを求めるだろう。先ほどのように右近が止めるだろうが、ほかの二人はわからない。
二人――沙羅の師と万羽は黙って座っている。
皇ギは公正な女だ。今この場にいるすべての者はそのことを理解している。この場に集められたという時点で。
皇ギの父が、娘に矢を手渡した。細く長い、先端のよく尖った矢だ。頭蓋骨を貫通するものではないだろう。しかし、当たって無事で済むはずもない。
「首と胸を手で庇って。目も」
万羽がそう言った。
皇ギは首を横に振る。
「いっさいの小賢しい真似を許さないわ。求めているのは、覚悟を示すことなのだから」
沙羅は目を閉じた。手は自然に下ろす。
女の冷たい声が響き渡った。
「頭を指定したんだから、遺言を許すわ。次期長老の立ち会いにおいて、正式な遺言と認めて取り扱う」
「何も言うことはない。お前を信じる」
疑った時点で消失する信用というものがある。皇ギの心はその対象だ。
矢をつがえる音。
すぐに行射され、矢が風を切る音が聴こえてきた。
まだ傷を負って五日や六日であるのに、姉はもう格好いい黒眼帯を入手していた。
海賊が着けている、あのタイプである。それが異様に似合う。まだガーゼを挟んでいるが、明日には取れるだろう。克己の施術を受けている沙羅ほどではないが、元が頑丈な姉は傷の治りが早い。
いや、治ったわけではない。西帝と同じだ。もう回復することはないが、傷だけは塞がりつつある。
縁側に立ち、長い髪を珍しく下ろして、夜風にたなびかせ、姉はあきらかに黒眼帯の似合う自分を誇っていた。長い足を開き、腕を組んだ、ポーズが完全に海賊のそれなのだ。
心が強すぎる。狭野は驚くというよりも、もはや呆然としていた。
「なんでもう自分に酔えるんだよ……」
きちんと化粧を施した左目で、美しい女海賊は弟を見た。
「ごちゃごちゃ言ってるのはあんただけなのよ。あたしが、そしてこの山の掟が決めたこと。あたしも沙羅も納得してるの」
「おかしいんじゃねえの?」
狭野が薬を飲まされて眠っている間、東雲だけがそう叫んだのだそうだ。
「それに、よりによって、秋の水曜に」
「だから水曜にしたのよ」
自分たちに災いをもたらすとされる日。
「怖いのは、わからないからでしょ。回収したわ。秋の水曜の凶事はもう起きた。じゃあ、もう起きない」
「無茶苦茶だ。あんたも、西帝も」
突然フランスに行った弟は、視力を失うと同時に、当たり前のことだが、目の焦点が合わなくなった。それを隠すためにサングラスをかけていたものだ。
姉は、片目と引き換えに格好良さを手に入れている。横顔の美しさを維持したままでだ。
視力のことをあまり気にしている風ではなかった弟のことも、たいがいタフだと思っていたが、姉はそれをはるかに上回っていた。
「丸く収まったじゃない」
「何? これ以上混乱させないでくれ」
「沙羅は支払い、あたしも支払った。西帝の身は安全だし、長老も万羽もどうせ長くは生きられない。典雅の恨みを買うこともしてない。何が不満なの」
「何って、あんた、あんたな」
姉は微笑んだ。自分と西帝にだけ見せる、優しい表情。この顔、これに呪われてきた。今も絡みつく。
「悲しまないでよ。あんたが悲しむと、あたしも悲しいわ」
「じゃあ俺を悲しませるようなことをしないでくれ!」
「西帝と違って、片目は見えるんだから不自由しないわ。慣れるまでは転ぶかもしれないけど、あんたが支えてくれるんでしょう」
狭野はぞっとして、その黒い眼帯、挟まれたガーゼに染みている黒い血を見た。
「そのために? 俺が西帝について行かないように、あんた、わざと」
「わざとなわけないでしょ。こんな、一歩間違ったら死ぬような怪我」
「わかってんじゃねえか!」
血がほとんど止まったからといって、一歩間違っていないとは言えないのだ。これから感染症を起こして死ぬかもしれない。脳に近い部分の損傷なのだ。西帝も頭痛を起こしていた。白鷺の言っていたことがちらついて、狭野はこのところ夜にうなされてほとんど眠れない。
「どうでもいいわ。目なんか。あんたがいればいいの」
姉はそう言って、手を差し伸べてきた。黒い手袋。どんどん黒い色に浸食される、しかし美しさの損なわれることのない、この女の身体。
白い女は自分を騙す。黒い女は騙さない。そのことがよくわかった。姉は詐欺を働くことはない。少なくとも、狭野に対しては。
この手を取ることしかできないように、狭野は囲い込まれている。
鳥かごにうまく錠を下ろすことができず、もたついた沙羅のことを、東雲は悲しそうに眺めている。
そのことが沙羅には悲しい。小さな声で鳴いた鳥は、監禁される我が身を嘆いているのだろうか。
「すまないな」
小鳥に謝罪する。これまで沙羅が給餌した生き物だ。野に放っても、いくらも生きられまい。買い受けた以上、沙羅にはこうすることしかできない。
かごの施錠は複雑なものではない。かごと同じ材質の、金属のチェーンをフックに掛けるだけだ。まだ遠近感がつかめぬから、この程度の動作でも指を引っかけてしまう。
いずれ慣れて、また自動車を運転できるようになるのだろうか。そのことの是非を沙羅は考える。
隻眼の自分が事故を起こす率は、健常者よりも高かろう。自分ひとりの滑落ならば構わないが、誰かを巻き込む可能性がある。
それでも、失ったのが左目でよかったとつくづく沙羅は思っている。沙羅は右利きだ。こちらの視界が利かなくなれば、たいそう不便であっただろう。
知らず、眼帯に触れていた。東雲が眉を寄せる。
「痛みますか」
「いや、もう大丈夫だ。お師さまの傷塞ぎは確かだな。それとも、私が丈夫なのか。きのう会ったら、皇ギはまだ出血があると言っていた」
あの水曜の日。沙羅の左目を貫いた矢を、師は優しく抜いて、皇ギの右目に突き立てた。誰も止めなかった。皇ギ自身さえも、そしてその父親も。
すべては遵法の行いであり、だから罪人はいない。
しかし自分は、咎人だ。沙羅のせいで二つの眼球が用を果たさなくなり、それは、一人分だ。西帝と同じ者を沙羅が作り出してしまった。
片目同士のトレードではない。一対だ。両目である。
皇ギに悪いことをしてしまったと、沙羅は心から思っている。万羽は泣いていた。だから彼女の父の亡霊もまた、沙羅のことを許すまい。
自分が少し右に寄ればよかったのだ。目など閉じずに。それとも、望んだことそのものが間違っていたのか。万羽が望んだものは化粧品のパレットだけだ。相続権など、彼女の負担を増やすだけの厄介事ではないのか。
そして、典雅へのなめらかな継承を妨げるものである。沙羅はアレルゲンであったのだ。邪魔だから免疫反応が起きる。有毒ではなくとも有害なのだ。
「沙羅さん」
「大丈夫。西帝と比べれば」
すでにこの屋敷にはいない、信じられぬほど素早く海外への移住を決めた、あの若い男に親切にしてもらったことを思い出す。
パスポートの調達などは、青柳家が本来的に得意とする業務である。一両日で発行されていた。
沙羅も、そうした道を考えたことがないわけではない。
しかし、沙羅のことを幽霊が監視している。独りになれば、彼らがたちまち触れてくることだろう。
沙羅はどこへも行かない。
自動車もおそらく、もう運転することはないだろう。
色舞は兄の膝に頭を載せて、ぼんやりと庭を眺めていた。二人の女の血を吸った庭だ。遡れば、もっと多くの血が流されてきた場所なのだろう。
父の師も、そこで足を斬られたのだと聞いたことがある。そうした習わしなのだろう。傷に土が入り、予後が悪くなるリスクばかりあると思うが、それを含めて、見せしめなのだ。
今日は本を読んでいる兄は、色舞の髪をそっと撫でた。
「おめえが気にすっことはいっこもねえ」
「気にしないということはできないのよ」
兄や、父はできるのかもしれない。色舞はこのところ、そんなことを思う。
「私、間違っているのかしら?」
「なんがだ?」
「私の招いた事態なのかしら」
美しかった女が二人、その目に損傷を追った。その場面を色舞は見ていない。見るなと、皇ギに言われていたからだ。
女たちの怪我に、父はさすがに少しショックを受けたようだった。その程度には心の優しい男だ。
兄は、いくらか嫌そうな顔をして「くだらねえ」と言ったきりだった。
「私たち、ここから出ることはできないのね」
「望むか? 本当に」
「わからない。いいえ、私は本当は、ここに執着しているんだわ。出ることはできると示されてなお、ここに座っているんだから」
「人里の空気は肺に悪りい。おめえは胸が強くねえ。行くな」
「そうね」
ひとりでは出られない。兄と父が一緒でなければ。しかし、兄は身体が弱い。
兄がいなければ父とここを出るのかと、色舞は考えると頭痛を覚える。兄の言うように、色舞も心肺の強いほうではない。みなそうだ。宣水は丈夫であるらしい。
西帝は早く死ぬだろう。
彼は色舞のことを好いていたという。皇ギは嘘を言う女ではないから、そうなのだろう。
こめかみが痛む。眉間もだ。頭の中を蛇が這い回っているような気がする。
「痛い……」
「色舞」
「何よ、私のせいなの? どうすればよかったというの」
「おめえのせいではねえ。何もだ」
色舞には、ここを地獄だと断じることはできない。
兄が色舞の頭を撫でているからだ。父もいる。色舞を愛していると言い、手を引いてくれる。
だから出たいと願うこともできない。色舞の夢想するものは、せいぜいキャンプだ。何の意味もない。
痛い痛い。頭が、割れた方がましだと思うほどに痛む。薬をもらわなければ耐えられない。伯母が出し渋った薬を、あの金髪の女は処方する。だから叔母と呼ぶ気にならないのだ。
兄が撫でるところから痛むような気がして、色舞は兄から離れた。それでも痛む頭を抱える。
「どうしてなの! どうして、何が悪かったというの? 私は言われた通りにした。正しいと思った! なのにどうして! 痛い痛い! 嫌! 敵ばかり増えるのよ。万羽様は私のことを邪魔だと思ってる。東雲さんはいつか私に矢を向けるに決まってる! 私が悪いの? 私のせいなの!」
「色舞! 待て。先生を呼ぶから」
「出されるのは麻薬よ!」
――あねさま。
幼い声が内側から響いて、色舞は頭を抱えたままうずくまった。
蝶のように舞えない 了
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。