蜂の残した針 33話
刺繍というのは楽しいものだ。白威はこのところ、この趣味にはまっている。
白い布に、白い糸で花や蔦の模様を刺し、たまに遊び心で動物の意匠などを紛れ込ませてみる。SNSに写真を投稿したらバズッた。自分にはデザインの才能があるのかもしれないと、少しだけ考えたりもする。
パッチワークは性に合わなかった。そもそも洋裁がそれほど向いているとは思えず、模様を刺し入れることだけが楽しい。色合いを考えるのは面倒なので、もっぱら白で陰影だけを表現する。
幼い子供の身の周りのものは、あらかた模様を入れ終えてしまった。今は師の布団カバーに干支の模様を入れている。ねずみから開始して、今はうさぎだ。絵が得意というわけではないから、丸みのあるデフォルメ調の輪郭だけ刺して、顔までは作らない。
「おヒマですわね」
友は毒舌である。しかし高そうな湯飲みに白湯を入れて持ってきてくれたので、おやと思う。白い布を扱っている時に、色のついたものは飲みたくないものだ。気遣いのレベルがかなり高い。
ちまりと正座して、自分も白湯を飲みながら、蘭香は白威が刺繍する姿を眺めている。
「手先の器用なのは、女性に好かれてよろしいことですわね」
下ネタを微妙な文語調で表現する、エレガントな使い手だ。白威は黙って微笑み、針を動かし続けた。
「まあ、涼しそうに無視して。わたくしの誕生日にはハンカチくらいいただけるのでしょう?」
「別にお誕生日でなくとも、この程度のものでよろしければ──お誕生日が近いのですか?」
「3月ですから、だいぶ先ですわ。わたくし、ひな祭りの生まれですの。ぴったりでしょう。白威さんは何の日のお生まれですか」
「何の日? 女性労働者……いえ、女性運転手の日だったと思います」
蘭香は「なんて?」という顔をしてからスマートフォンを操作した。
「9月27日ですか?」
「そうです。たぶん、他にもあるのだと思いますが、それしか知りません」
「世界観光の日で、フランス語共同体の日でもあるそうですわ。言っちゃなんですけれど、パッとしない日ですわね」
「手厳しい」
「斎観さんにけっこうなことを言われたことがありますの。奇数月の奇数日に生まれたから、性格がきついんだなですって」
「本当にけっこうなことを言いますね。どういう性格診断なんだ。どこかの宗教ではそう言われているのかな」
兄弟子の信仰は知らない。誕生日もよく知らなかった。冬だった気はするが、偶数月の生まれなのだろうか?
四種類しか組み合わせがないのに、性格がどうだのと定められたくないものだ。思えば血液型占いも同じである。この屋敷に住まう者は全員B型というのは、誰から聞いたのだったか。
「蘭香さんは占いはお好きですか」
「けっこう好きですわ。おできになるの? してほしいわ」
「いいえ、私ではなく──皇ギ様の占いは中るそうです。料金もそれほど高くはないと」
「まあ、勧誘!」
確かにそう聞こえるような言い方をしてしまったと、首を横に振る。
「勧めているわけではありません。私は多くの占いを信じませんが、唯一経験して、信頼性があるかもしれないと思った占いがそれだという、雑談です」
「あの方の占いって、ご神託みたいな──厳かなものなのでしょう? 話の種に恋愛相談をしていいような占い師ではございませんでしょう。でも、中ったのですか?」
「それはわかりませんが、気持ちは楽になった気がします」
ふうんと、蘭香は面白くなさそうに声を伸ばした。不機嫌になる要素があっただろうか? 結局、勧誘だと思っているのだろうか。白威は不思議に思って刺繍の手を止める。
蘭香は注目されたことを恥じるように両手で頬をおさえた。
「あなたのような方が占いに頼るなんて、よほど周りには言いたくない悩みがあったのでしょう? そのことを妬んだだけですわ」
「妬んだ? とは」
「んもう。占い師よりも頼りにならないと思われたことが、なんか悔しかっただけです。言わせないでくださいな」
因果関係の時系列がまったく違うから、白威には想像できなかっただけだ。しかしそんなことを説明して、この話を長引かせても恥をかかせるだろうと、別のことを言った。
「恋愛のことでお困りなのですか」
「困ってはいないのですけれど、充実していない、つまらない毎日だとは思っていますわ。わたくしには趣味と言えるような趣味もありませんから、男がパッとしないと退屈です。老人と子供の世話をしている男なんて、色気のないことといったらありませんわね」
その通りだなと白威は考えている。色気が失われると、斎観には良いところがない。うすらでかい、悪人でも善人でもない、繊細で口うるさい面倒な男である。飽きるタイプの美形であるから、やたらと大きい目も高い鼻梁も、相変わらずくどい顔だなと思うばかりだ。
蘭香はやわらかい頬の線にやや不似合いな吊った目尻と、つんと尖った鼻先を持つ、つまみ細工のような顔立ちの女である。公家顔と言うのだろうか。西洋貴族のような美少年の祖父にはさほど似ていないのだが、いかにも楚々としている。
典雅に侍っていると小間使いの娘になってしまうが、その娘たちの世話を焼く姿は、平安の姫に心を尽くす、生まれ育ちの清潔な女房のように見える。
白威の価値観において、姫というものはあまり価値がない。高貴な玉そのものよりも、それを磨く者のほうに興味がある。まあ、感情移入というものであろう。
血統主義と年功序列、そこに徒弟制度が混ぜられた結果、蘭香は誰からしても扱いにくい娘とされている。典雅の従者でいるうちは、蘭香蘭香と軽く呼べても、刹那の孫娘に戻られた日には、蘭香お嬢様になるということだ。いついかなる時も身分の低い白威には関係のない話だが、斎観の立場においては100%の一致を見る。似た者同士として付き合っているのだろう。
「斎観はあなたに捨てられたらダダをこねることでしょう」
「そうかしら。まんざらでもありませんわね」
そう言いながら、退屈そうに手の爪の艶を確認している。水仕事もするらしい蘭香はあまりマニキュアを塗らないようだ。化粧も薄い。恋をしていない女の姿である。
少し髪を巻いて、明るい色の口紅をつけて、腕の出るワンピースを着ると、蘭香は誰もが振り向くような美少女になる。しかし普段はいたって地味で、それは貞淑というより、もはや野暮だ。典雅が華美な女を好まないのだろうが、しかし、蘭香の姉弟子はなかなか派手な身なりをしている。彼女と比べられることが嫌なのかもしれない。
少し前、斎観がこの部屋でダダをこねながら文句を言っていた。俺よりも、お前と出かける時のほうが、らんこちゃんはおしゃれしてる。
蘭香は白威のことを、それは憎からず思っているのだろうが、恋ではないことはよくわかる。口で言うほど恋を求める女でもない。
なぜか隠そうとしているらしいが、蘭香は知的で清楚だ。意地悪で淡白ともいえるが、長所と短所が完全に同じというのは、善人の証だと白威は思っている。短所ばかり多い者も珍しくはないのだ。
自分は──短所ばかりだ。繕い物や料理がいくらかできても、それは手先の話である。性格の美しさではない。
「占いで気持ちが楽になっても、それでいらっしゃるの?」
「それ?」
「シケたツラですわよ。なんだかいつも暗くって、まあ、お悩みがあるのはわかりますけれど、悩んでどうにかなることなのですか? あなたがシケたツラをなさると、神無様の寿命が延びるのですか」
斎観に同じことを言われたら怒髪天を衝くだろうが、蘭香のつんとした物言いは、芝居の台詞のように聞こえて腹も立たない。
「難しい問題ですね」
「簡単ですわよ! 寿命は延びない、悩んでもどうしようもない、でただちに決着ですわ。神無様がいくら独占欲の強いかたとおっしゃっても、あなたの幸福や安らぎまで束縛したいわけではないでしょう。お優しい方なのでしょ? わたくしは存じませんけれど」
どうだろうか。神無は優しく愛情深い。そして男の幸福や安らぎも支配したいタイプであろう。
蘭香はすっと両手を持ち上げると、親指を下に向けた。
「なぜ激しいブーイングを?」
「わからないこたあないでしょう。あなたも斎観さんと同じで、脳に電極を刺されないと不安になってしまうタイプなのですか? 苦痛の信号を送られても、そのほうがいいとおっしゃるの? 女の代わりなんていくらでもいますわよ。親の代わりだっています。国の元首だって。えーん」
「なぜ泣き真似を」
「赤ん坊が泣いたら、すべてを放り出してあやすものでしょう。わたくしをあやしてください」
白威は少なくとも刺繍は中断して、蘭香のことを見つめている。兄弟子がダダをこねるほどにこの女を手離したくない理由が、うっすらとわかったような気がしたのだった。
色舞は自分のことを子ども嫌いの女だと思っていたが、そういうわけでもなかったらしい。
西帝の弟は立って歩くようになり、喃語くらいはしゃべるようにもなった。肌がもちもちとして黒目が大きく、まつ毛が長くて、とてもかわいらしい。
しばらく子どもが生まれなかったこの屋敷において、その愛くるしい生き物はたちまちアイドルになった。今日は万羽が世話をしているらしい。
「じゃあこの部屋に用はないわ」
素直にそう口に出して帰ろうとした色舞に、西帝はすがりついてきた。
「今日は泊まって行ってくれるって言ったじゃないですか! お菓子ありますよ、酒も持ってくるし。あっ、コロッケ食べません? 揚げたての」
「揚げたて?」
色舞はコロッケというものを食べたことがない気がするが、揚げたてのものならば何でも美味いはずだ。しかしぜひ食べたいというわけでもなく、なぜそんなものがあるのかという意味で西帝を見下ろした。
「兄貴がアホほど揚げてるんです」
「ああ。あの方、嫌なことがあると揚げ物をするわよね。おかげでドーナツを一生分食べたわ」
「だからかな? 俺が揚げ物苦手なの。めっちゃ食わされたからかも」
西帝はあまり美点の多くない男だが、色舞の過去について妬かないところは爽やかである。もっとも、ただ鈍感なのかもしれない。やたらと敏感であった兄とはあまり似ていなかった。
「お兄さま、何か嫌なことがあったということでしょう? 大丈夫なんですか」
「何かあったにせよ、弟に機嫌取ってほしいわけじゃないと思いますよ」
それはその通りだろう。シンプルな返答に色舞は感心して、まあ泊まって行ってやろうかと気持ちをやわらげた。
色舞が座布団に座ると、西帝は喜んで菓子の箱を出してきた。花の形に抜かれた干菓子である。
「どちらかというと、お菓子がないと言うんですよ、これしか出すものがない時は」
「砂糖まぶしたゼリーもありますよ」
「なぜそんなお婆さんしか喜ばないものばかり置いてあるんですか」
「彩果の宝石ですよ?」
自信満々に言う線でもないが、確かに色舞が想定したよりは上のものと言える。干菓子も、食ってみると落雁ではなく、さらっと溶ける上等なものであった。
「逆になぜ、クオリティの高いお婆さん菓子を何種類も持っているんですか? 好きなんですか」
「親父が好きだったから、姉さんとか沙羅さんが買ってくるんですよ」
「ああ、仏様のお下がりなのね」
現在、この屋敷では神も仏も禁じられているが、なぜか色舞の父の部屋には仏壇がある。だから色舞の中では、亡くなって菓子を供えられる者は仏なのだった。
「俺は食べないので、よかったら朝露さんにもどうですか」
「あの子は口が渇くものがあまり好きじゃないの。昔、父が干しイカなんかを一生懸命食べさせていたから、それが嫌だったみたい」
「イカを?」
「あの子は歯をほとんど使わないから、弱ってしまわないようにって。今はガムを噛ませているのですけど、効果があるのかどうか。外に出ないから手も足もとても細くて……」
それでいて肌や髪は綺麗なところが、色舞には痛々しく思える時がある。纏足された美姫のようだと感じるのだ。リボンやレースのついた服は朝露自身の好みだが、それを知らない者からは、父が愛玩するために飾り立てているように見えるのではないか。
実際、聞くに堪えない中傷の噂話を、色舞は何度も耳にしてきた。典雅様は大人の女が嫌いだが、知恵の足りない少女なら──思い出すだけでも不快だ。
愚痴として話してしまおうかと考えたが、その相手として西帝は不適当だとぎりぎりで気が付いた。父親の寵姫、従順な慰み者。娘をそうして扱った男は最近死んだ。
──仏様じゃないわね。
死ねばみな仏とも言うらしいが、その例外であろう。もしくは、仏の中でも冷遇されるはずだ。刑務所でも、ある種の罪を犯した者は差別されると聞く。
「酒持ってきますね、何がいいですか」
「まだけっこうです、日も高いし。統陽さんがいないのなら、遥候や蘭香を手伝ってきたいのですけど」
「色舞さんが顔出さないほうが、遥候さんや蘭香さんは気が休まるんじゃないですか」
西帝は真実をすぐに口にする。気の利かない男だ。菓子や酒などいいから、会話に気を遣ってほしいものである。
「どうせ私はうるさい小姑です。ひとつ屋根の下で、兄から弟に乗り換えて、男の面子を潰す女ですし」
「いやあ、えへへ」
「今あなたが照れるところがありましたか?」
「乗り換えていただいて光栄です」
マゾヒスティックなところだけ兄と似ている。容姿の端麗さでカバーしきれないところもか。色舞の意図としては、悪口を言われているから慰めてほしいということだったのだが、兄ならここは汲んだだろう。
男を比べるのは上品なことではないとわかっているが、愛ではなく打算で乗り換えたために、秤が働いてしまうのだ。男を愛したいわね。色舞はため息を吐くかわりに、押し入れを開けた。
「わっ! 何の抜き打ちですか?」
「慌てるようなものを押し入れに隠しているの? 布団を敷こうと思っただけですよ」
「眠いんですか?」
「幼児じゃないんですから、こんな時間に眠くなりません。愛を深めたくて」
心のままのことを言ったら、恋愛小説か、官能小説のような言い回しになってしまった。しかし西帝には正しく伝わったようだ。眼鏡をクイッと持ち上げている。
「そういうことをしたら自動的に深まるってもんじゃないと思うけどな、愛」
「中途半端な愛ならこれで深まります。私は詳しいんです、あなたより長く生きているんですから」
「あんまり詳しくないから、中途半端な愛を深めなきゃいけないような状況になっているのでは?」
色舞は押し入れから枕を取り出して西帝の腹にぶつけた。図星を突かれてムカついたからである。
「喋り方がオタクくさくてイライラするのよ!」
「よく言われます。気を付けます」
「猫背もやめてください! 私も猫背なのですから、二人して猫背だと、老夫婦みたいで恥ずかしいじゃない」
「老夫婦みたいなのは良いことだと思いますけど、猫背はまあ、直す努力はします」
「胸が小さいくせに、男には要求ばっかりする女だと思っているんでしょう!」
「前半も後半も思ってないですよ。胸の大きさってそんなに気になります? 男のオタクが擦ってるのよく見るけど、本当に気にしてる女の実物って見たことない」
「今ここにいるわよ!」
眼鏡をむしり取ってやって、机にそっと安置した。これで顔を狙える。
「あなた女の理想が高いのよ! 女は胸の大きさを気にしないとか、美人はもっと上の美人を妬まないとか、言いたいことはわかりますよ、女は物語で描かれるほど嫉妬でいっぱいではないわよ。でも嫉妬心を持つこと自体を全否定されると、私のような女は存在を否定されるのよ!」
ぽかんとしている西帝の頬をにゅーっとつまんで伸ばしてやった。
「もう二度と、女の胸のことを私の前で言わないでくださいね」
「はい」
「浮気も駄目です。あなたは弥風様からの収入が充分あるのですから、愛人を作らなくても暮らしていけるはずですね」
裸眼にさせたから、目がハートになっていくのがよくわかる。気持ち悪いので、色舞は軽く往復ビンタを見舞った。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。