蝶のように舞えない 12話
父の部屋にはいつものように、血と体液の臭いが籠もっていた。
うんざりしながら、西帝は障子を広く開けた。
空気を通して、片付け物をし、シーツを洗濯して布団を干す。普段と同じその手順を頭に描いて、畳の上の様子を足で確認した。今日はそれほど散らかってはいないようだ。
父と姉、兄の部屋の掃除は、西帝の役目ということになっている。ほとんど目の見えない西帝に、何か仕事を与えるとすれば、そのくらいしかないのだろう。
それがわかっているから、西帝も文句は言わない。しかし、この部屋の掃除はいつも気が滅入る。
くずかごの容量には余裕があった。まだ捨てなくともいいだろう。少し埃っぽいような気がするから、掃除機か雑巾をかけたほうがいいかも知れない。
面倒くさいなと考えながら、布団のシーツを引っ張る。
つんのめった。シーツに何か重たいものが載っているのだった。
「危ねえなあ!」
舌打ちしながら足で確認する。ぐにゃっとした大きな感触。
それはあきらかに肉であり、あきらかに裸の女だった。
「わあごめん! 誰もいないと思い込んでた!」
両腕をクロスさせて頭を守る。パンチかビンタかデコピンに備えたのだ。
しかし、攻撃は飛んでこなかった。罵声もだ。
「姉さん?」
しばらく返事を待つ。
そして、どうやら違うということに気が付いた。ぼんやりと見える身体の線と、抹香のような香水――香料?――は、姉のものではない。
ぞっと寒気が背筋を駆ける。死体でも蹴ってしまったのだろうか。珍しいものでもないが、なぜこんなところにあるのか。
引き続き、足で確認する。体温があった。呼吸もある。そしてたいそうグラマーであった。そういえばこの匂いにも覚えがある。
「沙羅さん? ですか?」
だとすれば足蹴にしてしまったのはまずいと、慌てて屈み込んだ。
しかし、リアクションは何もない。眠っているとしても、男の足で裸の全身をまさぐられて起きないのはおかしい。
――気絶している?
「やべっ」
緊急性の高い事態である可能性があった。悦楽の絶頂による失神だというのなら構わないが、それ以外のすべてはまずい。
父は息子を失明させるほど蹴り飛ばし、女の顔でも殴る男だ。それでもまさか沙羅のことを気絶するほど殴りつけたわけではあるまいが――。
慣れてしまってさほど気に留めなかったが、いつもより血の匂いが強い気がする。
「すみません、ちょっと触りますよ。――うわっ」
手にべったりとした体液の感触。あきらかに血液だった。布団に染みるほどではないが、太股のあたりは血まみれであるようだ。
和泉を呼ばなければならない。どこがどうなっているのかわからない以上、抱えていくわけにも行かないだろう。
急いで立ち上がろうとしたが、手首をぐっと掴まれた。
「……西帝か」
かすれた低い声だったが、やはり沙羅だ。意識を取り戻したらしい。
「だ、大丈夫ですか? 怪我してます?」
「うん――うん。痛たた、痛い」
「すみません、俺は見えないので何が何やら。先生を呼んできますから、ちょっと待っててください」
「いや! いや、やめてくれ」
大きな声で言って、西帝の腕をさらに引っ張った。
「大丈夫だから。誰も呼ばないで……」
見えない西帝にも、性的な怪我だという予想はつく。しかし様子や血の量からして、尋常の範囲ではなかろう。
沙羅が父の嬲り者にされていることは周知の事実であるが、これほど酷いとは思わなかった。
「身体も冷えてるじゃないですか。だいぶここにいたんですか?」
「少し眠っていたから……」
「何か羽織った方がいいですよ。それでええと、風呂に入ると血が出ちゃうのか。克己様は傷塞ぎができましたよね」
「お師さまにも知られたくない。これ以上は誰にも」
その声があまりにも悲痛であったから、西帝は何も言うことができなくなってしまった。
うごめく気配と、衣擦れの音。服を着ているらしい。あの血の上から着てしまって大丈夫なのだろうか。それとも、何かで拭ったのだろうか。
「いつも……」
言いにくそうに沙羅は言う。
「いつもお前が部屋の後始末を?」
「あ、まあ、そうですけど」
「それは、すまないな。あの、このことは、あ痛たたた」
「大丈夫じゃなさそうですね。痛み止め飲みますか?」
ポケットからアルミシートごと取り出して手渡した。
ありがとうと言って、沙羅は錠剤を取り出している。唾液で飲み込んだらしい。
「それ強い薬なので、部屋まで送りますよ。ここで少し休んで行ったほうがいいか。どうせ親父は明日まで帰らないので」
言ってから、これでは新入生に悪さをする悪の先輩のセリフだと思った。すべてのセンテンスに下心がある。
しかし沙羅はほっとしたように、ありがとうともう一度言った。
「お前の服にも血がついてしまったな」
「人食い鬼ですから、血くらいついてもいいですよ」
「ふふふ。お前も私と一緒で、もう食っていないのだろうに」
「障子閉めてきますね」
立ち上がろうとしたが、沙羅に服の袖を掴まれていた。
ぎゅっと引っ張られる。
「沙羅さん?」
小さく鼻を啜る音がした。
西帝はもう涙を見ることはできないが、聞くことはできる。
泣いている女のそばから離れることはできない。黙ってそこにいることにした。
「私は……いつまで……」
それは女心などに疎い西帝でさえ、もう限界だということを察せられる声だった。
機械ならば取り替え時だ。生身の女はどうしたらいいのだろうか。
父は横暴だが、何も考えていない男というわけではない。沙羅の精神状態は把握しているはずだ。
――誰かへの見せしめか?
あるいは、ヨナカーンの首なのだろうか。あのサロメは昔から、女の首を求めるのだ。特に、かつて父王の寵愛を受けた女のものを。
父と沙羅の過去を、西帝はほとんど知らない。古いことは未来視の管轄ではないのだ。
沙羅が父に惚れていたことはあるらしいが、それがどうなったのかはわからない。あるいは今も惚れているのだろうか。
恋情や――愛憎というものは複雑怪奇だ。姉が父をどう思っているのか、兄が姉をどう思っているのか、それらを言葉で表すことはできまい。愛していると言っても、憎んでいると言っても、どちらも嘘になるはずだ。
蛇のように絡まっているのだと、西帝はやや冷めた目で解釈している。自分は御免だとも思う。その湿度の高い地獄から、兄だけは助け出してやりたいとも。
兄は本来、勝手に救われるだけのポテンシャルを有していたはずだが、西帝のせいで泥沼に浸かることになってしまった。
目の見えなくなった西帝を守るために、兄は多くのことを諦めた。新しい師につくこともなく、子供を作る道も選ばずに、ずっと姉に操り糸を引かれている。
きっと沙羅も何かに糸を繋がれているのだろう。
「雨はあなたに利しません」
沙羅は顔を上げたようだった。
「飴?」
「雨です。レイン」
「それは……噂の占いか」
鼻を啜っているが、興味を持ったらしい。
「雨は私に? 利さない? というのは、雨の日は足元に注意しろということかな」
「あれっ、長老の死の予言ってどのくらい有名なんですかね。長老は雨で死ぬ、雨はあなたに利さない、つまり長老の死はあなたにとっていいことじゃない、とふんわり伝えたつもりでした」
「え?」
すうっと息を吸う音がした。あまり温かみを感じるものではない。
「長老は――雨で死ぬとは?」
「えーっ、これは周知だと思ってた。ミスったなあ」
誰も知らないことを中ててはいけない。これは予言者の鉄則だ。
犯人だと思われるからである。
「内密にしてください」
「それは……するが。犯行予告か?」
「占いです。当たるも当たらぬも八卦なので、あんまり気にしないでください」
「雨というのは、いつの雨なんだ。雨期のことか?」
「みんなそれ聞きますけど、占い師にすべてを求めすぎですよ。日時までわかったら本当に犯行予告じゃないですか」
本当は、わかることもあるのだが。
犯人だと確信されるだけだ。だから伝えることはない。西帝を無条件に信用してくれる兄や姉が特別なのだ。
沙羅は「雨……」とつぶやいた。
「雨が降るなら……サメがいてもいいのか。本当は、あの大きなサメが欲しかった。でも、私には似合わないから」
意味のわからぬことを言っている。薬が効いてきたのだろう。
「休んでください。そばにいますから」
うんと言って、沙羅は身体を丸めたようだった。
皇ギはいつも手袋を嵌めている。
それは薄手の黒い生地で、かすかに光沢がある。化繊なのだろうが、安物ではあるまい。
「血が染みていますよ」
光沢の鈍くなっている箇所がある。
皇ギは「そう」と言って、長い髪を払った。髪にも血が付着したかもしれないが、手袋と同じように発色することはない。
黒という色の使いのような女だ。血を吸って深みを増す。証拠に無頓着だが障りはない。
「やり過ぎなのでは?」
「甘過ぎるくらいでしょ。誰の手を噛もうとしたのか、叩いて教えないと」
「血縁者はなくとも、天涯孤独というわけではありませんよ。師や兄弟子を怒らせると面倒でしょう」
「あたしの父親と弟のほうが強いわよ。最後は腕力なのよ、なんでもね」
研ぎ澄まされたような雰囲気の美女であるのに、世界観は猿山の猿だ。
「毒を盛られたら腕力では防げませんよ」
「気をつけるもの」
「はあ……」
気をつけることで万難が排せるのならば苦労はないと思うが。
苦労したことがないのだろう。強い父がおり、体格と美貌に恵まれ、考えは浅いが頭は切れる。確かに、猿山では怖いものなしだ。
――それに、あの弟たち。
皇ギの忠実な手下だ。姉が損失を出せば補填し、転べば起こし、泣けば慰める。陰に日向に。三遍回ってワン。部屋を掃除して下着を洗濯する。
「――そういえば、下着をなくされていませんか? 何日か、洗濯機のところに置いてあるんですが」
「下着?」
「紺の、肩紐のところに花の形の飾りのついている……」
「あたしのだわ。狭野が落としたのかしら。誰かが盗んだんじゃないでしょうね」
「洗濯機の中にありましたから、前者だと思いますよ」
「まあ! 道理で傷むのが早いと思ったのよ。洗濯機なんかで洗ってるの」
――手洗いをしていると思っていたのか。
あんな大男が、女の下着を手洗いするはずはない。小男ならば洗うとも思えないし、女の自分でももはやそんなことはしないが、なんとなくそう思った。
「お優しい弟さんですね。いろいろ手伝ってくださって、羨ましいわ」
「優しいかどうかは知らないけど、役に立つわ」
感性が繊細とも思えないのに、的を射たことをすっと言う。
そうなのだ。いま自分が羨んだのは、優しさではなく便利さだった。優しいだけの男は女を救ってはくれない。
顔色を読んだのか、皇ギは首を傾げた。
「羨ましいなら従者を取れば? 若い男もちょっとはいるでしょ」
「そんな……従者の面倒を見られるほど経済的に余裕がないんです」
「少しなら公費から融通するわよ。あんたはよくやってくれるから、助かってるし」
硬い声で親切と承認を語られると、うっかり癒されそうになってしまう。
この女のいつもの手だ。ワンパターンなのに、なぜかよく効く。才能としか表現できない。
「あまり公費を使い込むと、今回のようなことになりますから……」
「失礼ね。ちゃんと返すわよ。来年には倍になるわ」
言っていることは幼く頼りないのに、顔と声が完成されていて涼やかなために、その言葉には説得力が宿る。
為替や株よりも、マルチ商法が天職なのではないかと思う。人心掌握で食えるだろう。
「煙草吸ってもいい?」
「私の部屋は喫煙登録していないので、すみません」
「西帝と同じこと言うわね。――それは何?」
目敏いと言うほどでもないだろう。肘を乗せている卓袱台の上にあるのだから、当然目に入っていたはずだ。
「私のものではありません。東雲さんが忘れて行かれたライターです」
「ふうん」
血に汚れた手袋で平然と持ち上げている。平凡な銀色のオイルライターだが、皇ギの手におさまるとアンティークの高級品のように輝く。
「あたしがもらってもいいと思う?」
「やめてください。そんな安易な伏線」
海外の小説をよく読むという皇ギは、そうねと言った。
「こんなに最短で密告者がバレる道を行くことはないわね」
「密告だなんて……」
「あんたはもちろん悪くないわよ。経営や数字のことなんか何もわからないくせに、ちょっと帳簿を見て文句だけ言おうっていう、沙羅や東雲が図々しいのよ。どうせあたしの足を引っ張りたいだけなんでしょう」
それは全面的にその通りだと思うから、直ちに皇ギに子細を伝えたのだ。
正しいほうに与しただけだ。密告の誹りは不服である。
そう訴えると、皇ギは目を細めて笑った。子供の言うことを面白がるような、冷やかさと温もりが同居した笑いだ。
「あんたみたいなのを真面目って言うの? あたしは正直、あんたが帳簿のことを教えてくれたときに驚いたわ。沙羅がどんな目に遭うかわかってたでしょ」
「あれほどのことをするとは思っていなかったんです」
「程度の話じゃないわよ。沙羅や東雲のために口を拭ってやるっていう優しさがないの?」
かっと顔が熱くなる。自分でも気にしているところを突かれたからだ。それもよりによって、この女に説かれるとは。
「……仲良しクラブじゃないんですから」
「もちろんそうよ。でも、放っておいたって沙羅に何ができたわけでもないじゃない。あんたの父親なんか、こういうときは黙ってるタイプでしょ」
「私は――」
あなたを庇ったのよと、その言葉を噛み殺した。
この女のことを評価しているし、支持していると示したかったのだ。だから沙羅や東雲を――そう、裏切って、利益のない密告をした。
皇ギは黒い指でライターの表面をなぞっている。仕草にいちいち色気のある女だ。
「そういえばあんたから男の話を聞いたことないわね」
「はあ」
愛人の話をするような流れになったことはなかった。それがどうしたというのだろうか。
「女が好きなの?」
「はあ?」
抜けるような声が出てしまった。
数秒遅れて、言われたことの意味を正確に理解する。
つまり、自分に惚れているのかと聞いているのだ。
「じょ、冗談でしょう」
「別に珍しいことでもないでしょ。あたしたちだって子供を作るなら女を抱かなきゃいけないんだし」
「せ、性別の問題ではなくて――私が下心で動いたと思っているのでしょう? 侮辱です」
「下心? そんなこと思っちゃいないわよ。あたしの弟たちにも下心なんかないし。愛と性欲は別物でしょ」
「あ、ああ、親愛ということですか? それも違和感のある言葉ですが」
皇ギはライターを握り込むと、数度振るようにした。
そして手を開く。
ライターが消えていた。
「えっ?」
「袖の中に滑らせただけよ」
「いえ、なぜ急に手品を?」
答えずに、皇ギは袖の中からライターを取り出した。
気が済んだのか、もともと置いてあった位置に戻している。
「狭野が浮ついてるのよ」
「何かありましたか?」
「西帝はあんたのことが好きみたい」
「好き?」
同じ語彙でも、先ほど――女が好きなのかと問われたとき――より素朴に聞こえる。甘い菓子が好き、というような響きだ。
「でも西帝はいいのよ。女で身を持ち崩すタイプじゃないし。あんただって西帝に興味なんかないでしょう」
「ええ、まあ」
「狭野は駄目なの。許せないわ」
声は静かだが、目に苛立ちがぎらついている。それは殺意と言ってもいい強さだった。
「あたしから狭野を取るんなら、あんたの父親には悪いけど、あの女は邪魔よ。要らないでしょう」
あの女というのがどの女なのか、なぜだかわかった。
「要らないとは言えないと思いますが。要不要で言うなら、いちばん必要でしょう」
「結局医者じゃないんでしょ? 薬のことがわかる者がいればいいんなら、あたしが勉強するわよ。あの女よりも詳しくなってやるわ」
方針は間違っているが、方向は正しい。奇妙な女だと思う。
そして良くも悪くも有言実行なのだ。いずれ必ず、邪魔な女を排除するだろう。
「ひとつ――ひとつ教えていただきたいんです」
締め切った障子の向こうに耳を澄ませる。周囲には誰もいない。
遠く、雷鳴が聞こえたような気がした。雨が降りそうだ。
「神無様は血と水しか口にされないことで有名でした。どのように毒を?」
「なあに、いまさら」
皇ギは退屈そうにあくびをした。
「毒なんか盛ってないわ。――もともと注射をしてたでしょ? あんたの伯母が怒るのも聞かずに」
「ああ……」
薬物に細工をしたのか。
考えてみればシンプルな手段だ。伯母もオーバードースと判断したのかもしれない。
重鎮の突然死であったから、他殺を疑った者もいたが、疑われたのは万羽の父だ。
「口に入れるものには注意されても、注射には気を払われなかったのかしら」
「狭野を信用してたんでしょ」
微笑み。嘲笑だ。
「馬鹿な女だったのよ」
黒い手袋の下には赤い手があるのだろう。
その手に絡め取られる男たちのことを思い、色舞も少し笑った。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。