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蜂の残した針 35話


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 刹那の所有する私財は、現金に換算すると、四億円に満たないのだそうだ。

 青柳桜子にどう相談しても、試算の上方修正は行われなかった。むしろ、最大の目算でそれなのだという。不動産の売却に失敗すれば、三で御の字ということにもなりかねないらしい。

 三人の孫、そして二人の従者に相続させることを考えると、けして余裕はない。経済力というカードを自分は手にしていないということを、刹那は正直に述べた。

「四億も持ってたら大金持ちに思えるけどね。宝くじ当たってんじゃん」

 素朴そのものの感想を漏らす右近の金色の髪は、毛先が荒れている。おそらく自分で安価なブリーチ剤を使っているのだろう。金の掛からなさそうな女である。

 教養がないわけではなさそうなのだが、土地や財政、株式のことはわからぬらしい。刹那はなるべく話を短くまとめることにした。

「俺が金で責任を果たせるのは、孫と従者でぎりぎりということだ。余剰はない。札束をもってして、長老の頬を引っぱたくことはできない」
「寿命レースしかないってこと? 先に死んだら負けの」
「分が悪い。俺は肺も食道もガタガタで、風邪でもひいたら一発だと言われている。雨に濡れるだけでも死にかねない身だ。向こうは、滝を浴びに行くほど心身が充実しているのに」

 それに、友の死を望んでいるわけではないと話すのは、脱線だろう。別の方向に展開させる。

「金で解決できない以上、数で戦線を組むよりない。幸いと言っては何だが、大きめの障害も除かれたタイミングだ。票をまとめるなら今だと思う」

 右近は三白眼で宙を見上げ、指を折っている。幹部会の議席の数を数えているのだろう。

 豪礼の座が空いた今、決議において有効票を持つのは、長老弥風に刹那と、神無に万羽、克己、典雅、和泉と沙羅で、八名である。住まいを移した宣水と此紀は権利を失している。

「向こうが長老と万羽、克己と沙羅よね。そっか。今ぴったり、四対四か」
「いや、四対二と無効票二なのだ。典雅の票はこの件について勘定されず、神無についてはお前も知っているだろう、数えられる状態ではない」
「ああ……アンタが死んだら、和泉だけか。勝ち目ないわね」

 和泉の議席は、宣水の代行として形ばかり作られたようなものだ。実際上は無視されているに等しく、和泉自身も望まれた時のほかは出席しない。

「沙羅はわりと話が通じると思うけど。まずそこに当たったほうがいいんじゃない?」

 沙羅と同じ師に茶を習ったという右近は、そう言ってから、自分で気が付いたらしく「だめか」と言った。

「恩を裏切れるタイプじゃないもんね」
「そうだ。沙羅の票は常に克己とセットで、つまり向こうは二セット四票を固定で有している。これに豪礼の票が計上されて五で、挑みようがなかった。今、少しだけ活路が開いたということだ。お前が──」

 襖が開いて、ティーセットを持った和泉が戻ってきた。

 刹那と右近の前に紅茶のカップを配して、和泉は自分もカップを手にすると、師の隣に腰かけた。右近が背筋を軽く伸ばして「ありがとう」と言う。茶の東西は違えど、喫茶の作法を習った者はやはり佇まいが違うなと、刹那は無作法に茶を啜りながら思った。

 和泉が妻の距離でささやいてくる。

「お話はどこまで?」
「主旨はだいたい伝えた。茶が遅いのだ」
「失礼しました。蘭香さんが先に台所にいらしたので、ケトルが空かなくて」

 昔は言い訳をする女ではなかったが、この変化を刹那は好ましいものだと思っている。プラスチックの人形のようだった女は、自己主張を覚え、権利を知ったのだ。百年をかけてようやく。

 だから今、妻は夫に賛意を示す。喉を傷めている刹那よりも、はるかに澄んだ美しい声で、和泉は右近に乞うた。

「幹部会に入っていただけますか。典雅様のお嬢さんの待遇を改善するために。今のままでは、刹那様が亡くなった途端に、もっと非道な措置をされかねません」

 右近は紅茶に口をつけた。

「おいしい。これはダージリン?」
「すみません、銘柄は。父の土産で、高級そうな缶に入っていたので、いい茶葉だとは思います」
「カップが温めてあって、丁寧に淹れたのがよくわかるわ。急かす師じゃなくて、アタシのことを考えて淹れてくれたのかしら」
「それは──すみません、癖で。そこまでは考えていませんでした」

 そうだと言っときゃいいだろ、点数を稼げ、と刹那は思ったが、顔に出さぬよう努力をして茶を飲んだ。和泉は政治が下手だ。それは、当たり前のことである。和泉の議席はお飾りで、参政権など与えられていないに等しいのだから。

 右近はカップを置いた。その視線が畳の目を数えていたから、刹那は先行きを察した。

「言い方は考えてくれなくてもいい。結論はどうか」
「あー。正直なことを言わせてもらうと、それだけ分の悪い対立に参加するのは、アタシは気が進まない。長老が今さら武力に訴えてくるとは思わないけど、克己と意見をたがえるのは、正直かなり、アタシの立場としては」
「武力の行使については──」

 まだしも取っ掛かりのある方を言い添える。

「豪礼から引き継いで、皇ギが監視している。半世紀前のような無法地帯ではない」
「だからアタシも、それはそう思ってるけどさ。半世紀前まで無法地帯だったような小さい共同体で、波風を立てたくないのが本音よね。その監視機関が、典雅様のお嬢さんの待遇を見ておくことはできないの?」
「監視機関も、武力に訴えない長老を相手には波風を立てたくないと思う。興味のないものの処遇には口を出さないだろう」
「なんで長老は、憐れで無力な娘に対して、そんなに興味が津々なのよ」

 嫌悪に理由などあるものだろうか。刹那はてっきり、自分がそう答えるものと思っていたのだが、自分の声は別のことを言った。

「あいつは気に入らないのだ。障害を持つ娘が、保護されて豊かな余生を暮らすことが。あいつの血筋には知覚の障害が多く、そうした者は蔑視され、早く死ぬことも多かった。差別された者は、そのことをけして忘れない」

 反論や批判があるかと思ったが、右近は何も言わなかった。

 だから、和泉のつぶやく声がよく響いた。

「オランダ女のハーフと、障害を持つ娘と、病に罹患した者を、あの寒い離れに押し込めて、自分は差別をする側になったと思って、憎しみを癒してきたつもりなんでしょうか。今の年まで癒えていない時点で、誤りだとは気付かなかったんでしょうか」

 言葉にすると端的で、愚かさを強調する。実際はいくらか複雑なのだろう。弥風はけして自分の胸の内など語りはしないから、刹那や和泉の解釈そのものが、まるで的を外しているのかもしれない。

 目に見えぬことを、勝手に解像しても意味はないと刹那は思っている。考えるべきは朝露の境遇悪化についての対策であり、友の語らぬうみのことではない。

 右近はまたカップを持ち上げて、唇を湿らせると、小さな声で言った。

「花苑は最近、手に力が入らないことがあるんだって。知ってた?」
「いや──力が入らないとは、どういう?」
「急に腕が重くなって、冷たく感じることがあるらしいの。肩に傷があるじゃない。そのせいかもって言ってた。あの子は傷のせいで、姿を変えることもできないから、子供も作れないし、長くも生きられないんでしょう」

 和泉が、知らなかったという顔で刹那を見た。患者のカルテは医者と薬師しか閲覧できないよう、棚に鍵をかけて管理している。
 子供の頃に大きな傷を負った花苑の予後については、父親にのみ説明していたはずだ。今の花苑本人がどれほど承知しているのかは、刹那は知らない。花苑は身体を見られることを嫌って、此紀の診察も最小限しか受けたがらなかったらしい。

 右近は、かたきを睨むように刹那を見た。

「アンタの理屈で言うと、花苑も酷い目に遭わされるっていうこと? 手がもっと悪くなったら、その傷か憎しみかトラウマか知らないけど、その八つ当たりで、障害があるのに生きてて気に入らないなんて、そんなことを言われんの?」

 友の擁護ではなく、未来の対処を行うべき刹那は、予想を述べた。

「そうだと思う」
「馬鹿すぎる。神無のほうがまだ執政能力高いんじゃないの? チッ──だからアンタの寿命なんていう、倒壊寸前の防波堤に全部が懸かってるっていうことね。でも、四対二にアタシが入っても、結局アンタが死んだら差し引き一緒で、四対二の維持じゃない。そりゃアタシは、そんな馬鹿の方策には反対するけど、長老はアタシらの言うことなんか聞きやしないんでしょうよ」
「克己は必ずしも長老の味方ではない」

 不可解げに右近が眉をひそめる。

「そこの票は長老が持ってるって言わなかった?」
「克己は、勝ち目のない側にはつかないだけだ。あいつは対立状況の拮抗も見る。沙羅が、心情的にはこちらの味方だということも当然理解する。そして、それでいい・・・・・のだ。今の長老は負けそうな天秤には乗らない。三対三か、悪ければ二対四になりそうならば、横車は通さない。自分の買ったヘイトが、自分の死後、万羽の肩に乗ることがわかっているからだ」
「数にビビってんの? あんなイケイケのくせに」
「寿命にビビっているのだ、俺と同じで。だから俺が生きているうちに、こちらを三票にしたい。豪礼の後釜として皇ギが幹部入りするとか、そういう話が出る前のほうがいい」

 極言すれば、克己に負け戦だと判断されないための、ハッタリとアピールの戦術だ。

 軽く挙手して、和泉が発言した。

「万羽さんが、沙羅さんの取り込みに動いている可能性があります。あまりのんびりはできません。天秤がそちらに傾くと、もう取り返すのは……」

 これは、右近を説得するための方便でたらめなのだろうか? 初めて聞く話に、刹那はそう思ったが、やはり顔には出さぬよう努めた。

 右近は紅茶を飲み干して、空になったティーカップを両手で包むようにした。

「ごちそうさま。返事は少し考えさせて」

 この女が考えることは、いつでも一種類だということを知っている。

 和泉の横顔が、ガラスケースの宝石を見るようなそれであったから、自分が買ってやれるものであればよかったのにと、刹那は考えている。



 色舞がガラスの器に入れてきたリンゴを一切れだけ食べて、朝露はフォークを持ったまま困ったような顔をしている。

「あまりおいしくなかった? いいのよ、おしまいにして。あねさまが食べるから」
「ううん……」

 朝露はイエスもノーも、自分の意志をあまり表明しない。すれば、叱られたからだ。

 色舞も父も、この娘に対して数多くの酷いことをしてしまった。強くしつけけなければいけないと思っていたのだ。せめてわがままを言わぬ、おとなしい人形のようにさせておかなければ、もっと悪い目に遭わされるということがわかっていたからだ。自分たちではなく、朝露自身がだ。

 妹の手を取り、器とフォークを受け取る。

「お散歩に行きましょうか? 野いちごを摘んで、それともお花の輪っかを作る?」
「あめがふるから……」
「お天気よ? お外へ行くのはいやなの? それなら、ご本を読みましょうか」

 朝露の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれてきたので、色舞は驚いて息を呑んだ。

「ど、どうしたの? どこか痛いの? あねさまに教えてちょうだい」
「これのりさまはなんようびにくるんですか?」
「え? あっ……」

 精進落としの時に久しぶりに会ったことで、また恋しくなってしまったのだろうか。色舞はガーゼのハンカチで妹の涙を拭ってやりながら、なるべくゆっくりと言った。

「前にもお話したでしょう。此紀様はご病気を治すために、病院に通われているのよ。治ったらまた会えるわ」
「ずっとびょういん……」

 うまく説明する言葉を、どうしても色舞は思いつかない。アルコール依存のことも、それは治るものではないということも、きっともう、何度も会うことはないということも、朝露に理解させるのは難しいだろう。

「寂しくなってしまったのね。でも、病院に行かないと良くならないのよ。此紀様がご病気のままだと、嫌でしょう」

 朝露はぽろぽろと涙をこぼしながら頷いた。

「ごめんなさい……。あさのせいで、ごびょうきわるくなった?」
「え? どういう意味?」
「あさが、びょういんやめて、あさのおへやにきてほしいとおもったから……」
「ううん、そういうシステムじゃないのよ。朝露は何も悪くないわ。此紀様も、どんどん良くなっているそうだし」

 嘘をついている上に、正しい道理システムの説明の仕方もわからない。困って、色舞はリンゴを食べた。香り高いが少し酸っぱい。蘭香から分けてもらったものであるから、菓子向きの品種だったのかもしれない。

 なんだか、色舞も悲しくなってきてしまった。甘くもない果物を剥いて、妹に気を遣わせて、泣くのをなだめてやることもできない。父はこのところ気落ちしていて頼りないし、兄は珍しく女になど夢中らしく、色舞が話しかけても上の空だ。シーツを洗濯したいのにドラム式洗濯機はなかなか空かないし、新しい靴で猫に爪を研がれたし、また燃える家に閉じ込められる夢を見た。

 それに昨日、男がドヤ顔でくれたプラダの箱に入っていたのは、ボディバッグであった。買うなとあれほど言ったのに、しかも、なぜ肩掛けのレザーバッグにしたのだ。色舞の服装に合うと少しでも思ったのだろうか? 

 朝露には仕組みが、父や兄には心が、男には話が通じない。全員から愛されていることはわかるのに、色舞は息が苦しくなる。

「あねさま、あたまいたい?」
「違うの……。どこも痛くはないのよ。リンゴが酸っぱかっただけ」
「あさがたべるから、あねさまなかないで……」

 泣いたっていいじゃない。私は、泣くなとあなたに言っていないわ。

 色舞は、その言葉をこらえるために下唇を噛む。



「泣いてもいいんですよ」
「お前の許可制だったのか?」

 即座に正論で叩き落とされて、即座に東雲は「すみません」と謝った。

 墓という名の、均された地面にしゃがんでいた沙羅は、持参した和菓子の包みを持って立ち上がった。

「すまない、付き合ってもらったのに。お前に悪気がないことはわかっているのだが、泣くなとか泣いていいとか、お前の気分で禁じられたり許可されたりするのは、なんだか変だと思っただけだ」
「泣くななんて言いました? あー、言ったかな」

 しかし、別に気分で禁じたわけではない。言ったとすれば、公衆の面前で泣くなという意味である。泣き顔というのは、裸のようなものだろう。周りに見せるものではないと思ったのだ。

 だから、ほかに誰もいない墓でなら泣いてもいいぞと言ったのである。それでも、自分が間違っていたのだろうと東雲は納得した。浅慮だから反省も早いのだ。

 屋敷の裏手を少し上がったところにある、周りをいくらか拓いただけのこの土地は、墓というよりは、骨の遺棄場だ。多くの骨壺が埋まっており、東雲の祖父もここに眠っているらしい。しかし沙羅が菓子を供えた相手は、ここにはいない。

「その菓子は持って帰るんですか?」
「そうだ、腐るから。私とお前で食べてしまおう」

 薄い和紙の包装に、商品名が透けている。草餅だ。紙と箱を挟んでいるとはいえ、地面に置いたものを食うことに、東雲は薄い抵抗を感じた。そう神経質なほうではないのだが、草餅というのはそもそも土の味がする菓子だから、ちょっとなあと思ったのだった。

 自分と妹弟子は、別の方向に無神経であると、東雲はわりと高い頻度で考えている気がする。師もそうだ。繊細さに欠ける一門なのである。

「俺はいいんで、克己様のお茶の時にお出ししときます」
「土に置いたものをお師さまに出すのは失礼だろう」

 おや、自覚的に東雲を低く扱っていたらしい。まあ、身内と判定されているのだろう。東雲はたいして気にせず、「そっすか」と言いながら包みを持ってやった。

 屋敷への道を歩きながら、沙羅は言った。

「森の中で木に隠れていれば誰にも見られないが、こうして拓いて、空が見えるようにしていると、監視されてしまうらしいな」
「頭にアルミホイル巻きますか?」
「GPSの話だ。だから極力、森は拓かないことになっている。ログハウスの一つも建てて、優雅に暮らしてみたいものだが」

 東雲は無知だが空気を読める方なので、内容ではなく意図を理解した。

「窮屈ですか? 家」
「あまり被害者ぶるつもりもないが、嫌なことはあっても、楽しいことのない家だろう。封建的で、閉鎖的で、私のような文明的な女には合わないな」
「そうっすね」
「今のは冗談だとわからないか? 私は誰よりも封建的で閉鎖的で、あつらえたようだという意味だ」

 女のテストはこれがあるから難しい。東雲は笑って流した。

 沙羅が空を見上げる。少し暗くなり始めていて、雨が来るかもしれない。

「私はあの古い家で暮らして、少しばかり法を変えて責務を果たしたような気になって、いつか子供を作ってレールを繋ぐのだろう。廃線した方がいいような、何百年も前に作られた、このレールを」
「正直な返事していいですか? その話、全然興味ねえ」
「私も自分で言っていて、陳腐で退屈な話だと思った。おもしろい話をしてくれないか」

 けっこう無茶振りだと思ったが、話題を提供することにする。

「モデルが合コンに来ると、男は喜ぶけど、女はテンション下がるそうですよ」
「女のモデルということか?」
「異性のモデルです。男は身の程知らずだから、モデル相手にもチャンスだと思うけど、女は自分なんて相手にされないと思うらしいです」
「人それぞれとしか言えない話だと思うが。男は、女に美しさを求めるが、女はそんなものより、安定した収入や誠実な性格を求めるという話のような気もするし。女は分を弁えているというより、求めるものが多いのではないか」
「モデルって安定した収入と誠実な性格を持ってないんですか?」
「カリカチュアとしての称号かと思ったのだ。美しさと栄誉に振った、それ以外を問われにくい存在という」

 沙羅の言うことはいつも小難しく、本質的だ。ちょっとした雑談にも素早く、そして強く切り込んでくるから、男にモテないであろう。この女が合コンに来たら幹事の信用は落ちる。
 大抵の男は、無難な性格の女を好むものだ。おもしれー女を求めるタイプは自信家だろう。東雲はそう思っているから、沙羅に遺産を継がせるジジイというのは、厄介な男なのだろうなと思っていた。

「それに今、美しさというのは金で買えるのだろう」
「整形みたいなことですか? そうですね、俺の女も目とかいじってる気がするし」
「美しさや醜さは生まれつきのもので、自分の責任ではないが、性格は違うというのが昔の主流的な見方だったろう。でも当時から、そうかなと私は懐疑していた。性格のほうがよほど、自分の意志などでは変えられない。パンと手を叩いて、その瞬間から、陰口を気にしない性格に変わることはできない。できる者もいるのかもしれないが、私は、愛する男を替えることもできなかった」
「つうか、心だって肉体が生んでるモンなんだから、そりゃそんな都合よく変えられはしないでしょ。腕よ生えろとか思っても、三本目が生えてくるわけねえんだから」
「脳が錯覚を起こすだけで、三本の腕を生やしているという幻覚は得られる。そうできたら効率的だろう。自分の見る幻覚が、世界というものなのだから」
「三本の腕ってそんな絶対的に良いモンなんですか? 心をメスで切って整形したら、取り返しがつかねえから、脳の手術は違法になったんでしょう」

 沙羅は立ち止まり、ほうというように東雲を見た。

「違法なのか、心の手術は」
「そうだったと思いますけど」
「そうか、だから覚せい剤も違法なのか」
「それが違法な理由はまた違うような気もしますが、いや、どうなんだ? 知らねえけど。心を手術したいんですか? あなたが」

 これほど清く正しい心の持ち主も珍しかろうに。

 沙羅はまた歩き出した。

「私が良かれと思ってしたことが、誰かに負担を強いることが……多いような気がする」
「ああ」

 プロパンガスのことを想起して、肯定寄りの相槌を打ってしまった。

「育ててもらい、養ってもらったから、今度は自分が体制に携わろうとして……長いものに巻かれる慣性を強めている。無能な働き者という言葉がある。私のことだ」
「そんな卑下することはないでしょ。働き者は立派ですよ」
「正しい皿がどちらなのかもわからないのに、自分の体重を乗せてしまう者は立派か? それをしないようにしている右近の方が、よほど立派だ」
「あいつは自分と隣人にしか興味ないだけですよ。そんないいもんじゃねえと思う」
「自分も隣人も救えないのに、体制に属して正義を成そうとする心の構造を、メサイア・コンプレックスと呼ぶのだそうだ。メサイアにはなれず、コンプレックスの重みで誰かを圧する。私の心のありようは醜い」

 ノイローゼのような状態になりかけているのだろうか? 愛する男を喪ったことが、おかしな形で心を歪ませているのだろうか。

 沙羅の肩をつかんで立ち止まらせる。キスはしなかった。このところ拒否されているからだ。

「おかしなこと言ってますよ。体制って、幹部会とかのことですか? なんかあったんですか」
「金を得れば、発言力も得られると思った。長老や万羽は、私などよりもっと金を持っているのに」
「金の話? すみません、それは力になれねえけど」
「勇気の話なのかもしれない……」

 沙羅は、東雲の胸に額を預けてきた。吐息が伝わってくる。涙も。

「お師さまに嫌われるということは、お前を失うということだ。私は、その勇気を持つことができない。弱い女だから」
「俺?」

 内容を理解できないまま、意図だけを理解して、東雲は妹弟子の頭を抱き寄せる。



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