蜂の残した針 7話
甘蜜はしゃれっ気のある女だ。流行をよく知っており、身なりに金をかける。そのことを沙羅は救いのように感じもするし、単純に素敵だとも思う。
フレームが紫色の眼鏡というものを、沙羅はほかで見たことがない。形も凝っていて、レンズをふち取る楕円の隅がわずかに尖っている。
前髪を上げて紅をさし、その眼鏡をかけてノートパソコンに向かう姿は、いかにも仕事のできる女だ。実際そうなのであった。沙羅には一行も読むことのできない、おそらく中東の国の文章の束を、甘蜜は日本語に翻訳する。それは本として出版されるそうだ。彼女はそれを仕事としている。蜂須蓮子という美しい名前は、ペンネームではなく、現在の戸籍上の名だそうだ。
キーボードを打つ音が響く部屋で、沙羅は蓮の花のことを考えていた。しかし思い描いたのはモネの睡蓮で、だからそれは花というよりも葉だ。蓮は、そうか、違う花だ。茎が伸びる。沙羅は茶道を習ったことがあるから、焼き物に描かれる植物のことは少しわかる。
沙羅の花は、日本ではほとんど見られない。沙羅双樹の花の色は、では何色なのかといえば、知らぬ者のほうが多いだろう。盛者必衰という言葉から、赤や青を想像する者がいようと沙羅は思う。あざやかな色が朽ちる様子のことを指すのだろうと。
甘蜜がセーターの首元に巻いている真珠のネックレスが、ちょうど沙羅の樹に咲く花の色だ。うっすらと黄味がかった白色。ただの白よりも味わいがあってよいと、沙羅は勝手に花の精のような誇りを感じている。
――白を下げるのは優雅じゃないわね。
同じ師に茶を習った右近は、そんなことを言いそうだ。彼女と沙羅は美意識を違える。沙羅は、美とは険しいいばらの道だと思っている。美しくないものを、厳しい目で払ってゆく作業であろう。沙羅は自分の顔にも、その考え方で化粧をほどこしている。
――右近は偽善者だ。
ときどき、そのように感じてしまうことがある。どんなものにも良さがあるとか、美しさはひとつではないとか、ひらけたようなことを言いながら、そのわりに化粧が一種類なのだ。目を多少大きくしてベージュの口紅を使う、最新流行からは少し遅れた薄化粧で、あの顔で美しさを語られたくないものだと沙羅は思う。醜いという意味ではない。何か――美しさ――を強く求める者の化粧ではないということだ。
その点、この女は見事なものだと、沙羅は甘蜜に敬意を払っている。
くすんだ紫と灰色という、かなりむずかしい色でまぶたにグラデーションを作り、それを眼鏡のフレームで締めている。眉の形も今年の流行で、きっちりとした細めのカーブだ。
顔に火傷の跡があろうとも、甘蜜は美しい。強い意図の現れた化粧は、女をもっとも強靭に見せる。
男も化粧をすればよいのにと、沙羅は昔から思っている。刹那など赤い口紅の映える顔だ。パールの入った頬紅などもさしてやりたい。
「ああ、疲れた」
ひと段落ついたらしい甘蜜が、そう言って腕を軽く伸ばした。そこで沙羅がいることを思い出したようで、恥ずかしそうに微笑む。
「失礼いたしました」
「いや、失礼しているのはこちらだ。茶でも淹れようか」
「まあ、うれしい。仕事の合間に沙羅さんのお茶をいただけるなんて、こんなに良いことはありませんわ」
言葉を職にしている女のわりには、甘蜜は喋ることが軽い。声がおっとりと優しいから嫌味ではないが、姿とあまり合ってはいない。
「作家先生には、コーヒーがいいかな」
「とんでもありませんわ。私は翻訳をしているだけです。そういった才能がないものですから、小説の翻訳も受けません。今回は紀行文のような手記で、でも、ちょっとおもしろいんです。禁酒令の敷かれている国に行って、宿に泊まったら、バスタブで密造酒をつくっていたのですって。警察に密告されたら困るといって、宿の持ち主から賄賂を握らされるのですけれど――」
「カロリーの高い話だな……」
その宿にも必死になる事情があるのだろう。旅人に密造を知られた宿の主人のことを、沙羅は気の毒に思った。
「――著者の泊まった数年後に、その宿の主が逮捕されたのですけれど、密造ではなく、密輸と殺人の罪によるものだったそうです。口封じなのかしら、密輸相手のほかに旅人も大勢殺されていたそうで、あのとき賄賂を受け取っていなければ、この文章を書いていなかっただろうと締められています」
「完全に犯罪組織の根城だったのか」
「そのようですわね。公正に生きようとすると、賄賂など拒否したくなるものだが、受け取るほうが円滑に済む場合もあるのだと、しみじみ語っていますわ」
「その結論でいいのか?」
「この場合は実際にそうですからね。出版社が少し表現の修正を求めてくるかもしれませんが」
「売れるのか? 紀行文というものは」
「これはなかなかおもしろいので、売れるかもしれません。売れても売れなくっても、私に入るものは変わりませんけれど」
「印税というものがあるのだろう。売れるほど儲かるのではないか?」
「いいえ、私の契約はそういうものではないんですの。もちろん印税契約の翻訳家もおりますけれど、私ははらはらしたくないものですから。決まったものを決まったようにもらうのが合っているんです」
きっぱりしたものの言いようは、いかにも契約仕事で暮らしている女のそれだ。
沙羅は、この年下の女が好きだ。性格の良し悪しはわからぬが、見ているとおもしろい。季節ごとに変わる化粧も見ごたえがあった。
「リクエストをしてもよろしいのでしたら」
甘蜜は両手の指先を合わせて、そっと拝むようにした。
「熱いほうじ茶をいただきたいですわ」
「ふふ、承知した」
隙のない女は同性への甘え方も上手い。こうしてやわらかく命令されることもまた、沙羅には愉快に感じられる。翻訳家先生にひとつ美味い茶を淹れてやろうと、気合いを入れて立ち上がった。
桃の皮をおっかなびっくりという手つきで剥いていた桐生は、その長い指で、カスタードを詰めたタルトの上に実に整然と、蘭香がカットした果実を並べてみせた。
批評を下す。
「目に見えるところは綺麗に整えますのね」
桐生は目を見開いて、それからぼんやりと宙を眺めた。傷ついた男がよく見せる表情だ。これほど美しい男が、これほどたやすく心の中をあらわすということを、蘭香は不思議に感じる。まあ、育ちがよいということだろう。挫折した経験が少ないのだ。一度もないのかもしれない。
多少サディスティックな気分で、父親によく似たその顔を眺めた。特に鼻梁の高さが、完璧と言えるほどに同じラインを描いていて、遺伝子の力の強さを感じさせる。
「わたくし、効率が好きなんですの」
「効率ですか」
「本当のことを言いますわということです。お嬢様のようにあなたを腫れ物扱いはしません。それでも構わないのなら、お菓子の作り方くらいはいつでも教えますけれど」
「お願いします」
その素直な頼み方に、蘭香は少し心をやわらげた。桃のタルトにガラスの覆いをかぶせながら問う。
「わざわざ指南を受けるようなことかしら? あなたなら独学でもできるでしょうに。レシピを見ながら、その通りにするだけですわ。勉強と変わらないでしょう」
「本の通りに、一度やってはみたのですが、指示が抽象的でいらいらしてしまって」
「塩少々のような?」
「いいえ、それは味を見ながらという意味でしょう。斜めに切る、というような表現です。どの角度から見て斜めなのか? まったくヒントがなくて参りました」
「動画をご覧になったら? YouTubeにたくさんあるでしょう」
桐生はぽかんとした顔をした。
「動画……」
「まあ、思いつかなかったのですか。応用力に欠ける新卒ですわね、典型的な」
また宙を眺めている。
「いちいちショックを受けなくってもいいのです。応用法などあとから覚えればいいのですし、新卒が何もできないのは当たり前のことです。だから研修をするのですから。まあ、独学が苦手なのはわかりました」
「お手数をおかけして申し訳ありません。蘭香さんもお忙しいのに」
「ヒマだからお菓子など焼いているのですわ。別にあなたがいたって邪魔というわけではありませんし、まあ大きいので少しは邪魔ですけれど、洗い物をしてくださる分で相殺です。お父様にもお世話になっておりますし」
子供の頃の桐生は、父親の愛人に向ける、まさにその軽蔑をもって蘭香を睨んだものであるが、今ではしおらしく佇んでいる。
分別を覚え、父親から独立し、女を知り、つまり幼さから脱却しつつあるのだろう。いつまでも未熟な頃の姿を透かし見られるというのは、屈辱的であろう。蘭香はそれを汲んで、目の前の大人の男にだけ接してやろうと思っている。
「あなたも大変ですわね。おじいさまの命令なのでしょう。女の身の回りの世話をして、休みもお嬢様に付き合って、料理まで習えと言われるなんて、気が休まらないでしょうに」
「すべて」
すでに拭いた調理台の上を、もう一度布巾で拭いながら、桐生ははっきりと発声した。
「自分で選んだことです。そうしなければ後悔すると思うので」
「ふうん。立派ですのね」
そう馬鹿にしたつもりもないのだが、自分の声はそのように聞こえるだろうと、蘭香は小さく後悔する。しかし桐生は今度はけろりとしていた。
「リレーでしょう。してもらったことを繋げるだけです」
父親によく似ていると、改めて蘭香は思った。ものの言いようまでこれほど通うものか。
独自の見通しを短く語り、解説もまた短い。最初から、伝えようとは思っていないのだろう。表明だ。胸の内を隠しはしないが、親切に並べることもない。
女と心が通うことなどないと、最初から見切っているのではないか。蘭香は若い頃からそう仮説を立てている。師以外のものは一律と見なしているような男だ。わざわざ愛人と語らいたい未来も過去もないのだろう。
神無があの男をそうしたのだと思っていたが、桐生を見ていると、因果が怪しいようにも思える。格上の女に隷属したいという、マゾヒスティックな心が先行しているのではないか。強く見える女ならば、本当は誰でもいいのではないか。
桐生を此紀の従者としたのは、豪礼の采配であろうが、桐生はどうやらまんざらでもないらしいのだ。心を尽くそうとするその姿に、蘭香は既視感を覚える。色舞もそうだろう。料理まで習わせるとは、さらにコピーに近付ける気かと、蘭香は彼女のことまで懐疑する。
「あなた、本当にそれでいいの」
若い男の目をじっと見つめる。黒い虹彩だ。白目はうっすらと青みがかっていて、この男が単体で存在していれば、神秘を感じるほどに美しいだろうと思う。二度目のコピーだからわずかに価値が落ちているのだ。同じような顔立ち、体つきの男が、この狭い屋敷にあとふたりいる。
「それでというのは、どれのことでしょうか」
「何と言うのかしら? 全体的に。体制と一体化しなければいけないほど、あなたに選択肢は少なくないはずでしょう」
「いいえ――俺がうまく話せていないんですね。お題目を唱えようというわけではないんです。たとえば、嘘ですが、俺は子供の頃に大きな怪我をして、此紀様に治していただいたことがあるんです」
「そんなことがありましたかしら? ああ、嘘でしたわね。何をおっしゃりたいの?」
「事実は説明しにくいので、納得しやすいストーリーを話した方がいいかなと。つまり――好きで仕えているということです。理由は、必要でしたら、嘘を考えます」
普通の女ならば馬鹿にされたと感じるのだろうが、蘭香は失笑してしまった。不誠実さで誠実さを示そうとするやり方が、鼻の線と同じように、あまりにも完璧に重なったからだ。
さほど親切にしてやる必要はないということが、その瞬間、すべてわかった。蘭香はエプロンを脱いで男の手に押し付けた。
「洗濯しておいてくださいな。他の洋服と一緒ではいけません。布巾と同じように手洗いです。台所で使う布類は、すべてそうなさってくださいね」
必要なことだけを伝えた。桐生は真剣な顔をして、はいと答えた。
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