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蜂の残した針 23話


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 沙羅が氷を取りに台所へ行くと、そこに女がいた。

 まさに冷凍庫を開けて、氷を取り出している。白いタオルに包んでいた。

 沙羅は、持参したタオルを隠したいと反射的に思った。幽霊を見た気分になったのだ。いや、あれは幽霊ではなく、妖怪と呼ぶのだったか? そば屋の主人が、お前の見たものはこれかと、つるりとした顔を見せてくる怪談だ。

 選んだカードはこれでしょうとトランプを掲げるような、かわいげのある手品ではない。強い悪意がある。一度あかりで安心させておいて、それから脅かすというのは、いやらしい手口だ。商人はあきらかに善人であるのに。ふつう、それほど恐ろしい目に遭わされるのは、意地悪を働いたじじいなどではないのか?

 いや、こぶとり爺さんの、隣家の爺も、たいがい何も悪くはない。かつて誰かがやけに熱心にそう訴えていたなと、沙羅は本当にどうでもいいことを考えている。走馬灯に近いもののスイッチが入ったのだろう。幽霊は死属性の恐怖であるためか。

 皇ギはタオルで作った氷嚢を、「いる?」と言って差し出してきた。

「どうして……」

 自分がこんなに脅かされなければならないのか、と問おうとして声がかすれる。

 皇ギは少し首を傾げて、怪訝そうにした。

「いるんでしょ、氷。頭が痛むんでしょう」
「なぜ……」
「なぜ? ああ、さとりのお化けだと思ってるわけね」

 むじなだと思っていたのだが、そう変わらない。

 沙羅が受け取らなかった氷嚢を、皇ギは自分の顔に当てている。

「あんたってけっこう発想が自己中心的よね。わざわざあんたを驚かせるために、あたしが手を冷やしてたと思うの? 自分用よ」
「え……でも、氷がいるんでしょと」
「第一に、タオル持ってるじゃない。第二に、あんたも頭痛持ちなことくらい知ってるわよ。第三に、片頭痛は気圧の影響を受けるんだから、あたしが痛けりゃあんたも痛いのは、前二つの情報と合わせたらわかるわよ」

 むじなが狩られぬように、後付けでそれらしいことを言っているような気がした。沙羅はもともと、この女を恐れている。占術か観察眼か知らないが、多くのことをてると噂だ。その視線を避けたいと沙羅はいつも思っている。

 会釈をして去ろうとすると、「ちょっと」と不機嫌そうに呼び止められた。

「いつもそうやって、あからさまにキョドッて、失礼ね」
「きょど?」
「挙動不審になるってこと。あたしの気を引きたいの? それとも、お父さんの? 弱々しさをアピールして、可愛いつもり?」
「いや……いや、そんなつもりはない。気に障ったのなら、すまない」

 これでも加減されているということはわかる。この女は、もっと強い言葉を射ようと思えば、いくらでもできる。

 沙羅はそこでため息を吐いた。自分のことを、本当に自己中心的だと思ったからだ。加減どうこうという話ではなく、体調が悪いから、語気もいくらか弱いのだろう。

 皇ギは氷を差し出してくれたのに、それを拒否したあげく、脅かそうとしただの、加減しただのしないだのと考えて、自分はどうしようもない女だ。情けなくて目の前がぼやけた。

「嘘でしょ。泣くの?」
「いや、体調が……悪いから」

 ちょうどタオルを握っていたので鼻水を吸収させて隠す。涙などどうでもいい。見られたくないのはこちらだ。

 目のあたりにタオルをあてている皇ギは、片目で呆れを表現した。

「弱々しさを出して、相手を悪者に見せるっていうのは、女の中でも腐ったようなやつのやることよ」
「男にだけ使う言いようだと思っていた……」
「女が腐ったら女以外のものに変質するとして、じゃあ男っていう論法は乱暴すぎるわ。あんたはジェンダー感が古い」
「それは、そうだと思う」
「腫れ物扱いって、腫れ物には使わない言いようでしょ。わかる? 腫れ物だと思われるのは迷惑なのよ」

 歌の教養があるのだろう、短い言葉で多くのことを伝えてくる。だから、いくらも話したことがないのに、沙羅はこの女のことをよく知っている。

「──すまない」
「以後、気を付けてね」

 堂々とした女だ。胸の大きな女は猫背になりがちだが、皇ギはいつも背を反らしている気がする。

 一撃だけ強く入れて、すぐにおさめるあたりも、あまり女性的ではない。ジェンダー感の古い沙羅はそんなことを思う。

「ほら」

 黒い手を差し出してきたので、握手かと思ったのだが避けられた。

「そうじゃなくて、タオル」
「ああ……いや、これは、汚いから」
「いいわよ、手袋してるから。どうせ冷蔵庫の取っ手なんか触った時点で汚いんだから、このあと洗濯に出すの」

 沙羅はうっすらと矛盾を感じた。探偵小説ならば、ここが何らかの種になりそうだ。その汚い手袋をはめて作った氷嚢を、潔癖症のあなたが顔にあてたのですか。

 しかしタオルを渡してみると見事なもので、最小の部分だけをつまんで広げ、冷凍庫を開けて氷を取り出し、また最小の動作でくるんで、患部に当たる部分には触れずに氷嚢を完成させていた。空中で作ったから、台などにも触っていない。

 それを受け取って、沙羅は左目にあてた。

「ありがとう。あの、お前も頭痛があるのだな。知らなかった」
「この年になれば、どこか悪いのが普通よ。目くらいそのうち見えなくなるものよ」
「め、目が見えないのか?」

 大ごとではないか。慌てる沙羅を、皇ギは鬱陶しそうに見た。

「騒ぐようなことじゃないって言ってるの。若いうちに見えなくなったって、ちゃんと慣れて暮らすようになるんだから、大げさに考えないで」

 沙羅を慰めているのかもしれないと考えるのは、また自己中心的な発想だろうか。西帝のことを言っているような気がしたのだ。皇ギは硬い声の女だが、弟たちのことを話す時だけ、少し違った調子になる。

 ぼんやりと考え込んでいると、「──の?」と何かを問われた。

「すまない、何だろう」
「結婚する男からもらったの? その時計」
「これは違う。結婚祝いだといって、万羽がくれた」

 ピンクゴールドと真珠で作られた、華奢な腕時計だ。とてもかわいらしい細工で、沙羅は大切に着けている。

 派手だと叱られるのだろうか。万羽の名を出すのではなかった。自分はいつも考えが足りず、あとで無神経さに気付くのだ。

 皇ギは苛立つように目を閉じた。

「なんでいちいちビクビクするの? 気を付けろって言ったばっかりでしょ」
「──うん」
「聞きたかったんだけど」

 深夜といえる時間だ。もともと台所に寄りつく者は少ない。ペットボトル飲料が普及するようになって、わざわざ茶を淹れる者も減った。

「結婚なんて、しかも式まで挙げるって、お父さんの気を引くためなの?」

 違う。財産を相続するための手続きなのだ。それだけのことだ。沙羅は答える。

「わからない……」

 皇ギは閉じていた目を開いた。

「そう。山を下りたりはしないんでしょ? それならいいのよ。試し行為でもなんでもいいけど、逃げたりしないでね。あんたの身も、誰の身も、自分ひとりのものじゃないんだから」

 難しい響きの言葉だった。脅迫にも聞こえるし、労わりにも聞こえる。

「あんたは自分を孤独だと思うのかもしれないけど、落ちる地獄の数が少なくていいじゃない。少なくとも、あたしと同じ目・・・・・・・には遭いようがないんだから」
「あの、それは──その」
「つまらないこと言ったら叩くわよ」

 沙羅は何も言えなくなって、片目で床のタイルを眺めた。何年か前に張り替えられたが、また少し汚れている。

「この世で一番つらい拷問って、何か考えることない? あたしは、あたしの弟が刃物とか銃を突きつけられて、殺されたくなければ、あたしを────って強要されることだと思う」

 皇ギははっきりと発音したのだが、沙羅の脳が聞き取りを拒否した。

「わかるでしょ? 弟がいなくても」
「わかる……」
「あたしは弟が殺されるのが嫌だから、できることを全部するじゃない。そうすると、弟の世界にはその記憶が永遠に刻まれて、再生するたびに痛むのよ。死んだ方がマシって、そういうことよね。ああ、もう少し上の拷問があったわ。刃物は、あたしに突き付けられるのよ。そうすると、最後に選べる二択も無くなるから」

 息が苦しい。喉が渇いて、咳が何度も出た。

「家族がいなければ、その拷問からは絶対に逃れられるじゃない。一番ひどい地獄に落ちなくて済むのって、リスク管理としては重大なアドよね。──そうやって汚いもの見るような顔してくれるけど、あたしはいい話をしてるつもりなのよ。あたしはあたしと、あたしの弟を地獄に落とさないために、刃物と銃とアーチェリーを持たなければいけないけど、あんたは何もしなくていいんだから」
「どうして……そんなことを言うんだ」
「だから、いい話をしてるつもりなんだけど」

 女の片目は水道のあたりを見ていて、沙羅を射てはいない。言葉もそうだ。沙羅は世界の中心ではないから、狙われているわけではない。

「桐生はわざわざ新しい地獄を作りに行って、馬鹿でしょ? あんたが似たようなことをしようとしてるなら、あたしは止めなければならない」
「しない。どこにも行かないから」
「それならいいのよ。刃物と銃とアーチェリーで、あんたのことを守ってあげる。──どうして泣くの?」
「頭が痛くて」
「計算じゃないなら、あんまり弱いところを見せるものじゃないわよ。あんたの心の動きはわかりやすいんだから、ここで抱き締められたらグラッとするんでしょ。吊り橋効果よ、それは」

 沙羅は何も言えずに女を見る。女も、静かに沙羅を見た。

「孤独って何なの? あたしにはわからないから、どうも右から左に抜けるのよ。教えてくれる? つらいの、それは?」
「わからない。ただ、とても寂しいと思う」
「不安ってこと? いざという時に補助してくれる者がいないから」
「違うと思う」

 そんな、因果関係のある合理的な話ではない。もっと茫洋とした、埋め方のわからない、ずっと響く目の痛みのようなものだ。

 布で包まれた氷を左目に押し当てる。そうすると少し痛みが和らいだ。この感覚を表現する言葉を探す。沙羅も、少しは歌を詠む。

「たとえば……傷跡だ。傷口ではない。いつできたのかもわからないが、ずっと引き攣れて痛む」
「抽象的ね。ありきたりだし」
「では、持病だ。病巣がずっとある。馬力で摘出できるものではないだろう」
「なるほど、此紀のあれは不治の病に類するらしいわね。アル中って、治ることはないんですって。金もあって、あの年まで綺麗で、典雅みたいな都合のいい男がいても、酒を飲んでいないと、苦しくておかしくなっちゃうんですって」
「たぶん、そういうことだと思う。私の寂しさを、何倍にも凝縮すると、此紀の寂しさになるのではないか」
「なんか話が入れ違ってるんだけど。此紀のは傷口でしょ。いつできたのかも明確だわ。傷口って、希釈すると傷跡になるの?」
「そうか。そう言われると、違うのかな」

 皇ギは氷嚢を肩と首で挟むと、ポケットから煙草を取り出した。

「吸ってもいい?」
「どうぞ」
「この、煙草を吸わないとイライラするっていう気持ちを凝縮すると、傷跡になる?」
「違うような気がするが……」

 口寂しいという形容があるが、寂しさの類縁という気はしない。沙羅は喫煙をしないから、正確なところはわからなかった。

「初歩的で不謹慎なことを言うのだが、たとえば、お前の弟が亡くなったことを想像してみると、寂しいのではないか」
「殺すわ」
「私を……?」
「いいえ、あたしの弟が死んだ原因となった者を」
「その感情は、寂しさではなく怒りだろう。病気とか、自損事故とか、加害者のいないものを想定できないか」
「悲しいとは思うけど」

 悲しさと寂しさの違いなど、詩人でもうまくは語れまい。沙羅は懸命に考える。
 少し前、老いた男から聞いた話を思い出した。

「知り合いが、まだ五十歳かそこらの時分に、妻を事故で亡くしたのだが。しばらくは悲しいというよりも、呆然として過ごしたらしい。葬儀も終わって、やっと少し落ち着いた頃、海外に赴任していた娘が帰ってきた」

 皇ギは黙って聞いている。

「娘は家の鍵を持っているから、インターホンを鳴らさずに玄関のドアを開けて入ってきた。男はそこで、とても寂しくなってしまったのだそうだ」
「クイズ?」
「いや、これが全文だ。つまり、玄関のドアを勝手に開ける者といえば、妻だったのだ。その妻はもういないのだと、その時はじめてわかったと言っていた」
「言いたいことはわかるんだけど、あんた話が下手じゃない?」
「自分でもそう思った」

 沙羅がこの話を聞いた時は、それこそ染み入るように感じたものだ。妻はもう玄関のドアを開けて帰っては来ない。

「人を食っておいて、人に感情移入しすぎでしょ」
「それも自分でそう思う」

 皇ギは安っぽいライターで煙草に火を点けると、不味そうに吸った。

「寂しさって、余裕のある者が噛みしめるものじゃないの? 地獄にいるとき、寂しいなんていう眠たい感情は持たないでしょ」
「そうかな。私は──自殺をする者がみな持っている感情だと思う」
「ああ、それはそうなのかもね」

 理解が早い。この女は英語で仕事をして、多くの利益を上げているらしい。言語感覚が鋭いのだろう。甘蜜は話すと少し陰湿なところがあるが、こちらは乾性だ。

 そう、甘蜜の、友のかたきと言える女なのだが。

 この女に対して、沙羅は憎しみというものを感じない。ぶつけたとして、どうせ右から左に流されることがわかるからか。あるいは、もっと大きな感情が優先するためか。

 それとも単に、自分は薄情な女なのだろうか。ノータイムで殺意を抱くことが親愛ならば、確かにそうなのかもしれない。

「何? 湯でも沸かすの」

 背を向ければまた叱られる気がしたから、動けないだけだ。沙羅は「いや……」とまた挙動不審になってしまった。

 皇ギは換気扇に向けて細く煙を吐き出した。タオルを顔にあてている。

 緊張して言葉を待ったが、皇ギはそのまま煙草を吸い、煙を吐き、また吸っている。満喫という言葉が思い浮かんだ。

 沙羅の存在を無いものとしている。会話は終わったことになっているらしい。

「そんな……」
「あたしに言ってるの? 何よ」
「究極的にマイペースだ」
「あたしの長所だけど、それが?」

 地獄と寂しさの話をしておいて、もうそのことを考えていないようだ。この女のペースに付き合っていると酔うと、そういえば誰かが言っていたことがある。

「確か、ガス周りのことって、事故とか起きたらあんたの責任になるんでしょ」
「そうだが、何かあったか?」
「昨日だかおとといだか、東雲が、煙草吸いながらブロパンのボンベいじってたわよ」
「ええっ!? そんなに馬鹿ではないと思うが……本当に?」

 事実だとすれば、百叩きあたりが妥当な罪状である。
 焦る沙羅に、皇ギは目を細めた。笑ったらしい。

「嘘だけど」
「ええっ……どうしてそんな嘘を」
「世間話ってこういうものじゃないの?」
「私も明るいほうではないが、絶対に違うと思う。ひどい、罰を与えてしまうところだった」
「嘘か本当かもわからない証言ひとつで処罰するのはやめなさいよ。陰謀に踊らされるわよ」
「私を踊らせて、お前にどんな得があるというんだ」
「誰も、損得でばかり動かないわよ。東雲に振られたから悪い噂を流したいとか、単なる愉快犯とか、可能性は無限にあるでしょ。悪事のコストは軽いんだから、事実を慎重に測ることね」

 悪意か愉快犯かはわからぬが、沙羅をからかっているのは間違いない。

「ひどい……」
「どうでもいい話してた方が、痛みが紛れない?」

 まさかの善意であった。沙羅は酔いを感じはじめている。痛みは確かに、少し紛れたような気はするが。

「……失礼する。私はもう休む」
「そう、おやすみ。悪い夢を見ませんように」

 びっくりして、沙羅はずっと顔にあてていたタオルを外した。両目で女を見る。

 くわえ煙草の女は、片目で「何?」と不思議そうな顔をした。


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