蜂の残した針 28話
色舞は朝から、廊下を掃除し、金の出入りに関する書類を作り、妹を入浴させて、今は縫い物をしている。
すべての行いに、賃金は発生していないのだそうだ。
「大変じゃないんですか?」
「大変ですよ」
その切り返しの速度が誰かに似ている。姉だと気付いて、西帝は照れた。姉に似たところのある女を好きになってしまうなんて、俺ってわかりやすくキモい男。
「手伝ってくださってもいいのですけどね」
「全部できません。廊下の掃除は、俺が来た時にはもう終わってたでしょう」
だから机仕事をするのをただ眺めて、離れから帰ってくるのをただ待ち、そして今は針仕事をただ眺めている。能無しのぼんくらだ。振られるのは時間の問題である。
「どこか行きませんか? 俺が車を出しますから、イオンとか」
「私はイオンが好きじゃないんです」
「そんな地方民がいるんだ……」
それに、経済的で効率的な場所は好きそうに見えるが。
針を使っているからであろう、色舞は顔を上げずに言った。
「どうせ屋敷の者がいるでしょう。男といるところを見られるのなんて恥ずかしくて」
「そんなにいるかなあ。俺はあんまり誰かと会ったことないですけど」
「目の悪いかたってそうよね。こちらが声を掛けるまで気が付かないの」
ほほう、視力に難のある男と付き合ったことがあるらしい。まあ日本人の七割が目を悪くしているとも言うし、そう特別なことでもないのだろうが。
この屋敷には、眼鏡をかけている者は西帝を含めて三名しかいないはずだ。マサイ族に近いというよりは、視力の検査をしないから、必要性に気が付かないだけだと西帝は思っている。師は文字を読む時の眉間の皴がエグい。
西帝は女の過去を気にしない。そうでなければ、兄の女など取りはしないというものだ。お前といるところを見られたくないと言われたことも気にせず、西帝は新しく提案した。
「じゃあ、オートバックスでカーワックスでも見ましょうか」
「あなた、女にモテないでしょう」
「これでも絶対に必要なものを考えたんですよ。色舞さんはチャラチャラしたものより、合理的なものが好きかと思って」
「チャラチャラしたいですよ。本当はブランド物の服を着たいし、髪も明るく染めたいし、夜景の見えるレストランでフランス料理を食べたいと思っています」
「あっ、買い物に行って美容院に行ってレストラン行きますか? 金ならありますよ」
「貯金をしないからでしょう。それは金があると言わないのよ」
女に面倒くさそうに叱られるというのは良いものだ。西帝はじんわりと感動を覚えている。金も払っていないのに、こんなに性癖に刺さることをしてもらってよいのだろうか。夜景の見えるレストランを食べログで探すべきだろうか?
「俺もいい服なんか持ってないから、同じブランドで買いませんか」
「話を聞いているんですか? 貯金してください」
「そんなこと言いましたっけ?」
「わかっていないふりなのはわかっていますけど、十まで説明しないと三くらいしかわからないのが続くなら、別れますよ」
座布団を枕にして寝転がっていた西帝は、足をバタバタさせた。喜びの舞である。まったく、こんなに叱ってもらっちゃって、俺は果報者だ。
色舞は顔を上げて、眉で呆れを表現した。
「あなたは明るいマゾヒストなのね。暗いそれよりはいいですけど」
「すみません、キモくて」
「あした銀行に行く用がありますから、どこかに行きましょうか」
「あーっ……」
明日は西帝が休みではないのだ。一で十を察したらしく、色舞は縫い物に戻った。
「では、来週にでも。西帝さんは水曜日がお休みなんですか?」
「日曜か月曜に弥風様から“今週は何曜が休み”って通達されるシステムです。週に一日か二日」
「ややブラックですね。でも、夜八時には解放されるのですから、他よりは白いかしら。私はやることは多くても、勤めているわけではありませんから、多少は合わせますよ」
「やった。オートバックスですか?」
「カーワックスがすぐ必要なら行っても構いませんけど、さっとホテルに寄って帰りませんか?」
「そんなあ」
さっそくいいのかという高揚と、身も蓋もないという肩透かしと、この部屋ではいけないのだろうかという素朴な疑問がトリオを奏でた。高揚担当の楽器はラッパで、パプーと鳴っている。
色舞は繕い物の生地を裏返し、裾のあたりを縫っている。典雅か、才祇のものと思われる茶色の羽織りものだ。補強しているのだろうか? 西帝には縫い物のことはよくわからない。
「俺はそういうことが目的じゃないですよ」
「私はそういうことも目的ですよ」
「ほほう……」
また姉の言うことが的中している。なるほど、こういう澄ました女に限って性欲が。
男がそれを求めるのは普通で、女が求めると、強いという判定になる。その不当さに西帝は気が付いていない。
つと色舞は手を止めた。珍しいヤギを見るような顔をしている。
「あなたまさか、童貞ではないでしょうね」
「やり手ではないです」
「いえ、手管が優れているかどうかを聞いているのではないんです。今の若いかたには、いるのでしょう、そういうことをしたくないというタイプが」
「したくないわけではないです!」
「そう。よかった」
縫い物に戻っている。どうやら、性欲のない男には用がないようだ。
男をメンテナンスの道具だと思っているタイプなのかもしれない。都合のいい男として扱われることに憧れている西帝は、ぼーっとした。こんなに理想通りの女がいていいのかしら。
色舞はすらりと痩せ型の、さっぱりとまとまった女だ。いわゆる美人とは違うのだろうが、父親譲りのバランスの取れた顔立ちをしており、声がよい。喋り方や仕草にはすがすがしい色気がある。
西帝の姉は金属性の女だが、色舞は風であろう。春風というよりは秋の穏やかなそれで、そばにいると癒される。
「俺はどうせ記憶にも残らないようなことに金を使っちゃうので、服を買いに行きませんか、ほんとに」
「嫌よ、付き合いだした途端に高い服を着るなんて。浮かれているみたいじゃない」
「じゃあバッグとか」
「簡単に言いますけどね、プラダのバッグなんていくらすると思っているんですか」
プラダを想定していたのか。西帝はスマートフォンで値段を検索した。
「買えますよ」
「貯金をしてくださいと言っているんです。いま無計画にバッグを買ってくれる男よりも、いざという時のために備えを作る男のほうが、私は好きなのよ」
「そう言われちゃ備えるしかないですね」
しかし浪費が癖になっている西帝は、買っといてサプライズで渡そうと思っている。頭では、それで色舞に好かれるわけがないとわかっているのだ。なのに思いついたことをせずにはいられない、衝動的なところがある。
そう遠くない未来、振られる。確実に。しかし今は、部屋でごろごろすることを許されている。
幸せとはこういうもんだろうと西帝は思う。永遠ではない。刹那か、もう少しは長い時間、口の中を甘くしてくれる飴だ。
なくなるまでは、味わっていよう。西帝は天井を見上げながらにこにことした。
にわか雨が降ってきた。中庭に干していたシーツを回収した和泉は、それを自分の部屋に置いて、師の部屋へと急いだ。
雨を恐れる師は、白鷺にあやされていた。膝枕をしてもらいながらパピコを吸っている。
「ご機嫌ですね……」
刹那はゆっくりと起き上がると、授乳のメタファーを感じさせる氷菓子を咥えたまま「別に」と言った。
「暇だからボーッとしていただけだ。お前の膝にも寝てやろうか?」
「結構です。雨戸を閉めてきますので」
「あ、私が閉めてきますよ」
そう言って白鷺が立ち上がる。和泉は慌てた。別に不快を感じたわけではないのだ。
「あの」
白鷺は行動が素早いので、すでに部屋を出て襖を閉めていた。
腹に何かを抱えているタイプの女ではない。面倒を避けるために、多少の損を引き受ける節がある。付き合いやすい部類の妹弟子だと思うのだが。
「気を遣わせてしまいましたね」
「そんな細やかな心の持ち主じゃないだろ。足でも痺れてたんだろう」
吸い終えたパピコのゴミを和泉に手渡してきた。こうした行いに怒るのは白鷺のほうだ。従者といえどもゴミ箱ではない。
しかし和泉は気にせず、部屋の隅のゴミ箱へ放った。
「白鷺さんはあなたが思うほど大雑把ではありませんよ。今年の誕生日には何を買うんですか」
「キラキラしたせっけん?」
「ランドセル背負ってる女児じゃないんですから」
「ムッ、俺をナメているだろ。ちゃんと“女 誕生日 プレゼント”で検索したのだ。なんかこう、宝石っぽいせっけんがウケるらしい」
「ああ……。でも、それは洗面台か風呂にせっけんを置いておける女向けのプレゼントでしょう」
ここの風呂場は共用である。私物を置いていると撤去される。容器入りのボディソープならばともかく、せっけんは持ち運びに向くまい。今は専用のケースなどがあるのかもしれないが、白鷺がそうしたちまちましたことをするタイプかというと、違うと思う。
刹那はなるほどという顔をした。
「ほんじゃあ、まあ別のもんにするか。何がいいと思う?」
「財布では? 今使っているものはボロボロで、小銭が落ちると言っていました。必要な機能を果たしていないので、新しいものが必要だと思います」
「じゃあそうするか…………なんで急に誕生日のこと聞いてきたんだ。去年は外していたということか?」
「いいえ、覚えているならいいんです。そういう節目をきちんきちんとして、日頃のことに感謝していれば、白鷺さんのポイントは貯まりませんよ」
「そうしないと貯まるのか。確かに、たまに突然満額になっているんだよな……」
棚の陰にでもいたらしい猫が、のしのしと歩いてきた。刹那に甘えて身体をすり寄せている。
「おいで」
和泉が手を差し伸べると、わーんと言いながら寄ってきた。懐っこい猫なのである。抱き上げるとゴロゴロと喉を鳴らした。
「ヤツデもあなたを心配しているんですよ」
「なんでだ。今日は元気だぞ」
「そうですか? 雨が──」
師は顔を曇らせた。
「降ってんのかよ」
「すみません、気付いていなかったんですね」
「白鷺がやけに優しいなと思っていたのだ。あー、だから雨戸を閉めに行ったのか。ヤダーッ、下がるぅ」
身をくねらせて雨を怖がっている。これまで三百年、雨が降ったからといって死んだことはないのだから、うわごとだか予言だか知らないが、こう気にすることもあるまいに。
しかし、簡単に克服できないから恐怖症なのである。和泉と白鷺は雨が降れば他の用事を断り、師に付き添うことにしている。互いに連絡を密に取るタイプではないから、人員過剰になりがちだ。
「新しいほうの占い師は、雨の予言をインチキだと言っていましたけどね」
「それは知っているが、前の占い師に取り消されたわけではないのだから、依然として怖い。というか、もう反射的に怖いのだ」
「予言というよりも、呪いですね」
雨が降るたびに刹那を怯えさせる、卑劣な呪いだ。大丈夫、あと百年生きると言って祝福を与えてやりたいが、あからさまなでっちあげでは凍える心を救うことはできない。
猫がわわーんと鳴いた。師が顔をほころばせる。
「わわーんか。心配してくれているのか? 俺のことが何番目に好きなんだ?」
「一番好きですよ」
こうアテレコしてやるのがお決まりなのだ。師は喜んで猫の腹に顔をうずめる。
「お前はいつまでもかわいいな~、もうババアだけど」
「ヤツデもあなたには言われたくないでしょう」
「杉本が最近、加齢臭しないか? さすがに言っちゃいけないと思って黙っているのだが」
「あれはお香を変えたんでしょう。これからも黙っていてさしあげてください……どこを触っているんですか」
「いけないか?」
「白鷺さんが戻ってきたら気を悪くします。それに大きな洗濯物を干して、汗もかいてしまったので──聞いているんですか」
「お前はいい服を着て綺麗な飾りとかつけてるのに、このダサいストッキングは履くのだな。太ももまでのエロいやつにしたらどうだ?」
「エロいからではなく、そのほうが便利だからそうしたいとは思いますが、男がみんなそういう目で見るでしょう」
面倒だという意味で言ったのだが、貞淑さだと捉えたらしく、師はほくほく顔になった。
「まあ雨の日は嫌だが、お前たちが優しくしてくれるから、悪いばかりでもないな。甘いものを食ったら勢いづいた。チョコとかケーキみたいなのも食いたい」
「台所で見たような気がするな……探してきます」
「ヤダーッ、一人にしないでくれ。行くなら連れてってくれ」
和泉は猫を下ろして、立ち上がり、わがままな愛しい師の両手を引っ張った。
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