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蜂の残した針 20話


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 自分は結局、女を救うことなどできないのだと、玄関の壁のへこみを見ながら桐生は考えている。

 壁紙が破れて、敷金は戻るまい。さらに修繕費用を請求されるかもしれない。怒りにまかせて振り上げたこぶしを壁にぶつけた、自分の浅はかさが恨めしい。

 しかし、壁で済んでよかったとも思う。このマンションのエントランスには防犯カメラが設置されているのだから、此紀の連れ込んだ男をここで殴り殺していたら、あとで不都合が出たはずだ。

 その男は逃げ帰り、此紀はソファで眠っている。

 男女が逆ならばメロドラマだ。別に、逆でなくてもそうであるのに、なぜか桐生はそんなことを思う。

 愛さえあればどうにかなるなどと、甘いことを考えていたわけではない。しかし、いくらなんでも、家に男を連れ込まれるとは思っていなかったのだ。

 依存症の患者には、ルールも良識も通用しない。その状態のことを依存症と呼ぶのだ。医者にもそう説かれ、理解しているが、しかし、心が追いつかない。

 二ヶ月で壁を殴った。半年後には女を殴っているかもしれない。かつて誰か──色舞が言っていたことを思い出す。未来に光がないことを、絶望と言うのだと。

 老いるために生き、死ぬために産まれるのなら、この世そのものが地獄ではないか。女と暮らしてさほど時間も置かず、地獄のことを考えている自分に、桐生は暗澹たる気分になる。

 そう、女の残酷さというよりは、自分の器の小ささを思い知らされることに、桐生は苦痛を覚えている。プライドが高い高いと言われてきたが、これほど自分で痛感したことはない。余裕のある正しい自分が、どんどんみじめになっていく、そのことが想像していた以上につらい。

 師は酒が切れると、情緒が不安定になり、泣いたり喚いたり、自分の身体を傷つけたりする。病院からの帰りは特に不機嫌で、担当医を口汚く罵る。

 確かに、あの医者とは相性が悪いのだろう。しかし、他の病院に通わせれば治るという気もしない。そもそもアルコール依存症とは、完治しないものなのだそうだ。どれだけ長く断酒できても、次に一滴でも摂取すれば、その途端に再発という扱いになるらしい。薬物と同じだと病院で説明されて、なるほどと思った。たまたまこの国の法で禁じられていないだけで、患者にとっては違法薬物に相当するものなのだ。

 ここに越してきて三日目の夜、桐生が風呂に入っている隙に、此紀が車のキーを探り出して酒を買いに行った。此紀は運転免許を幹部会に取り上げられているから、車はもちろん桐生のものだし、職務質問に遭ったらおしまいであった。
 ことの重大さをわかっているのか、そしてこれはもはや泥棒ではないかと、ショックで目の前が真っ白になったものだ。その時はまさか、そんなことは序の口だとは思いもしなかった。

 山にいた頃、この女の醜い部分などは、たいしたことがないと思っていた。それは色舞や典雅が隠していたからだと、今ではわかる。

 ──険しい道ですよ。

 出立の日、そう言って色舞は分厚い封筒を渡してくれた。

 ──あなたの思いやりは裏切られるでしょう。あなた自身の心もまた、未来のあなたに裏切られるかもしれません。
 ──だけどそれは、あなたのせいではないのよ。
 ──あなたは若いのだから、恥をかいても取り戻せます。つらくなったら戻っていらっしゃい。

 彼女の予言した未来が、すでに訪れているのだ。千里眼でなくとも見通せるような、陳腐な未来だったのだ。

 千里眼のほうは、色舞ほど親身な言葉をかけてはくれなかった。

 ──馬鹿の選択よ、それは。

 それもまた正しかったのだ。

 桐生は天井を見上げた。若い女の看護師が教えてくれたのだ。強制的に脳の中身を空にしたい時は、天井を見上げるといいらしい。この瞬間は、天井を見ることしか考えなくなるからだ。

 そうして頭を切り替えて、桐生はリビングへと向かった。

 豪華な革張りのソファに埋もれて、師は静かな寝息を立てている。服は着崩れて、首には引っ掻いた跡があり、そして酒の匂いがする。

 それでも、この女は美しい。

「お化粧を落とされないと、またシワができますよ」

 声をかけて、肩を軽く揺する。

 女は小さく呻いてから、うっすらと目を開いた。

「……シワなんかないわよ」
「声もガラガラです。水をお持ちしますので、起きて飲んでください。それから話をしましょう」
「話すこともないでしょう……」

 女はのろのろと身体を起こした。 

「壁に手でもついて、反省のポーズをしろっていうの? 酒も飲めないし、男も連れ込めないっていうの」
「酒も飲んでいるし、男も連れ込んだでしょう」
「まだやってなかったのよ!」

 それは服装を見ればわかる。あと少し遅く帰ればやっていたであろうことも。

「あんたが監視するから、外泊もできないんじゃない」
「外泊なされば酒を飲むでしょう」
「だから、家に一人で閉じ籠もってろっていうの」

 一人か、と桐生は繰り返してやりたい気持ちになる。桐生は透明であるらしい。

 本音だと思ってはいけませんよと、これも色舞が言っていた。そのことは桐生にもわかる。異常を来たした脳が言わせている言葉にすぎず、本心ではないのだ。

 ──けれど、じゃあ。

 ──本心とは何なのかしらね。

 本当に、何なのだろう。言葉が嘘だということはわかる。しかしそれは、真実のありかを示しはしない。

 酒を飲んでは妻子を殴る男が、素面しらふの一瞬に、泣きながら謝罪を口にすれば、それが本心ということになるのだろうか。妻は好きなだけ殴られたらいいと桐生は思うが、そういう女は、父は本当は優しいのよと、子にも言うのだ。だから耐えてちょうだいね。

 それはもはや、本心などというものを勝手に信じ、ほかのすべてに目を瞑った者の罪である。

 祖父は桐生に暴力をふるったことはないが、叔父の視力を落とした。その事実のほうが、本心などよりはるかに重要であろう。

 では、この女が暴言を吐き、車の鍵を盗み、男を連れ込んだから、見放すべきなのだろうか。

 今はまだ美しいが、これからどんどんやつれ、白髪が増えていくだろう。顔にシワもできる。その姿を、桐生は鮮明に思い浮かべることができた。

 目の前の女ではなく、その老女を救いたいと思う。救わない自分のことを、未来の自分は憎むだろう。

「水を汲んでまいります」
「水道水なんか飲まないわ」
「冷蔵庫の水を出してまいります。アイスクリームも召し上がりますか。焼けた喉が冷えて楽になると思います」
「いらない……」

 期待は裏切られ、約束は破られて、好意は拒絶される。

 桐生は天井を見上げた。





 ──あたしを捨てるの!

 このところよく聞こえてくる金切り声に、兄はまだ慣れないらしい。いちいち不快そうに眉をひそめる。

「もうBGMのようなものでしょう。よく飽きずにうるさがりますね」
「絶妙に嫌悪中枢を刺激してくる声なんだ。完全に加害者なのに、なんで被害者ぶることができるんだ? おかしいんじゃないか、あの女」

 兄の嫌悪の基準は、父によく似ている。骨格で声が似るように、心の形も似るものなのだろうか。

 憐れを乞う女の声に、色舞は少し同情を覚えてしまうから、兄の言葉の険しさにひるむ。

「愁嘆場というものでしょう。周りが真剣に聞いても仕方ありませんよ」
「普段無邪気なふりをして、男を悪者にする知恵は働くんだな」
「切れ味がすごいですね、今日は」
「俺にもあの手で近付いてきたからな」

 若い頃の兄は、今よりはいくらか性格も柔和で、女たちからよく好かれた。その分、ハラスメントも受けたらしい。

 猫をかぶらなくなったのは、兄なりの処世術というものなのだろうか。そう考えることもあるが、どうでもいいのであまり掘り下げはしない。

 きなこをまぶした餅を食べながら、あまりおいしいものではないわねと考えていると、兄は若干気の抜けたような顔になった。

「うまいか?」
「いいえ、あまり」

 兄もひと口食べたきり、皿の上で餅を冷やしている。

「お餅はただでさえ喉に詰まるというのに、きなこで口の中の水分を持っていって、事故率を上げていますね」
「俺は、きなこというのは甘くするものだと思っていた。豆の香りばかりで無味むみだ」

 色舞は箸を止めた。たしかに。箸を持っているからダブルピースはしない。

「私、またやってしまいましたか?」
「異世界転生したのか? まあ、お前もまずいと思うなら、残しなさい。無理に口の中を乾かしてもしょうがない」
「蘭香に作ってもらえばよかったわ。手伝いましょうかと言ってくれたのですけど、させるとパワハラになるかと思って断ったんです」
「蘭香の作る菓子もたいがい美味くはないが、砂糖を入れ忘れていることはないな」
「まあ、意地悪を言って」

 うふふと笑い合う。

 ──あたしを一人ぼっちにするつもり!

 兄の笑いが一瞬で曇った。

「すごいパワハラがずっと開催されてるんだが、誰も止めないのか」
「犬も食わないものを食っても仕方ないですからね」
「それは元のさやに戻る夫婦専用のことわざじゃないのか。あそこはもう破局だろう。聞き苦しい」
「おかしな仲裁をして、自分が損をしたら馬鹿馬鹿しいじゃありませんか。あにさまも余計なことはなさらないでくださいね。今が一番、次の男がほしいタイミングなんですから、目をつけられたら厄介ですよ」

 兄はダブルピースをした。陽気なしぐさに似合わぬ苦い顔。

「ああいう声を出すから、美人なのに若い男が寄りつかないと、自分でわからないものなのか」
「野次馬な噂話をすると、魂のステージがどんどん下がりますよ。顔も不細工になっていきます。あにさまは顔だけが財産なんですから、大事になさってください」
「魂のステージの話をするのも、魂のステージが下がる行いという気がするな」
「世界のどこにでも、神と鬼はいるそうです。魂と虫も」
「虫?」
「災厄や不快の原因とされる、概念としての悪者です。パスツールが細菌を突き止める以前には、特に猛威を振るっていたんじゃないかしら」
「此紀様が言いそうだ」
「言っていたんです。あと虫は、あれですね。虫が好かないとか、生理的嫌悪を押し付ける口実にも使われるでしょう。便利使いできる厄介者ですね」
「虫が好かないの虫は、俺とYAZAWAの関係だろう。本能の叫びに寄っていることなんじゃないか? あまりネガティブなイメージはないな」
「ですから、ポジティブの体裁を維持するための虫でしょう。自分はいいけれど、虫はなんて言うかな、という」

 ──あたしの──が──って──なんでしょ!

 放送禁止用語が入ってきた。兄が嫌悪を顔いっぱいに表現しながらつぶやく。

「魂のステージが急下降しすぎて、床を叩いてる。ここまでひどい女だったか」
「寂しいのはあると思いますよ。宣水様も出ていかれて、此紀様もいなくなられて、それで男を縛って逃げられて、少し可哀想に思います。心も貧すれば鈍しますから」
「──どうなんだ」

 他の誰にも通じまいが、色舞には何を指すのかわかる。

 ほうじ茶で口の中を潤わせてから答えた。

「劇的に変わることはないでしょう。それほど変わってしまうとしたら、桐生さんのほうです。もうだいぶ参っているようで、電話も乱暴に切られます。可哀想に」
「それは、此紀様は大丈夫なのか」
「もうずっと、大丈夫だったことなんかないでしょう。私は此紀様がいなくなって寂しいですが、私の虫は、気が楽になったところもあるんです。あにさまの虫もそうではありませんか?」

 兄は傷ついたように眉を寄せた。

「そんなことは思わない。お前は、思うのか」
「私ではなく、私の虫です。虫のほうが本音ということもないでしょう。ポジティブなほうばかりが本心ではないというだけ。虫も必要だから世界で使われているんです」
「重荷だったと?」
「重荷でなかったと思っているなら、背負っていなかっただけです。私よりも、ととさまが目に見えて楽そうになられたでしょう。あにさまにはわかりませんか」

 こういう話運びをすると、兄は黙る。まあ、背負っているふりをしないだけいいわと色舞は思っていた。

 兄は何かをつぶやいた。

「なんですか? 聞こえませんでした」
「嫌味な言い方をする女はモテない」
「天誅!」

 身を乗り出してデコピンを食らわせた。強めにだ。

「あにさまも信じていらっしゃるんですか、私が斎観さんに振られただなんていう噂を」
「事実だろう」
「魂のステージ!」

 もう一発見舞った。

「痛いんだ、お前のデコピンは。此紀様はもっと加減してくれた」
「あのね、私が振られたわけではありません。私が振ったんです! それと、女を他の女と比べて下げるのは、魂のステージどころの騒ぎじゃありませんよ。実刑判決です。謝罪!」
「悪かった」

 怒れる妹に歯向かわないところが、顔のほかの唯一の取り柄である。

 色舞は怒りながら、こたつの台に散ったきなこを払った。

「まったく、向こうの名誉のために黙っていたら、こちらの名誉が下がるんですから。だいたい、男と女がついたの別れたの、そんなありふれたことでよく盛り上がれますね。魂のステージが低いったらありません」
「それが口癖になるとまずいぞ。本気で言っていると思われる」
「こんなことを言わせないでください。どうせ、弟に乗り換えるとか、そういうことも噂になっているんでしょう」
「乗り換えるのか? あのヒョロヒョロメガネに」

 情け容赦というもののない形容だ。兄の判定においては、ヒゲの大男のほうが評価が高いらしい。

「ノーコメントです。自分の心を言いふらすと、魂のステージが下がるので」
「口癖になってる」
「あにさまもせいぜい、今年は励まれてください。桐生さんほどとは言いませんが、松本さんくらいの自己鍛錬はなさったらどうです? スペックがだいたい同じ分、あにさまの怠惰さが際立っているんですから」
「男を比べて下げるのは、魂のステージは?」
「あら、失礼しました。私のステージも下がりましたね」
「下がっていくばかりなのか? 上げる方法はないのか」
「どうかしら、わかりませんけど」

 父と妹に、砂糖の入ったきなこで餅を食わせれば、少し上昇するかもしれない。色舞はこたつを出た。



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