蜂の残した針 15話
これは毒だと、布団の中で顔を真っ青にしている此紀を見て、典雅は思った。
盛った者を睨む。
桐生は毒薬の瓶に貼られているラベルを読むふりをして、典雅の視線から逃れている。若い男に、自分でも珍しいと感じるほど強い声で告げた。
「この薬はとても承知できない」
「医者の認可で使っております」
「麓の診療所か? あそこの院長はもう八十近いだろう。耄碌してる。こんなに青くなって、普段よりずっとひどいじゃないか」
「街の中央病院の専門医です。抗酒剤というのは、こういう効き方をするものなのです。酒を飲むと体調が悪くなる。だから飲みたくなくなる。悪くなるから意味があるのです」
「アルコールを受け付けない者と同じ体質にするんだろう? それなら毒だろう!」
「長期的に使えば毒です。ですので本当は、病院に通われるべきです。投薬や血液検査は受けられないとしても、カウンセリングや精神療法は受けられます。此紀様のお心とお身体のためには、それが必要です」
その低く、色気のある声は、彼の祖父によく似ている。
典雅は日頃、あまり声を荒げたりはしない。心もそうだ。特に年の若い男の言うことなど、半分は耳をすり抜ける。
しかし、負けぬだけ声を張ろうと思った。
「君だけが此紀のためを思っていると? 少し前に、豪礼に言われて付くようになっただけの君が、いちばん此紀を心配していると思っているのか?」
「いいえ」
透明な急須のような──典雅の知らぬ──ものの先を此紀の口に含ませている。水を飲ませるための器らしい。手つきがそれほどに優しくなければ、それを払いのけてやりたかった。拷問器具に見えるからだ。
水を飲んでいるということは、意識はあるらしい。目を開けるのも億劫ということか。
女の口元を、アイロンのきいたハンカチでそっと押さえてから、桐生は穏やかに典雅を見た。
「この方を思う順位ではなく、有効な治療についての話です。治し方は──いいえ、治らない方法はわかっているということです。アルコール依存の治療には、周りの愛と努力が不可欠です。ですが、それだけでは治りません。気持ちだけでは治らない、その状態のことを依存症と呼ぶのですから」
「治す必要があるのか」
目を瞑っている此紀を見下ろしたまま、桐生はわずかに眉をひそめた。
若者の反応だと典雅は思う。未来がはるかに続くと思っているのだ。典雅や此紀はもう、余命の域に入っている。ホスピスケアという言葉を典雅は知らないが、概念はよくわかっていた。
つらい思いをしてきた女だ。死ぬ前の数年か、あるいはもう少し長い期間かもしれないが、そのくらいは好きに過ごさせてやりたい。
しかし、この対立は典雅の分が悪い。才祇と色舞は、桐生に味方するとわかっているからだ。典雅の子もまた若く、まだ死をそばに感じたことがないのだろう。あるいは此紀が死ぬことを考えるのが怖いから、治る未来のほうだけを夢見ていたいのかもしれない。
毒を飲ませて、苦しませて、病院になど通わせて、何ほどになるというのだろう。腫瘍を切って治るという話ではあるまいし、そう、治らないのだ、酒に依存する病は。そのことを調べて知っているから、典雅は若者の正しさに対してむきになる。
「君には何もわからない。酒を飲んでいないと、この女は、身体のやわらかいところを引っ掻くんだ。喉や、手首の内側を」
「存じております……傷跡がありますから」
「女を救いたいという自己満足は、よそで果たしてくれ。私たちに構うな」
あきらかに悪者の台詞を読み上げることに、典雅は慣れていない。嫌な役割だ。ここに色舞が来たら、どんな顔をすればいいのだろうか。
桐生は、才祇が礼儀正しいと評した若者は、片膝を立てた。単に立ち上がろうとしているのだろうが、敵に対する姿勢だと、典雅は思った。女を挟んで対峙している。
ゆっくりと立ち上がって、桐生は典雅の顔を見た。
身長が高い。力も、強いだろう。しかし決闘を申し込まれたら、応じなければならない。姉弟子は、どうやら眠ってはいないらしいからだ。
若者はよく響く声で、ゆっくりと言った。
「あなたにも私にも、家族があります。この方にはない」
「そうかな。それが?」
「アルコール依存症は否認の病です。ご存じでしょう。患者が自分で自分を病気だと認めるのは、とても難しいのです。その後の通院も、家族のケアがない場合は困難です。この抗酒剤を処方してもらうために連れ出すのも苦労しました」
「結論を」
「いいえ、あなたは過程を重視する方でいらっしゃいますので、ご説明します。依存症の更生には家族が必要です。ひとりで回復できるようにはなっていないのです。才祇さんと色舞さんは、そのケアに協力的でいらっしゃいます」
卑怯だ、言葉と論理による暴力だ、と典雅は憤る。嫌らしい話し方だ。相手の反論の余地をひとつずつ封鎖する、この話の構築術は、此紀によく似ている。影響を受けるほどに長く接しているわけでもないはずだが。
「あなたが」
女を庇う騎士のように、若者は真っすぐな視線で典雅を射抜いた。
「あなたが、この方の治療には邪魔なのです。典雅様」
典雅は袖の中で拳を握り、殴りかかりたいという衝動を、なだめるべきか放出するべきか迷っている。
自分は、やけ酒というものを食らうことができないのだと、典雅は今さらながらに気が付いた。
巨大なペットボトル入りの焼酎を、台所で適当に探したマグカップに注いで、その場で流し込まんとした瞬間である。典雅の頭の裏側あたりに住む、危機を知らせる概念存在が叫んだのだ。
──子供たちが心配するぞ!
あまりにも正しい警告であり、典雅はその不可視の警告者に感謝しながら、カップの中身を流し台に捨てた。
母と慕う女に続き、実の父までが酩酊していたら、色舞は悲しむだろう。才祇は怒るかもしれない。父親の心の弱さを責める息子ではないが、妹を悲しませる者に寛容な兄ではない。
典雅は子を重荷だと思ったことはない。少なくとも意識的には、本当に一度もなかった。疲れると感じることはあるが、それは自身の体力の問題であり、子が重いわけではない。
愛犬家の多くは、飼い犬に噛み殺されたとしても、犬を憎むことはないのではないか。典雅はそのようなことを考える。
典雅にとって、愛とはそれほど明確なものである。命のサイズの横槍が入っても、照準がずれることも、反転することもない。愛憎の種が備わっていないタイプである。愛と憎しみは別の種から芽吹く。
あいつが憎いと、典雅は珍しく負の芽を伸ばしていた。
あの、美しい顔と優れた体格、それに弁の立つことが苛立たしい。嫉妬ではないと典雅は自己を分析する。これは、もっと切実な危機感だ。
どうせ騎士を気取りたいだけの若造だ。しかし、出自に優れる。立派な鎧や剣をあつらえて、銀貨の袋までも与えられるかもしれない。
ボンボンのバカ騎士である。出立だけ立派に飾られたところで、女を救う力など持ってはいないのだ。
あの若造の計画はわかっている。此紀を病院に通わせると言いながら人里に住まわせ、おそらく世話の体を取って同行し、そして独占するつもりなのだ。岡惚れと、騎士を気取りたいという願望の両方を満たせる、程度の低い目論みである。入り口だけ美談で、そこから伸びる道はすべて破滅に繋がっているのに、みなあの真摯げな顔つきに騙される。
「くそ……」
冷蔵庫の扉を開け、ノンアルコールのビール風飲料を取り出した。此紀がたまにはこれで大人しくなるから、箱単位で買い置きがある。冷えたそれを開けて一気に飲んだ。人工甘味料の味がくどくて不味い。
飲みきれない分を流しに捨てて、空き缶を握りつぶす。アルミ缶がおかしな具合に曲がり、指を切った。どうせ小さな傷であろうに、ぼたぼたと血が垂れた。
踏んだり蹴ったりである。缶を流し台に放置して台所を出た。
床を汚さないよう、もう片方の手で血を受けながら自分の部屋に戻ると、仏壇を手入れしていたらしい遥候が、珍しく驚いたような顔をして腰を上げた。
「どうなさったんですか。大変じゃないですか」
「たいしたことはない」
典雅は血を流すことに慣れている。止血の道具を自分で箪笥の中から出して、さっさと処置をした。
汚れたガーゼを、遥候は意外にも親切にまとめ、ゴミ箱に捨ててくれた。
「ありがとう。嫌だろう、鬼の血を触るのなんか」
「別に」
若い頃から不愛想な女だが、悪意あっての態度ではない。騒がしいところがないから、かえって楽だと典雅は思っている。服装は派手だが、テンションは低い。ダウナー系のギャルなのだ。
「呼びますか? 起きてるか知りませんけど」
治療のために、此紀をという意味だ。この女の喋り方に、蘭香はいつまでも苛ついているが、典雅や色舞は問題なく対応できる。
「本当にたいしたことはないから、構わないでくれ。年を取ると血が止まりにくくなるから、大ごとに見えるだけだ」
それに、此紀は起きられる体調ではない。典雅は舌打ちを直前で消音した。
「なんか」
遥候は涼しげな目で典雅を見た。若手でもっとも綺麗な女だと言われるだけはある、左右対称のよくできた顔だ。
「怒っておられますか。あたしが何かしましたか」
「ん? いや。怒っ──てはいるかもしれないが、お前に対してじゃない」
そういえば、上司が不機嫌でいるだけで、部下に対する何かのハラスメントになるらしい。色舞に注意されたことを思い出し、微笑んだ。
「怒ってもいない」
「そうですか」
遥候は相手の心の動きに、それほどは関心を持たぬ女だ。蘭香は爪を引っかけるようなことを言うこともあるが、こちらは淡白である。
しかし、この身分の低き娘を、なんとなく恐れる者は多いようだ。それが美しさというものの力であろう。内面世界が、深慮に、ひょっとすると冷酷に、広さを帯びているのではないかと、周りは勝手に気を遣う。
桐生はそれを自覚して上手く使う曲者だが、遥候は存外素直だ。それは知性の差というものかもしれないが。
「小遣いは困ってないか?」
「いえ、別に。なんで急に?」
遅きに失しているのだろうが、周りを味方にする努力というものが必要なのだなと、浅はかさを働かせただけだ。若い頃はそうしたことも考えていたはずなのだが、朝露が産まれたあたりからだろうか、多くのことがどうでもよくなった。
おろそかにしていたから、持って行かれそうになっているのだ。これまで女を誰かと競ったことなどない──いや、色舞の母親は克己から奪ったのであったか。自分が勝った戦は忘れてしまうものだ。
「お前には引き抜きの話が来るだろう」
「まあ」
「私は充分なことをしてやれていないのに、どうして他に行かないでくれるんだ?」
「そういうものじゃないですか」
端的である。
典雅がその意味を考えていると、不愛想な従者は説明を足してくれた。
「結婚とかって、そういうことじゃないですか。大きい理由がなければ離婚しないものじゃ? 充分なことなんて、誰もしてくれないと思いますし」
この娘はときどき、ぎくりとするような物言いをする。父親を早くに亡くして苦労したのだろう、箱入りの蘭香とは冷め方が違う。ペシミストなのかと思っていたが、夢を見ないだけでしょうと才祇が言っていた。
「苦労をかけるね」
「別に。──典雅様は、逆にどうしてですか? あたしたちを入れ替えないの。昔はもっと短い間隔で、新しい従者にしてらしたんでしょう」
「ああ、それは」
朝露の世話を嫌がらない者は、それほど多くはないのだと、正直に答えるべきかどうか迷う。昨日までの自分ならば言ったのだろうが。
「お前と蘭子はよくやってくれているから……?」
従者におべんちゃらを使った経験がないあまり、疑問形になってしまった。
さすがに、遥候も眉を寄せた。
「どうしたんですか。またお嬢さんに何か言われました?」
「このところ甲斐性のなさを指摘されることが続いてね。自分でも、本当にそうだなと感じていたところだ」
「甲斐性って? 精力のことですか」
「……違うが、そう思っていたのか」
「精力絶倫の典雅様なんかキモいですよ。実際、メッセージがキモいから出会い系の男にフラれてるんでしょう。もしかして、ラジオ体操ってそのためだったんですか」
「いや、全部違うが、そう思っていたんだな」
自分に好意的な存在でも、このありさまである。他者と関わるということの難しさを、典雅は久しぶりに考えた。
「お前はどう思う、桐生のことを。背も高いし、顔も美しいし、若いし、素敵か?」
「あたし年下はムリなんで」
「その話をもっとくれないか」
「澄ました顔してるけど、この前までピーピー泣いてた子供だったし、ステキとは思わないです。蘭香が言うほどムカつくとも思いませんけど」
「その話をぜひ」
「そんな悪口言うわけじゃないですけど。蘭香は桐生君の父親と付き合ってるから、含むとこがあるんじゃないですか。よくは知りません。本人に聞いてください」
この娘はあまり噂話をしないのである。それを美点だと思っていたものだが、今は少々口惜しい。
「桐生君が嫌なんですか」
「嫌だと言うと、私が嫉妬していることになってしまうんだろう」
「別に。生理的なものとかあるし」
「ありがとう」
子細を話す気にはならないが、こう言ってもらえるだけでも嬉しいものだ。
遥候は少し首をかしげたが、それ以上何も聞いてはこなかった。
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