蜂の残した針 17話
女が、小さな声で歌いながら洗濯物を干している。
万人受けする絵であるなあと、犬を散歩させていた西帝は感心して立ち止まった。明るい日差しの中、はためく白いシーツに、優しい歌声。まったく、魑魅魍魎の巣の中とは思えぬ、なごやかな風景である。
すてきだねえ、と犬にアイコンタクトをすると、何かの指示だと勘違いしたのか、ものすごい勢いで犬はシーツに突進した。
「うそっ! 待て待て!」
予想外の勢いであったため、握っていた首紐も手をすり抜けた。洗ったばかりであろうシーツに、肉球の形に泥がついている。
「こらっ! ああっ、すみません。どうしよう」
「あら、まあ」
色舞は微笑むと、しゃがんで犬を抱きすくめた。
「かわいい柄がついてしまったわ。よしよし、どうしたの」
犬は嬉しそうに尻尾を振っている。飼い主として陳謝した。
「すみません……俺が洗い直します」
「いいのよ、このくらい。兄のシーツだし、どうせ折り込む部分だし。ええと、名前はなんといったかしら」
「西方の帝と書いて、西帝です」
「存じています。この茶色いほうのかたのことよ」
「山の葵でワサビです……」
山の獣が齧っても吐き出すようにと、西帝の父が授けた名である。
色が舞うという名を持つ女は、まさしくそのように笑った。
「どうして字を説明してくださるんですか。ワサビ、かわいい名前ね。おすわりできる? お手は?」
おすわりとお手をきちきちとこなして、犬はドヤ顔をしている。
「俺だってできるし」
犬にマウンティングをするという、しょうもない内輪ギャグを反射的にやってしまった。姉と甥にウケるのだ。
色舞はウケずに、呆れた顔をしている。
「犬に対抗心を持っているんですか? あぶないかたね」
「そんな本気で引かれるとは」
「犬にも犬の苦労があるのに、できることだけ誇るなんて、浅はかな行いですよ」
「そんな本気で怒られるとは……」
犬は相手をしてもらってテンションが上がったのか、ぐるぐると色舞の周りを回りだした。喜びの舞である。
「元気いっぱいね。ごめんね、おばさんはお仕事をしているのよ。また今度遊びましょうね」
「おばさん!?」
顔を三度見してしまった。西帝はおじさんと呼ばれる身だが、それは続柄のことだ。
色舞は照れるように目を伏せた。
「お姉さんと自分で言ったら図々しいでしょう」
「でもそれ、もっと年上の女が立つ瀬なくないですか?」
「だから年上のかたがいる場では言いませんよ。だけど私も事実、いい年ですし、そろそろ和服でも着ようと思うの」
「そういう方向性なんですか? みなさん」
「兄は父のおさがりを着ているだけです。父は、従者に仕事を作るためじゃないかしら。私は若ぶっているのも年寄りぶるのも恥ずかしくて、和装なら自然にスイッチできるかと思っただけ。家族で合わせているわけではありません」
穏やかな声の女だ。それに聞き入っていたから、内容はあまり入ってこなかった。
犬は西帝の足元に戻ってくると、うーと小さくうなった。
「拗ねてんのか? 色舞さんにフラれたから」
「妬いているんじゃありませんか? 女の子なのでしょう。西帝さんのことが好きなのよね」
「うー」
犬と同じうなり声を出してしまった。さらりとあしらわれた気がしたのだ。
西帝がこの女を好いているという噂は、そこそこ広く浸透しているらしい。耳に入っているはずだ。
脈など無いことはわかっている。兄の愛人なのだ。それも、かなり長い関係の。
兄は女に対して誠実な男ではないが、需要と供給の一致ラインを測るのがうまい。適当に、適切に付き合っているのだろう。
色舞はシーツを洗濯ばさみで留めて、今度はタオルを干しはじめた。
「丁寧ですね、干し方。俺の干したタオルはくしゃくしゃになるんですけど」
「何か御用?」
牽制ビームを打たれたことを察して、西帝は「いえ」と犬を撫でた。話題を探す。
「なんだか、桐生が典雅様を怒らせたっていうのは……」
「あれは父が悪いのよ。怒らせておいて構いません。気になさらないで」
「でも、なんか失礼な口でもきいたんじゃないですか? あいつ、怖いものなしだから、犬以外は」
「身内の弱点を言いふらしてはいけませんよ。あの、女の服を干しますので」
「お手伝いしましょうか」
「いいえ、下着もありますから」
そういうことかと、西帝は自分の気の利かぬことを嘆いた。モテなさすぎるムーブをしてしまった。好感度が下がったに違いない。
「失礼しました……」
犬を連れて立ち去ることにする。
こいつの半分も歓迎されなかったなと、犬に嫉妬している自分に気付いて、西帝は大声を出したい気分になった。
わーっと叫びながら兄の部屋に入ると、甥がスマートフォンで動画を見ていた。兄は不在だ。
顔も上げず、すっかり渋くなった声で甥は言った。
「なに叫んでんの、叔父さん」
「別に! お前さ、典雅様のことさあ」
「それ百万回言われてるから、もう言わないでくれる? どんだけ話題が少ないんだよ。みんな俺と典雅様のことと、沙羅さんの結婚式のことと、叔父さんの横恋慕のことしか話してないよな」
「俺の話はその二大巨頭に並ぶ話題になってんの……?」
「赤ん坊のこと公開したら、トピックスも更新されるだろ。一番どうでもいい話から入れ替わるから、叔父さんはそれまでの辛抱だよ」
この嫌味っぽい話し方は、いったい誰に似たのだろうか。服についた犬の毛をガムテープで取りながら、西帝は考える。かわいらしかった頃ならば、まあ生意気ねと笑って済まされたのだろうが、この姿ではモラハラっ気として映る。
「お前、沙羅さんのこと好きなんじゃなかったっけ」
「子供の頃の話だろ。おっぱい大きい女なら誰でも好きだよ。叔父さんは小さい方が好きなんだね」
「色舞さんのことか? やめろよ、そういうこと言うの。気にしてるらしいし」
「可哀想だから気になるの? 親父と同じで」
こういったところは、エディプスコンプレックスの変形なのだろうか。身内だから許せるが、もしこの調子で典雅に失礼な口をきいたならば、兄が菓子折りを持って行かねばならない案件であろう。
しかし、説教などしたところで無意味だ。西帝はすべてを諦めて畳に寝転がった。両手と両足をバタバタさせる。
桐生は動画を見るのをやめた。
「なにダダこねてんの?」
「俺はモテない」
「気にしてたの?」
「否定してくれよ」
西帝と違ってモテる甥は、白い布切れを腹に掛けにきてくれた。
「姉さんの失敗作を掛けてくれてありがとう」
「どういたしまして。前髪切って、シワのない服着て、猫背やめれば?」
「モテるためのアドバイスもありがとう」
洗濯物をいい加減に干すから、服もシワだらけなのだ。桐生は高そうなセーターを着ている。前髪もきちんと上げて、背筋も伸びていて、顔が美しくて声に艶があるのだ。そりゃこの甥はモテるであろう。なにより身長が高い。
「お前ならシワだらけの服着てたってモテるだろうよ」
「そうだけど、叔父さんは俺じゃないんだからさ」
「は? 悔しいんだが?」
「叔父さんには叔父さんのいいところがあるって意味だよ」
身内に対しては口の悪い桐生が、珍しく常識的な世辞など言っている。よほど落ち込んで見えるのだろうか。
「お前でもそんなどうでもいいこと言うんだな」
「気を使ってんのに、どうでもいいって」
「嫌いだろ、中身のない言葉が」
「俺のイメージが子供の頃から更新されてないよね。もうそんな尖ったこと言わないよ。中身のない言葉でもないし」
「なんの動画見てたんだ? エロいやつ?」
「おっぱい大きい女が料理作るやつ。エロいといえばエロいけど、料理もうまい」
昔から女の胸が好きで、最近は料理を始めたのだったか。世の中には完璧なサプライが存在するものだ。
西帝は、女の胸の大小は気にしない。大きければちょっとラッキーという程度だ。顔の美醜にもあまり興味がない。
行動力のある女が好きだ。それは、大きな決断をするタイプという意味ではない。毎日決まったことを決まったように続けるとか、しなければ立ちいかぬことを見切るとか、そういう意味だ。必要なことを承知し、そのために身体を動かせる女がよい。
スパルタの師に耐えられるのも、師がその条件を満たすためかもしれない。女ではないが、男だとも感じない。西帝は師の、素早く行動に移す性分を立派だと思っている。
桐生は最近、やや厄介な師をあてがわれた。胸は大きいのだが。
「此紀様は大丈夫なの?」
「それもみんな聞くね。大丈夫じゃないよ、ご存じの通り」
「面倒ならやめちゃえよ。親父もお前にそこまで無理は言わないだろうし」
「面倒でも無理でもないよ。愛してる」
「なんて?」
「愛してるんだよ」
冗談だと思ったのだが、面白くはないので笑えなかった。桐生がこんな言葉を発するのを聞いたことがない。愛?
桐生はどうやら、西帝が笑わなかったことに安心したらしい。解かれたことで、甥が緊張しながら言っていたことに気付いた。
つまり、冗談ではなかったらしい。
「愛してんの……?」
「うん」
「いちばん胸がでかいから……?」
「和泉さんのほうが大きいよ。理由なんて、意味ないだろ、説明しても」
「まあ、そうだな」
西帝はアーモンドを焼いて砂糖をかけたものが好きだ。理由はない。うまいからである。白威がたまに作ってくれるそれを、より多く食いたいので、うまさを布教しようとも思わない。
色舞の歌声が愛らしいということも、誰かに話す意味はない。別に、話して価値の落ちることだとも思わないが。
「愛してんのかあ」
自分の口にも馴染みがないので、なんとなく繰り返してみた。外国語の域である。
桐生は珍しく、目をそらしてつぶやいた。
「変かな」
「変だな」
「──うん」
「あ、違う、そうじゃない。お前が、変かどうかを気にしてるのが変だと思ったんだよ。いちばんどうでもいいだろ、愛が変かどうかなんて。なに、なんか、悩んでんの?」
聞いてから、悩んでいないわけがないと思い至った。桐生の愛している女の状態は、周知の通りなのである。
西帝は身体を起こした。けっこう大変なことが起きていると気付いたのだった。
酒を飲まずにいられないのかあ、ふうん、大変だなあとだけ思っていたことが、突然、自分の家族の距離にまで接近してきたのだ。
「もしかして、典雅様とどうこうっていうのは、そのことで?」
「──うん」
「奪るのか?」
美しい青年となった桐生は、「そのつもり」と答えた。
これならば奪れるかもしれない。叔父の欲目を別にしても、そう思うような、強い意志で発された男の声だった。
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