蜂の残した針 1話
和泉の髪は、日にあたると蜂蜜色に輝く。
そのことを憎む者は、どうしても存在する。遺伝の法則を無視するほど、己が一族の血が弱いということを、ひと目で示すからだ。
金色の髪も青い瞳も、現実に即さぬほど美しい。顔立ちにあどけなさを残しているから、化粧で補っているという、そのことをまた憎む女は、まあいるであろう。
自分の孫娘もそうであるのよなあと考えながら、長い金の髪を編んでいる女の、きらめくようなその姿を眺める。背景が古い日本家屋丸出しであることを無視して、完全に中世のヨーロッパの絵画になっていた。色素の因子と同じで、周りを押し退ける力が強いのだ。なぜか時代も遡っている。
白いワンピースには、小粒の飴玉のような、淡いブルーとパープルの飾りが縫い付けられている。和泉はいつもこうした、少し変わった服を着ていて、金が掛かっているのかどうかがかえってわからない。新聞紙を切って作った服を着ても、この女ならば美しいに決まっているからだ。
「どこに売ってんだ、その服」
腰までの細い三つ編みを作り、それを紐のようにして、残りの髪を巻き上げて? 首の後ろにまとめている。こうして見ても、構造がよくわからない。
その凝った団子頭を作り終えてから、鏡台の前に座っている和泉は、刹那を振り向いて答えた。
「伊勢丹で買ったと思います」
「伊勢丹って、どの駅にあるかによってテナントの格が全然違うんだよな」
「一番近い伊勢丹ですよ。似合っていないということですか?」
「お前にしか似合わんような服を売って、そのテナントは採算が取れんのかよ、ということを考えている」
和泉は鏡掛をかぶせると、きっちりとした正座のまま庭を眺めた。晴れた日は戸を開け放していて、このところ明るい光がよく入る。
山の気候は、この百年ほどで変わった。かつては暗いばかりの場所であったのに、今、和泉はまぶしそうに額に手をかざしている。
「まったく日に焼けんな、お前は」
「そうでもありません。そばかすがあります」
「そんなかわいらしいもんが? 全然気付かなかった」
「コンシーラーで隠しているので、そうかもしれません。あなたは化粧をしなくてもいい顔で、羨ましいです」
「お前が言うか? そんなプラスチックで作ったような顔して」
「どう聞いても悪口です」
「戦争が起きるほど価値のある材料から作られた、公害になるほど後世に残る、資源と技術の激アツハーフという意味なのだが」
「褒め言葉のセンスがなさすぎる……」
息をついて、和泉は立ち上がった。
「ハーフというのも、最近は推奨されない言葉だそうです」
「ダブルというやつか」
「なぜ半分か二倍なんでしょうか。等倍じゃない。私はどう呼ばれても気にしませんが、南蛮人と呼ばれた方がまだ不自然ではないとは感じます。ちょっと失礼」
「冷たい緑茶がいい」
「……ついでに淹れてきます」
「あ、便所か。すまんな」
和泉は眉を寄せると、座椅子に掛けている刹那に近付いてきて、鼻先で両手を打ち鳴らした。
「師に猫だましを?」
「白鵬が栃煌山に二度も仕掛けたことをどう思いますか?」
「舐めプなら好かんが、ファンサならよし、戦略なら文句をつける筋合いはない」
「私はファンサも舐めプに類すると思います」
「俺は相撲取りのことを格闘家とも客商売とも思っているから、どちらかに筋を立てれば立派だと思う。舐めプは両方をないがしろにしているから、おこだ」
「縛りプレイは舐めプの一種であるのに、ストイックなものとして好かれますね」
「賢……。相手を舐めることと自分を律することは、全然別ということか。あれ? 白鵬の話どこ行ったんだ」
「冷たい緑茶を淹れてきます。勝手に本棚を触らないでくださいね」
刹那の額にキスを落として、和泉は立ち去った。
可愛げのないところとあるところが混在する従者だ。前半への仕置きとして、本棚の新書のあたりに挟んである日記をまた見てやろうと、刹那は腰を上げた。
母屋に手洗いは四箇所ある。
刹那の部屋から一番近い、重鎮位の者しか使わないということになっている、その戸の前に、和装の男が立っていた。
条件を満たさぬ男である。だからかえって、和泉は事情を察した。話しかける。
「先生ですか?」
「ええ」
この男の、会話をする気のなさといったら見事なもので、こちらが何か言わなければもう黙るつもりだ。
「冷たい水でもお持ちしましょうか」
「どうも」
以上である。
和泉もそれほど雑談をしたいほうというわけではないが、この愛想のなさたるや、幹部会の議題に上がることがある。あいつをどうにかせよと、年寄りたちが文句を言っているのだ。
もっとも、この男も充分に年寄りだ。つまり無礼な若者ではなく、気難しい年寄りであり、いまさら変えることは無理だと和泉は思うのだが。
それでも一応、幹部会に身を置く者として、注意をすることにした。
「才祇さん、私に対しては構いませんが、もっと上の者には挨拶くらいしていただけませんか」
「ええ」
適当な返事をしてやり過ごすつもりである。俳優のような美男子であるから、そこに驕慢さが感じ取れる。素朴な顔立ちの者であれば、同じ態度でも、これほど周りの気に障りはしないだろう。
「才祇さん」
「はい」
「……酒を飲んで吐いては、まず食道、次に歯が傷みます。胃や肝臓にももちろん負担が。釈迦に説法でしょうが、気を付けるようにとお伝えください」
「俺だって止めてる」
淡白な表情のまま、男はつぶやいた。
「止めようがない」
「確実な方法がひとつだけあります」
ようやく、才祇は和泉をまっすぐに見た。父親によく似ている。だからこそ、父は息子よりはるかに柔和だということがよくわかる。
「どうすれば?」
「男に強く抱かれている時は、酒を飲まずにいられるとおっしゃっていました。幸い、それほど相手を選ばない方です。あなたのお父様にご相談されてみてはどうでしょう」
父によく似た顔を歪めた。
「相手を選ばない、のくだりは必要だったのか」
この男にしてはかなりの長文だ。わかりやすく怒っている。
怒らせるつもりで言ったわけではない和泉は、軽く頭を下げた。
「言外に、あなたでもいいと伝えたつもりでした。あなたはお父様によく似ていらっしゃるので」
「もう聞かない」
「大事なことかと思いますが。歯は代謝の促進では治すことができません。今は、対症療法で軽くして差し上げるしかないと。私でも構わないのですが、やはり男性のほうがいいようですので」
才祇はゆっくりとしたため息を吐いて、顔をそむけた。拒絶の体勢である。
「適宜、斡旋しましょうか。屋敷の中の男に話をつけて。――考えてみてください。大事なことだと思いますよ」
「色情狂だと?」
「運動やリハビリの一環と考えてください。あるいは薬だと。暗いことでも、卑しいことでもありません。スポーツと同じで、心身によい効果が現れます。必要なことなのではありませんか」
無視しようとしている男に、和泉はもう一声、訴えた。
「身体を交えることでしか救われない思いというものもあります。そのことを蔑視しないで差し上げてください。性欲が強く生まれついたというのは、悪いことですか? それを制御していらした方です。同意でない男を襲ったりはしない。立派な方です」
「わかってる。あんたに言われなくても」
「失礼しました」
別の手洗いに行ってから、冷たい茶と水を用意しよう。和泉はこれ以上の会話を諦め、きびすを返した。
昨夜仕込んでおいた水出しの緑茶を、グラスに注ぐ。
果物の香料を使っている茶葉で、砂糖も溶かして甘くしている。「もはや何の茶なんだよ」と兄弟子は文句を言うが、白威も師もこれを好んで飲む。
ピッチャーを冷蔵庫に戻そうとしたところで、ばたばたと台所に入ってきた女が「ナイス!」と指差しで褒めてきた。
「冷たい緑茶、すばらしい」
「なんなんだ」
白威の父は片手で息子を拝むしぐさをした。
「一杯分けてくれ」
「いいが、いちごの香りで砂糖が入ってる」
「その飲み物は緑茶とは言わない気がするな」
兄弟子と同じことを言ったが、父は「まあいいか」と棚からグラスを出した。万事、適当な女なのだ。髪型や服装もそうであるから、女なのかどうかもわからなくなっている。
冷凍庫から氷を出して、そのグラスに入れ、茶を注いでやる。
「サンキュー。あとできれば、茶菓子的なもんも」
また冷凍庫を開け、チョコレートの小箱を取り出す。高価なものではないが味は凝っている。小皿に数粒取り分けて、その皿を手渡してやった。
「何から何まですまんな」
「すぐに結露するから、刹那様にお出しするなら、直前にティッシュで拭いたほうがいい」
「珪藻土のコースターあったろ」
「グラスだけじゃなく、チョコレートも結露する」
「そうなの? チョコをティッシュで拭いたことない」
「別にしなくてもいいが」
水滴のついたチョコレートを出されて、父の師というものは文句を言わないのだろうか。
適当な父は棚から盆と珪藻土のコースターを出して、小皿とグラスを載せた。
「甘い緑茶って、どういうことなんだ」
「紅茶に砂糖を入れるのと変わらない。紅茶も緑茶も同じ葉っぱだ」
「葉っぱで括るの広すぎないか?」
「同じ種類の葉っぱだから括ったんだ。枝豆と大豆の関係だ」
父とて茶樹のことを知らぬわけではないだろうが、興味のないことは端から忘れるタイプだ。そもそも今も聞いていない。棚からどら焼きを取り出して食っている。
「……それを出せばよかったんじゃないか」
「あんこがあんまりお好きじゃないんだよ」
「まあ、そういう顔だな」
父の師は、なぜか東欧の雰囲気のある美少年だ。バキバキの日本人なのだが。
あの師と、あの姉弟子を持つのに、なぜ毛玉のついたトレーナーを着ていて平気なのか。白威は父の、どら焼きを食う横顔を見ながら考えている。
醜い女ではない。この服装でも見られるのだから、むしろ素材は優れている部類なのだろう。
薄汚れているとさえ言える服に、寝癖の残る短い髪。もちろん化粧もしておらず、手についた水滴をジーンズで拭っている。シンクに置いた盆の上で、結露したグラスから垂れる水滴が、コースターに染みを作っていた。
「清潔感がない」
白威が苦言を呈すると、父はさわやかに笑った。
「私は顔の良さで許されてるから」
「その顔にあんこがついてるんだ」
「そう?」
なんと袖で拭っている。やんちゃな男児だ。この世でもっとも清潔感に欠ける種族。
「信じられない……」
「あんたはごちゃごちゃうるせーな。誰に似たんだ? 神無様?」
「無口だ。潔癖症は、兄弟子の影響だ。というより、潔癖症というのは互いに呪いを掛けあう術式なんだな。自分は平気なものでも、相手が嫌がると、自分も嫌になってくる」
白威は漬物をよく作っていたが、兄弟子が嫌がるので、そう言われてみれば衛生的ではないかもしれない、という気になってきてしまい、このところ無沙汰だ。
父はさっそくどうでもよくなったらしく、盆を持って出て行こうとしている。
その背中を引き留めたい理由もなく、白威は黙って見送った。
いつの間にか、眠っていた。
頭から足まで覆うように毛布を掛けられていて、それが暑くて目が覚めた。六月の、まだ冷房を入れていない部屋だ。毛布を退けて、色舞は身体を起こした。
妹がいない。
色舞は胸に汗をかく性質で、そこがじわっと湿ったのがわかった。勝手に離れを抜け出す娘ではない。連れ出されたのではないか。
――誰に!?
慌てて部屋を出ると、妹は廊下にいた。突き当たりの壁に背をつけて、怯えるように肩を丸めている。その姿を見て、心臓から冷たい血が全身に巡るのを感じた。
「どうしたの?」
そっと声をかけながら近付こうとすると、妹は、朝露は、「だめ!」と色舞に向かって叫んだ。その目が赤くなっている。泣いていたようだ。
「朝露!」
「だめ!」
来るなという意味なのだろうが、そんなことをできるわけはない。小説や映画ならば、無垢なる者の警告は聞かなければならない。反した者からモンスターに襲われて死ぬ。だが、泣いている妹に駆け寄らない姉など存在すまい。
抱き寄せると、ぎゅっと抱き返してきた。
「どうしたの? 大丈夫?」
「むしが……」
耳元で羽音が聞こえて、色舞は妹を抱く腕に力を込めた。
虻か蜂か、大きな虫が飛んでいる。これは、色舞でも怖い。遠ざかるのか近寄るのかわからない、癖のある軌道で移動しながら、虫は警告のような羽音を響かせている。
虻も確か刺すことのある虫であるし、蜂ならば毒さえ持っているかもしれない。
廊下の窓は開いていた。妹が開けたのだろう。きっとそのために部屋を出たのだ。
最悪、毒蜂だとして、正しい対処を色舞は知らない。生物全般への常識として、刺激してはいけないということだけはわかる。だから妹を抱いたままじっとしていた。
うぅん、と色舞の耳元で羽音をうならせて、虫は窓から外へと出ていった。
ほっとして、妹をそっと離す。
「大丈夫。いなくなったわ」
「ごめんなさい……」
朝露は下を向いていた。
「なにが? お話してちょうだい」
「あさができなくて……」
「なにを?」
出来事や感情をうまく言葉にすることのできない娘だ。懸命に回路を繋げようとしている、そのことはよく伝わる。だから色舞は待った。
「むしがいて……」
「ええ、もういなくなったわ」
「おへやから、あさは、でてほしくて」
「虫を出すために、廊下の窓を開けたのね?」
朝露はうなずいた。
色舞はそこで思い至った。毛布を掛けられていたのは、妹のままごとめいた思いやりであろうとは思っていたが、もしや、あの恐ろしい羽音を立てる虫から守ってくれたのか。だから全身を覆われていたのだろうか。
「あねさまを助けようとしてくれたの?」
うなずいた。その目には涙がいっぱいにたまっている。
「でも、まどからでてくれなくて……こわくて」
もう虫は去った今、兄ならばなぜ末妹が泣くのかわからず、戸惑うだろう。
父と色舞にはわかる。
姉を守ろうとした自分の勇気が果たせず、朝露は悲しいのだ。おそらく恥じてもいる。
その幼い感情の動きを思うと、色舞は胸がいっぱいになる。
「ありがとう。ああ、こんなに汗をかいて。お風呂に入りましょう。泡の入浴剤を持ってくるから」
「あわ? ほんとう?」
離れの風呂場は、狭くて粗末だが、朝露だけが使用していいことになっている。かつて、一世紀も前だが、その頃に和泉が使っていた場所だ。のちに父が素人施工をして、小さなバスタブを運んで湯沸かし器をつけた。
朝露は白くてふわふわとしたものが好きだ。レースやリボンのついた服が好きで、たまに贅沢をして泡風呂を作るととても喜んだ。
自分を守ってくれた妹に、いくらでも贅沢をしてやろうと、色舞は「ほんとうよ」と答えて笑いかけた。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。