蜂の残した針 12話
今日は顔色が悪い気がする。
斎観はそう思い、額に手を当てて熱を見てやろうとしたが、払われた。睨んでくる。
「顔に触らないで」
「──痛いのか」
「は? 化粧が崩れるからよ」
「してないだろ、化粧」
激しい軽蔑を眉で表現された。
「いい年して、女が化粧をしてるかどうかもわからないの。馬鹿じゃないの」
「してるにしてはパッとしねえからな」
飛んできたチョップを手首の返しで交わして、姉の首を触った。ハイネックの服を着ていても体温を見る隙くらいはある。
熱はないと思うが、また頭痛があるのかもしれない。この女はそれを隠したいらしいから、注意して見ていなければならないのだった。
手を叩き落とされた。
「セクハラよ」
「医療行為だ」
「あんたの子供を産んであげましょうか?」
「何!? セクハラで返してきたってことか!? キモすぎる」
さぞ顔の濃い子供になるであろう。美形ではあろうし頭も悪くないと思うが、性格には難がありそうだ。
斎観はなんとなく、桐生に姉の要素が加わった女児を想像している。なぜか男が産まれる気はしなかった。
「女だと、あんまり身長が高いと可哀想だな」
「西帝は大女が好きでしょ」
「ニッチだろ。服もあんまりないんだろうが」
「あんたの師は子供服を着てるの?」
「なんでいちいち嫌味を言うんだよ。いいんだ、あれはあれで色気があるんだから。でかい胸ばっかりが正義じゃねえんだ」
「あたしを胸のでかいだけの女だと思ってるの?」
そうでないから厄介だ、と思っていることくらい承知しているだろう。
怪物の目を持つ美人で、銃も撃つし洋弓も射る。腕力もそこそこあり、引っ張られると斎観でもよろけてしまう。武力が過剰で、きょうだいの中でいちばん父に似ていた。
悪いことに、頭脳もそこそこ明晰なのだ。抜けているくせに鋭い。嘘は見抜かれ、つくろえば破られ、機嫌を取るとむくれる。
扱いにくいという言葉の擬人化だ。誰の操縦も受け付けず、糸を縫い付けようとすると切られる。女というよりも暴れ馬で、ならば野を駆けていればいいのに、分厚い洋書を原文で読んでいたりする。付き合っていると乱高下で酔う。
良く言えば為政者の器だが、悪く言えば国を傾かせるポテンシャルの持ち主だ。投資と経理の役に立つ。その資金を一族の蔵から持ち出していることについては、成果を出すから黙認ということになっていた。
今もパソコンで為替チャートを眺めている。その顔色がやはりどうもくすんで見えるのだ。
「おい、今日はもう寝たらどうだよ」
「さっきコーヒー飲んだから、しばらく寝られないわよ」
「眠れなくても横になれよ」
「うるさい。神無の犬の分際で」
「今それが何の関係があるんだ。シフト制だから、業務時間外は犬でもねえし」
モニターの電源を落とす。姉は意外にも怒らず、椅子の背もたれに体重をかけた。やたらと重厚な書斎机で、中古家具の店で見つけたというものを、斎観が軽トラで搬入したのだ。
この椅子に座る姿は、まあ、美しいと思う。自分に似合うものをよくわかっている。男物のセーターも、凛々しさと妙な儚さを同時に出すという効果を上げていた。
下には何か履いてほしいのだが。廊下にはコートを羽織って靴まで履いて出るくせに、部屋の中ではパンツ一丁なのである。
斎観の師もそうであるが、種の本能として下半身を冷やしたいのだろうか? そういえば桐生の師も脚を解放している。あながち外れてはいないのかもしれない。男だと見苦しいから、出したくても出せないだけなのだろうか。
首を守りたいという本能は、また別に有しているようだ。これについては、今の長老が刻んだものではないかと疑っている。
「姉貴は子供を作んねえのか」
「なんなの、今日は。鬱陶しいわね」
眉間を揉みながら、姉はため息をついている。やはり、少なくとも疲れてはいるようだった。
「──あんたが言ったんだろ」
「はあ? 何を? ああ、子供の話? そんな真剣に受けられても困るけど、あんたが育ててくれるんなら別に作ってもいいわよ」
「なんで前提的に放棄するんだよ」
「向き不向きがあるでしょ。あたしが育てたら、性格が破綻するわよ。目も──悪くさせるかもしれないし」
「え?」
姉は立ち上がると、押し入れの戸を開けて布団を引っ張り出した。感心なことに、珍しく弟の言うことを聞く気になったらしい。敷きながら命じてきた。
「水を持ってきて。常温の」
「ああ」
「ガラスの水差しにして。変な柄のついてない、あの丸底の。グラスは江戸切子の水色の、小さいほうよ」
「うるせえな。わかったよ」
大人しく横になってくれるのならば、このくらいの使い走りはしてやろうというものだ。姉の部屋を出た。
台所で水色のグラスを探していると、「わっ」という声とともに背中を軽く押された。
そっと近寄ってくる気配は感じていたから、可愛いものだと思いながら「びっくりした」と言って振り返る。
蘭香かと思っていたが、色舞であった。身長が同じくらいで、同じシャンプーを使っているものだから、時々こういうことがある。間違えるともちろんむっとした顔をされるから、名前を呼ばなくてよかった。
学生風の服を着ている色舞は、夏でも黒いタイツを履いていて、この娘は下半身を冷やす気はないらしい。子供を作ることも考えていないような気がする。男の身体を作ったことはほとんどないと言っていた。病や障害には遺伝性のものがあると聞く──そこで考えるのをやめた。
少女に見える女の腰に手を回すと、軽く押し返された。拒否とまでは行かないが、公共の場でべたべたするなということだろう。素直に離れる。
「なにかお料理をされるんですか? こんな時間に」
「いや、コップを探してんだ。水色の」
「切子細工の? このあいだ、桐生さんが割ってしまって捨てていましたけど、あれとは別の?」
「え、割ったのか。しかも言ってねえのかよ。軍曹がお怒りになるな」
「怒らないでしょう」
この家の中のことをよく知る女は、そう言って低い位置の戸を開けた。
「軍曹殿は甥御さんにはお優しいもの、あ、いいじゃない」
景品か引き出物か、そういった様子の箱から、色舞は水色のガラスコップを出した。あまり高価そうには見えないが色はきれいだ。
それを流水で軽く洗って、水滴を拭いてから手渡してくれた。
「これではどうですか」
「ああ、ありがとう」
礼を言いながらも斎観が流し台の、どのあたりを見たかを察したらしい。色舞はやれやれという顔をして、手を出した。
「わかりました。ちゃんと洗剤で洗います」
「いや、それは自分でやるから大丈夫。ありがとな」
「もう私の手は濡れてしまったんですから、洗います。ほら」
コップを取って、洗剤を吸わせたスポンジで内外を洗い、泡を水で流して、また拭いて渡してくれた。
蘭香ならば、神経質だと怒るか、洗うにしても嫌味のように丁寧にして見せつけてくるところだ。色舞はあきらかに男が悪い場面でも、あまり追求せずに済ませてくれる。
「いい女だねえ」
都合の、というところは省く。
色舞は流し台の水気を布巾で拭いながら、ふっと鼻で笑った。
「敵いませんけどね、あなたの女軍曹には」
「きみのほうがすてきサ」
「具体的にはどこが?」
この娘の魅力は、言葉にしにくい部分にある。しかし真実を求めているわけではなかろう。
「きみのほうがキレイだ」
「いくらなんでも、それは」
「きみの脚は細くて、太ももの間にこう隙間があるだろ。これを見るとぐっと来る」
こう、のところでその隙間に指を入れた。高級なタイツなのだろう。手触りはいつもしっとりとしていて、中身に高級感を与えている。
「ひどい男ね」
手は、特に払われることはなかった。ただ淡白な表情で見上げられて、この女が本当は自分をどう思っているのかということを思い知らされただけだ。手を引きながら聞く。
「俺ってそんなに下等な動物?」
「そんなことは思ってやしません」
「思ってるだろ。きみとか白威は俺のことを見下してる。姉貴もだ。いい年して、でかい図体して、女の命令を聞いてないと落ち着かない、マゾヒストの変態だと思ってる」
「変態だとは思っていませんよ。他のことはそうですけどね」
「いい年して、でかい図体で、女に命令されてねえと不安になるマゾヒストの男のことは、変態って言うんだよ」
「でも、支配ベースだとそれはそれで疲れるのでしょう? だから若い女にも手を出したくて、二股や三股がバレてもやめたくないんでしょう。別に、平均の範囲の軽薄男だと思いますよ」
つまり下等な動物ということだ。色舞はいつも静かにしゃべるが、声に特徴がある。深いところから発されるように響くから、言葉が妙に染み入るのだ。さほど小言を言う女でもないのだが、説教くさい印象があるのはそのためだろう。今も、すべてを肯定してくれたにも関わらず、斎観は叱られたという気分になっている。
色舞は冷蔵庫を開けた。
「あら、桃はもうなくなったのかしら」
「桐生がタルト作ってたな。梨ならある、あんまり甘くねえが。剥いてやろうか?」
「いいえ、桃が腐っていないかどうかを見に来ただけですから」
「女の腐ったような男がいるだけだったな」
冷蔵庫の扉を閉じながら、色舞は不思議そうに斎観を見た。
「今日は突っかかってきますね。珍しい。ご機嫌でも悪いんですか」
「いや、なんか、あのさあ」
なるべく刺激を与えない言葉を探してみた。
「色舞ちゃんのお兄さんは超ハンサムじゃん」
「そうですね」
「そういう男のそばにいると、なんかやましい気分になったりする?」
「私、たまに電車に乗るのですけど」
無視されたのかと思ったが、色舞はきちんと話を受けてくれていた。
「よぼよぼの老人だとか、働き盛りの中年男だとか、中高生だとか。いろんな男がこう、近くに来ることがあるわけです。そういう時、いま私が突然キスをしたら、この男はどういう反応をするのかと考えたりしますね」
「痴女?」
「ネットで検索してみると、同じことを言っている者がけっこういるんです。別に襲いたいというわけではなくて、してはいけないことをしたらどうなるかと、つい考える癖というか、そういう性分があるようですね。重要書類を風に飛ばしてみたくなったり、裁断機に指を置いてみたくなったり」
「それは、なんか心の病なんじゃねえの?」
「危機管理なのでは? いけないと思うから、実際にはしなくて済むんです。父や兄の顔を見ていても、同じように考えることはありますね」
「あの顔が、よぼよぼの老人と同レベルか……」
斎観は老婆を見てそんな気分になったことはない。これからは考えてしまうかもしれなかった。ちょっとした呪いだ。それを自分にかけてしまう、という話のような気がする。
色舞は服装とは違い、とうに少女ではないから、こういう時に「だから気にすることはない」などと言いはしない。通りすがりの者から突然、あなたは臭くないですよと言われたら、それは臭いという意味である。
蘭香は言うタイプだ。彼女はまだ若いし、サドッ気がある。男が弱っている気配に敏感で、疲れている時に話すとぴしゃっとやられる。癒し系の対極の女だ。
そういう女でなければ駄目だという、これはもう自分の性癖だろう。支配されたいし、説教されたいし、顔をぴしゃっとやられたいのだ。百も年の離れた女にまでそれを求めている、ねじれ曲がった、気色の悪い男だ。山の外ではマザコンと呼ぶのだろう。マザーはいなくともコンはある。
「色舞ちゃん……」
「はい。大丈夫ですか、と聞くと良くないのよね。ドライブにでも行きましょうか? もう暗くて危ないから、周りをぐるぐる回るだけですけど」
「軍曹に水を運ばねえといけねえんだ」
「行きたいの? 行きたくないの」
「行きたい……」
「では駐車場で待っていますから、お水を運んでさしあげてください。おしゃれしていらしてくださいね」
「なんで?」
「デートですから」
突然繰り出されたロマンティックな言葉にびっくりして、小さな顔をまじまじと見てしまう。
色舞は照れる様子もなく微笑んで、それは愛人に対するものというよりも、姉が弟に向ける類の表情であると、コンを丸出しにしながら斎観は思った。
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