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蜂の残した針 9話


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 花模様の刺繍の入ったブラウスと、ベルベットのスカートという姿の沙羅に、そのスポーツサングラスはあまり似合っていなかった。

 しかもそのサングラスは、自分が紛失したものだ。東雲は率直に問う。

「俺の盗みました?」
ひと聞きの悪いことを言うものではない。私の車の中にあったものだ」
「俺のじゃねえか」

 妹弟子はサングラスをかけたまま、大きな胸を張った。

「誰もこっそり拝借しようとは思っていない。しばらく貸してほしい」
「構いませんけど、もっと似合うの買ったほうがいいですよ。あなたならレディースの海外セレブっぽい感じのヤツが似合うんじゃねえかな」
「似合うかどうかはどうでもいい。かけていると楽だから」
「楽? 何が?」

 東雲の部屋である。何もせずにぼんやりしていたら、サングラスをかけた妹弟子が訪問してきた。暇だから相手をしている。

「ときどき目が痛む、というほどではないが、じんじんすることがあって、そういう時は日がまぶしく感じるから」
「それ大丈夫なんですか? ちゃんと先生のところ行きました?」
「うん、眼病は専門じゃないからといって、病院に連れて行ってくれた。検査したが、特に異常はないと言われた。頭痛を目のあたりで感じているのかもしれない、とか。確かに、雨や台風のときに疼く気もする」
「今日は晴れてんじゃん」

 雲ひとつない昼である。それに、悪天の時にそうなるというのならば、日がまぶしく感じるという証言とも矛盾する。
 本当は天気を問わず痛むのではないだろうか。沙羅は昔から、弱みを隠すタイプだ。心配になってきた。

「頭痛だとしても、それはそういう病院に行かないと。行ったんですか?」
「うーん、たぶん片頭痛なのだろう。こう、片側だけだから。左の目だけが変な感じがする」
「大丈夫なんですかそれは? まあ、目の異常はないんならまだいいか。俺も若い頃は頭痛持ちでしたが、確かに片側が痛むことが多かったかな。克己様に手ぇ当ててもらうと結構ラクになりますよ」
「当てていただいたことはあるのだが、あまり変わらなかった。もともと大したことはないから、大丈夫」

 ピースサインをしてくる。特に笑顔というわけでもないから奇妙に見えるが、この屋敷では真顔でピースをするのが流行っているのだ。シングルピースは提案や感謝を、ダブルピースは了承や同意を示す。アグリーですと言うかわりに両手でピース。

 サングラスを外して、沙羅は「そうだ」と軽く言った。

「来年の夏に結婚するのだが」
「ん?」
「お前には兄ということで式に出てもらいたいのだが、大丈夫かな」
「説明してぇ?」
「え? だから、来年の夏に結婚するから、式に出てくれるか」
「反復しただけだ。説明をしてくれっつってんだ。なんですか? ジジイから遺産もらうため?」
「そうだ。その通りだ」

 沙羅の愛人には年寄りが多い。そしておそらく全員が金持ちだ。だからそう突飛というわけでもない話なのだが。

「結婚って、ダメってことになってませんでしたっけ?」
「だから長老に談判して、改定を求めた。形骸化している部分については徐々に見直されている。お前もたまには会議に出たらどうだ」
「議席を持ってねえんですよ、親父が幹部会に嫌われてるから。へえ、結婚。それはおめでとうございます」

 めでかいかどうかはわからぬが、こう言うべきであろう。
 新婦となる妹弟子は、どうもと言って頭を下げた。

「多少は招待客がいないと格好がつかないので、出てもらえると助かる。失礼でなければ礼も出すから」
「礼は別に要らねえけど、ピアス外して髪染めねえとダメでしょう。なんか、そういうのの招待客を派遣してくれる会社とかあるらしいですよ」
「せっかくドレスを着るので、お前やお師さまにも見せたいと思ったのだが」
「じゃあ行きますよ。親父にも黒髪のヅラで出席させましょうか?」
「とても助かる。ありがとう」

 この笑顔でそんなことを言われたら、断れるはずもない。

 それにしても、ドレスというのはやや意外である。角隠しという、鬼用としか思えぬ名のあれを被るのかと思っていた。

「遺産のためっつっても、式までやるのってかなり大変じゃないですか?」
「係累によく顔を知らせておいたほうがいいらしいから。それに、私もわりと楽しみにしている。えへへ」

 別にそのジジイを愛しているというわけではなさそうだが、白いドレスを来て花束を投げることなどに憧れているのかもしれない。そういえば少女趣味のある女なのだ。

 まあ、それならば八方丸いというものだ。どんなジジイかは知らないが、この女を花嫁として見せびらかせるのならば嬉しかろう。

「形だけなんですよね? 一緒に暮らしたりはしないんでしょう」
「うん、それはもちろんそうだ。私は家事などできないし」
「問題ってそこですか? 結婚したら女が家事をやるっていうの、かなり古い価値観のような気がしますが」
「いや、そういうものだと思っているわけではないのだが。私は仕事もしていないし、それで家事もしなければ、男の家にいるのは、その、気まずいというか」
「それはまあわかる。俺も女の家に泊まりたくねえし。寄生虫の気分になるから」
「そう、恥ずかしくて」

 頬を手で押さえながらそんなことを言う妹弟子が、急に可愛らしく見えてきた。思えば、突然お前とはもう寝ないと宣言され、そのあとに結婚式に出てくれと頼まれているのだ。完璧な負けムーブではないか。

「俺も結婚しよっかなあ」
「ほう、めぼしいババアがいるのか」
「いねえー。俺の女って、貯金もねえ気がする」

 しょうもない対抗をしてみただけである。
 仮にめぼしいババアがいたところで、結婚にこぎつける自信もなかった。無職で、刺青を入れている、就学したこともない男である。このところ夜も弱い。家事だけは多少できるが、料理はまったくだ。自分でもこの男とは結婚したくない。

「俺ってろくでなしなのかなあ」
「なぜ急に自虐を? お前は、その、うーんと」
「いっさいフォローを思いつかないんですね」
「心が……わりと優しい……」
「それしか思いつかねえのに、わりとなのかよ」

 しかし実際そうだ。俺は心がとても優しいなどど思ったことは一度もない。わりと優しいかどうかさえもあやしいものだ。

「俺は無・取り柄の男なんですね」
「顔が…………わりと整っている……」
「とてもと言ってもらえるところが何ひとつねえんだ」

 妹弟子は、うーんと言って腕を組んだ。本格的に何ひとつないらしい。

「いいですよ、言ってみただけです。気ぃ使わないでください」
「いや、うーん。女にわりと優しいというのは、かなり大事な長所だと私は思う。とても優しい男というのは、少し気持ちが悪いのだ。お前はそこが、うまい塩梅だと思う。本当に」
「ほう」
「遊び相手の男としては満点に近いのではないかな」
「本気の相手としてはけして選ばれねえんだ」

 生まれてこの方、そんなことを不名誉だと感じたことはないが、結婚する女に言われるとダメージを受けるものである。それも、遊び相手だった女だ。選ばれなかったということが強調される。

 ジジイを選んだというわけではないことも、自分がこの女に惚れているわけではないことも、すべてわかっているのだが、おもしろくねえものだ。

 それは遊び相手というよりも、妹が嫁いでゆく感情に近いということを、東雲は知らない。



 凍らせた保冷剤をタオルにくるみ、部屋まで持って行くと、皇ギは不思議そうな顔をした。化粧を落としていることもあり、一瞬、違う女かと思ったほどだ。それほどに幼い表情だった。

「何? これは」
「頭痛がおありだと聞きましたので、冷やしてはいかがかと。冷やして酷くなるようでしたら、その時は申し付けていただければ蒸しタオルをお持ちいたします」
「そうじゃなくて」

 言いかけて、皇ギは眉間を押さえた。その指先がよく手入れされていることに気が付く。普段は手袋を嵌めているのに、正確な楕円に研がれた爪をしていた。

「大丈夫ですか? 先生をお呼びいたしましょうか」
「どうせこの時間は飲んでて役に立たないわよ。なんなの――斎観が言ったの?」
「ええ」

 保冷剤を受け取って、皇ギは髪をかき上げた。
 さほど化粧が濃い女だと思ったことはないが、どうやらそうであったらしい。目の下に隈の目立つ、青白い顔だ。目鼻立ちが華やかな分、その顔色の悪さが目立つ。

「ありがとう」

 素直に礼を言う女だということも、これまで知らなかった。

「そういえば、聞いてるわ。あたしに話があるんでしょう。入って」
「いいえ、お身体のよろしい時に参ります」
「いいのよ。いつものことだから。どうぞ」

 その声が存外優しいように聞こえて、すぐに引き返そうと思っていた白威は迷った。

 保冷剤は、特に頼まれたわけではない。新月の晩は頭痛があるらしいと、いつだか聞いたことがあるだけだ。

 皇ギは小さく息を吐いた。

「そうね、夜に女の部屋なんかに入ったら、あんたの主は文句を言うんでしょう。ちょっと裏庭にでも出ましょうか」
「いいえ、どうぞお休みください」
「外の空気を吸ったほうが楽になるのよ」

 素顔に薄手のナイトガウンで、皇ギは廊下に出てきた。
 すぐそばの縁側から、誰のものとも知れない突っかけを履いて、さっさと庭に下りている。それらのいくつかのしぐさだけで、この女の魔力というものがわかった気がした。
 同じように、そこにあったサンダルを履いて、これまであまり話したこともない女と庭を歩く。

「――頭痛は大丈夫なのですか」
「たいして痛いわけじゃないのよ。目の奥が疼くだけ。電話を持ってる?」
「はい、持っておりますが」
「ライトを点けないと暗いんじゃないの。あたしは大丈夫だけど、あんたは目が悪いんでしょう」

 これは、仕方がない。白威はそんな言葉を思い浮かべた。この短時間で、これだけの数の気遣いを見舞われ、自分でさえこの女に好感を抱きかけている。

 スマートフォンのライトを点けて女の足元を照らすと、「ありがとう」と言って、庭をゆっくりと歩いた。

 少し草藪を分けるように入ると、ちょうど腰掛けられるような切り株がいくつかあった。そのうちのひとつに女は座る。このような都合のいいものがあることに驚いている白威を、少し笑って見上げてきた。

「あたしが木を切って作った椅子なのよ。切ったのは父だけどね。――あんたも潔癖症なんだったかしら。こういうところには座れない?」
「いいえ、失礼します」

 女からなるべく離れた切り株に腰かける。木の地肌を汚いとは思わなかった。

 保冷剤を右目に当てた女は、左目で白威を見た。それは思ったよりもずっと素朴な、穏やかな視線だった。

「斎観が迷惑を掛けているかしら」
「いいえ、こちらが迷惑を掛けております」
「失せものは探せないわ。投資の相談も受けない。血液型占いは、あたしたちは全員B型だから意味がないわよ」
「全員が?」
「知らない? ニシローランドゴリラと一緒」

 そのゴリラを知らない。戸惑う白威に女は目を細めた。

「あんた、とても線が細いのね。神無のところで平気なの? 愛しているから、どんな苦痛にも耐えられる?」
「愛するのをやめるということは、どうしてもできませんので」
「縫われているのね。心のありようが」

 不思議な語感のことを言う。束縛よりも柔らかい響きだが、呪いよりも固着性を感じる。しかし、それほど暗い印象もなかった。

「その、料金のことを存じ上げないのですが……」
「内容によるけど、今日は無料で構わないわ。回りくどい言い方をされると中りにくくなるから、率直にどうぞ」
「師は長く生きられますでしょうか」
「寿命のポテンシャルということなら、あと二十年は生きるわ。ただし事故や病気をしないと保証するものではない」

 想像していたよりもずっと具体的で、断定調の、頼もしい占いであった。
 出まかせであっても顧客に安心を与える、立派な占い師のような気がした。あす師が死んだとしても、外れたということにはならない言い方をしてもいる。

「次の長老、あんたの師は飛ばされるから刹那だけど、あれを雨の降る日に死ぬと言う者があったわ。でもそれはインチキだと思ってる。晴れの日なら、銃に撃たれても死なないというの? 確実に雨の日に死ぬというのなら、それは犯行予告よ。雨の日に撃つんでしょう」
「――占いに派閥が?」
「まあね。同じ占術でも、読み方によって結果は変わるから。あんたの師は、占いは?」
「星読みを少し。私は、血液型占いくらいのものだと思っておりますが」
「つまり、忠臣が馬鹿にするくらいの精度なのね。星というのは、年月日のこと? それとも空に光るあれ?」
「確か、両方だと」
「手を見せて」

 手相ということだと思い、右の手のひらを差し出したが、「爪を上に」と指示された。

「男にしては綺麗な手だわ。男じゃないんだったかしら」
「この身体は男です。内側は、どうでしょう。男のほうが好きですが、師は女ですし、自分でもよくわかりません」
「あたしは性自認みたいな言葉が嫌いなのよ。占いと一緒で、後付けだから。化粧をするのもスカートを履くのも、後天的に勝手に決めたことだわ。それをしたいからすなわち女ということにはならないでしょう。男が好きならば女というのも、世界観が単調すぎる」

 アグリーである。両手でピースサインを作ろうかと思ったが、右手を差し出しているからできない。

「下ろしていいわ。――あたしは男物の服のほうが体格に合うし、似合うけど、自分が男だとはまったく思わない。男に抱かれている時は女だと思う。でも、それ以外の時は、自分の心の性器がどんな形をしているかなんて考えないわ」
「せ……性器というより、社会通念上のことが語られるものだと思うのですが」
「だから、後付けでしょう。社会なんて、ヒトが勝手に作ったものなんだから。それを性器の形に回帰させるのは野蛮だわ。肌の色や血液型で分けるのと同じでしょう。振り分けから解放されることを望むならともかく、別の血液型になりたいというのは、A奴隷からB奴隷への転向じゃない。理解しかねるわね」

 八割がた、やはりアグリーである。
 しかし白威は二割について、少し話してみたいと思った。

「B奴隷に――女になりたいと望むのは、それほどおかしなことでしょうか」
「不思議なことを言っていると感じるわね」
「奴隷は必ず解放を望んでいるというのも、かなり後天的に作られた考え方ではないでしょうか。少なくとも、奴隷制度よりも後です」
「個が望むのは自由よ。好きな色の服を着るように、好きな振る舞いをしたらいいじゃない。でも奴隷であることを宣言したら、体制――AかBかの鋳型に沿わなければいけないわけでしょう。今の鋳型で苦しんでいる者が、転向を望むんじゃないの? 別の鋳型を望むというのは、迷走に見えるわ」
「つまり、無性別であると宣言することが、解放されていて自然だということでしょうか」
「それは三つ目の鋳型というだけじゃないの? 宣言する必要というのがあるのかしら」

 いずれかを宣言しなければならない機会というものが、人里には多いということを、この女はあまり知らないのかもしれない。鋳型には入らなければならないのだ。だから、より違和感の少ないものを選ぶという、それが現在の性自認というものだと白威は思っている。

「鋳型に入っていた方が楽だと考える者も多いのではありませんか。楽というのも違う言い方かもしれません。鋳型に入っていないと、挙動がひとつひとつ社会に摩擦されて、消耗することもあるのではありませんか」
「そうね。――別に自説を披露したかったわけじゃないの。あんたが自分のことを、男だと思っていても、女だと思っていても、マニキュアを塗ったらどうかと言いたかったのよ」
「マニキュアとは、手の爪にでしょうか」

 占いのおまけとして、ラッキーアイテムを教えてくれているのかも知れない。しかしマニキュアとは。女の姿の時にたまに使う、艶出しのものをひとつ持っているが。

 男の時には使わないというのは、鋳型に沿った習慣だ。さほど深く考えたことはない。

 占い師は、これまで白威が抱いていたイメージよりはずっと柔らかい、親切な声で言った。

「手でも足でも、あんたの好きでいいの。ベージュのカラーを、女に買ってもらいなさい」
「そこで鋳型が?」
「そうね、重要よ。鋳型というよりも方向性かしらね。あんたに下心を持たない者に、似合うものを見立ててもらいなさい。そうすると、あんたは少し幸せになるはずだから」

 やや難易度の高いアドバイスのような気がする。下心の時点で師が外れ、兄弟子も微妙だ。愛人も駄目だということになる。そのどれでもない者に、マニキュアを買ってもらうということができるのだろうか。金を渡して、ベージュのものを買ってきてほしいと頼むのだろうか?

 考え込んだ白威に、兄弟子の実姉は、ふっと笑った。

「回りくどく言うと結果が追い付かないのよね。蘭香に買ってもらいなさい」

 いかにも占いめいた、点から点を飛躍する、妙に具体的だが唐突な指令である。
 実施することはないだろうと白威は思った。無料でアドバイスを授けてくれたという、その好意だけを受け取ろうと思っている。



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