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蝶のように舞えない 15話


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 水曜を迎えるたび、和泉は少し、情夫のことを考えるようになった。
 おそらく訪ねてくるだろう。そのことよりも、彼がもたらした秘密のほうが、遅効性で和泉の心を疼かせている。

 凶事は、秋の水曜に起きるのだそうだ。情夫はそれなりに信じているらしい。

 範囲を知りたいと、和泉は思う。千里眼であっても犯行予告であってもだ。

 凶つことが、かの血筋に限って起こるのであれば、転じて、その敵にとっては吉祥となるのではないだろうか。
 しかし土砂崩れの予知であれば、願うべきではないということになる。

 そうでなければ願うのかと、そう考えて和泉は鏡に映る自分を睨んだ。

 情夫にもその弟についても、同情している。しかし自分はどうやら、彼らが犠牲になるとしても、長老が健やかに暮らすことを望んでいるらしい。

「冷たい女……」

 鏡に向かってささやく。

 この行為は、かなり精神の摩耗を現わしていると考えた。白雪姫の母がどれほど追い詰められていたのか。哀れな女であると思う。

 和泉はさほど容姿を気にするほうではないが、鏡像を己と切り離して眺めてみると、美しいとは思う。減点法の百である。欠点がない。だから化粧をしたところで良くなるわけでもなく、和泉は甲斐を感じない。

 透明の化粧品をいくつか使い、あとは目元にわずかな陰をつける。
 安価な薄い服を着て、髪をクリップで上げる。爪は切るだけ切って何もしない。色気というものが、意思によって発されるものであるならば、自分はなんとそれに欠く女かと思う。

 こんな女を抱きたいと思う男がいるのだから、わからぬものだ。白い肌がよほど好きなのだろうか。

 ガチャガチャと音を立てて部屋の戸が開いた。この部屋は施錠する必要があるから、洋式のドアを取り付けている。

 長老と呼ぶにはあまりに儚い、浴衣姿の美少年が入ってきた。

「また痛み止めがなくなりましたか?」

 ドレッサーから立ち上がって、診察用の椅子に移動する。刹那は正面の丸椅子に腰掛けた。

「雨が降ってきたから、怖くて来ただけだ。蘭香は出かけているから」

 刹那はこのところ雨天を怖れる。雨音を嫌う認知症患者はいるものだが、難儀なことであると思う。雨から完全に逃れる生活というものは難しい。タワー型のマンションに住んでいても、居住空間には必ず窓がある。消防法で決まっているからだ。

 この部屋の窓には遮光カーテンをかけているから、他よりはましなのかもしれない。

「何か飲みますか?」
「ここにいて~よ」

 なぜか関西風に甘えてくる。

「棚に常温の水がありますが。ペットボトルの」
「そんなもんわざわざ飲みたいやつはアスリート以外にいないだろ」
「アスリートはそうなんですか? YouTubeでも見ましょうか。見たあとに呪われるタイプの怪談とか」
「お前の動画の趣味どうなってんだ」
「何本も見ましたが、呪われたためしがないんですよ。実績がないのに見る者を怖がらせる、この謎の威力のことを呪いと呼ぶのではないでしょうか?」
「そして、そんな動画をわざわざ作ったろという悪意のことだな。視聴回数を稼いで広告収入を得るためなのだろうし、悪意ってんでもないか」

 かつて「美しすぎる薬師」としてチャンネルを開設しようとしていた長老は、それを止めた女のことを考えたようだった。

「皇ギだが、なんとかならんか。不動産屋から電話が来ている。あいつ街のアパートから店子を追い出して、建物を売ろうとしてるぞ」
「売るほどの価値がある物件なんですか?」
「一番価値の高いアパートでやろうとしている。蘭香に相続させようと思っていたヤツだ。普通に俺の資産を横取りしようとしている。俺の私財で買ったということはあえて記録していないから、なんもできん」

 記録していないところを狙いすまして取ろうとしているのだろう。

 和泉は声を落として、愛する呆け老人に告げた。

「上の弟を落としています。しばらく待ってください」
「ほう! やるじゃん」
「別に悪意で近付いたわけではないんですが。必要なら、操作します」
「ありがたいのだが、皇ギは司令塔だろう。ショッカーからハックするのは難しい気がするな」
「そうですね。弟さんに罪のあることでもなし、それは僕の心も痛みます」

 皇ギが人質交渉に応じる女かどうか、試さなければわからない。そして試した時点で、少なくともこの長老の命はないだろう。誰が仕掛けたとしても、反撃の大義名分を与えることになる。

 美少年とも、最長老とも思えぬ、脂ぎった中年のような視線が和泉の胸のあたりに向けられた。

「その肉体をもってして篭絡、というやつか」
「なぜ官能小説のような言い方を……」
「此紀ほど色気があるというわけではないが、金髪趣味がちょっとでもある男なら、お前に来られたらもう篭絡されるがままになるしかないな。罠とわかっていても、その餌を食えるのなら」
「別に毒を入れてはいません。僕の身体を食べることで少しでも心が慰められるなら、そうしてやろうと思っただけです」
「いやあ、お前が食わせてくれるんなら、夢中になっちゃうだろ。慰安の逆だ」
「そうなってしまったようですね」

 もっとも、あの男が求めているものは、和泉の身体というよりも、偶像だ。お姫様らしい見かけの女ならば誰でもいいのだろう。
 王妃に命令されることに疲れているから、弱い者を守ってみることで、自己肯定感を高めようとしている。悪いことではない。守られる側がストレスを感じないのであれば。
 和泉は冷たい女であるから、感じずに済んでいる。彼の弟はそうではないだろう。

 白雪姫の登場人物で、狩人というのは、弱さと善良さの象徴である。彼の苦悩がなければ物語は成立しない。騎士ではないから、救えない。逃がすだけだ。

 しかしその行いは、正面衝突よりもはるかに有効で、尊いことであるように思われる。

「もうちょい若くて元気なうちに、お前を抱いていたらよかったな」

 美しい長老が、惜しむようにそう言ったので、和泉は考えていたことを忘れた。

「そう思ってくれますか?」
「いや実際、時間が巻き戻ったとしても抱かないと思うが、他の男が抱いていると思うと悔しい。典雅に先んじられたことを今でもキーッと思っている」
「一世紀以上もそんなことを……」
「お前の最初の男にも、最後の男にもなれなかったことが切ないのだな。お前の父親と違って、こういうことをステキな言葉で表現することができないのだが」
「いいですよ、そんなことはしてくれなくて」

 和泉の父の言葉は、なめらかで甘ったるく、後に残らない。外の国で暮らし、たまに戻っては、和泉の美しさを称えて目を細める。
 あの男のことを、和泉は愛してもいないし憎んでもいない。もっとも会う頻度の低い親戚に、愛憎を抱く者はいまい。

 和泉が愛する者は、目の前の長老と、兄弟子だ。姉弟子は亡くなってしまった。憎んでいる者はいない。そんな感情を持つほど濃厚な関係を誰とも築いてこなかった。和泉の世界はほぼ同門で完結していたのである。刹那は違うが、元服までは親に近いことをしてくれた。

「身体を交えなくとも、あなたのそばにいます。あなたがそうしてくれたように」
「ありがたいのだが、せめて典雅の擁護を受けてくれんか。今のままでは俺の葬式でお前が刺された時、復讐する者がいない。タダで買えるのなら、買うだろう。タダじゃないものも買い叩いているのだから」
「まさしく僕の命なんてタダです。あなたならともかく、僕を刺したところで一円にもなりませんよ」
「あの女が不気味なのは、損得ばかりで動くわけではないところだ。美人の性根の悪さは知れたもの、とか言うだろ。あの女に限っては適用できない。美人なのにメチャクチャ性格が悪い。醜い女を凌駕している。何が生む暗黒なんだ、あれは」
「心の傷では?」
「じゃあ誰にもどうにもできない。ますます、お前に後ろ盾が必要だ」

 後顧を多く憂えている長老は、ふと思いついたように眉間を寄せて言った。

「右近という手もなくはない。たとえば東雲はどうだ? 操りやすいタイプだろう」
「僕に気があります」
「いいじゃん。身体を使うことにためらいがないのならば、落としておいたらどうだ。お前の身の保険のために」
「どうもあなたの図画からは、嫉妬や愛という感情が抜け落ちていると思いますが。あまり手を広げると、思わぬところに復讐の芽が生えるのでは? 東雲さんを手先にされて、右近さんがいい気持ちになるわけはないでしょう」
「右近は受動タイプの愛使いだろ。牽制するが復讐はしないと思う」
「槍使いみたいな言い方を……」

 しかし、一考には値する案かも知れない。

 陰謀への対抗もまた、陰謀で成すしかないらしい。このところそうよく考える和泉は、しばらく黙って、遠くの雨音を聞いた。



 手のひらにおさまるサイズの、一見して薄型の電卓に見えるものを、右近はUSBケーブルでノートパソコンに繋いでいる。パソコンにはさらに有線のイヤホンを接続していた。
 実際、電卓としても使える。誰かに拾われても、同型のものを使ったことがなければ、内部に隠された装置の用途には気が付くまい。ケーブルの差込口も、外蓋をスライドさせた内部にある。

 今、手元にあるのは三つだ。沙羅の部屋から回収したもの、西帝の部屋から回収したもの、なんとなく車のダッシュボードに入れておいたもの。

 電池はさほど長く持たない。だから、出入りのしやすい場所に置いている。とにかく小型であること、発見されても誤魔化しがきくことを重視して選んだから、遠隔で音声を飛ばすような機能も持たない。一定以上の音量を感知したら、録音するだけだ。

 同機能のペン型のものが、なんと昼間のテレビ通販で売られており、まあ世も末だわと思ったものである。会議などの録音にといううたい文句であったが、どう考えても、夫の浮気調査を目的として販売されていた。昼に通販番組を見ている者は、会議に使う録音機を探してはいまい。手動ではなく、自動感知による録音というのも、仕事の場にはそぐわない。職場で使うとして、パワハラの証拠を拾うものであろう。

 無音の時は録音されないのが売りであるから、すぐに三つすべてを聞き終えた。電池はすでに新しいものを入れてある。

 再生する時はいつも軽く緊張する。特に、西帝の部屋のものだ。あの血族の者は怪物じみた勘を持つから、ある日皇ギの声で、こちらに宛てたメッセージでも吹き込まれるような気がしてならない。

 盗聴器を仕掛けておいて、相手のプライバシーがどうのと考えるのもおかしな話であるが、一応、濡れ場の気配があれば飛ばしている。そこでこそ重要なことが語られる可能性も高いと思うが、それならば得られなくともよいと判断している。
 沙羅の部屋においては時々ある。西帝の部屋ではまったくない。多少は覚悟していたのだが。右近は、もし息子が全盲になった時には、街まで下りて風俗店に付き添ってやろうと思っている。

「いかがですか?」

 テーブルの向かいで静かに洋書を読んでいた甘蜜が、文字列から目を離さずに聞いてきた。

 パソコンで簡単にメモを取りながら答える。

「秋の水曜、未だ訪れずね。今年じゃないんじゃない?」
「残念です」
「仕掛けるなら金曜かもね? 木曜はまだ水曜の警戒を引きずってるかもしれないから」

 甘蜜は笑って、本を閉じた。

「何を仕掛けるとおっしゃるのですか」
「何がいいかしらね。爆発物?」
「即時で炸裂する手榴弾でさえも、あの化け物どもは拾って投げ返してきそうではございませんか? とても怖くって」
「そうよね。電卓は長老の部屋にも置いときたいけど、孫娘が目ざといからムリよねえ。綺麗好きだから、置いたところでどっかしまわれるだろうし」
「目の視えない方の机に置いてある分は、どなたも気にされていないのでしょうか」
「視えた頃の本とかパソとかガジェットとか、ごちゃごちゃに積んであるから、陰に置いといたら気付かないと思うわよ。今までは気付かれてない」

 半年間気付かなかったものを、今さら見つけるとも思えない。見つかったとして、捨てるか片付けるかするだけだろう。それはそれで仕方がない。運よく皇ギの部屋に運ばれたとして、その時には電池の寿命が切れているだろう。あまり多くを期待しておらず、だから成果がなくとも気にしていない。

「しかし千里眼ってのは、扱いが難しいわね。自分が何を知ってて何を知らないか、ごちゃごちゃになるし」
「あの薄気味悪い予言ですか」
「いや、そうじゃなくて、これを千里眼とした場合ね」

 電卓を軽く弾いて、666と入力した。縁起が悪いと気付いて、消して4649にする。

「うちのバカ息子でも盗聴を疑うんだから、滅多なこと喋れないわね」
「東雲さんが気付いていらっしゃるのですか?」
「本気じゃないとは思うけど。アタシには扱えないわね、予知とか予言とか千里眼。一瞬で魔女裁判にかけられて有罪になりそう」
「私が弁護に立ちますわ」
「サンキュー。でも引っ立てられた時点でアタシは逃げらんないんだから、アンタは逃げてよ」

 これは別に自己犠牲の精神などではなく、合理というものだ。どうせ死刑が決まっているのに道連れを作っても仕方がない。

 右近はおおかたのことを割り切っている。沙羅にも口出しを断られ、目の前の甘蜜も話し相手以上のことを右近に求めはしない。

 唯一、あらゆる誘導尋問に引っかかり、先だっても女に騙されて落ち込んでいる、不肖の息子の行く先が多少気にかかるだけだ。もはや幼い子供でもないし、あまり干渉をしたくないが、今は立ち位置がまずい。

 あの息子によって沙羅が救われるのならば、それは良い。好きなだけ巻き込まれ、望むのならば道連れになるのも良いだろう。しかしどうにも、むしろ沙羅の足を引っ張っているような気がしてならない。見た目だけをイキり散らしたバカ息子なのである。

「取るう?」

 右近が鼻歌のように言うと、甘蜜は微笑んだ。

「将棋と同じで、取る順番が肝要ですわね」
「でも全員で合わせて竜王だから、死角がないのよね。権力と為政、監視、おまけに千里眼でしょ。基本的にバラけないしぃ」
「千里眼は東雲さんの運転なさるお車に乗るのでしょう」
「歩を取ったところでね」

 王と飛車角が怒り猛り、そしてバカ息子が今以上の罪悪感で病むだけである。その順に取ると、リスクばかりでリターンがいっさいない。

 千里眼は、どちらかというと陣の役割である。駒を成らせる。ただし、法則性がよくわからないのだ。福来博士が不在のため、トライアンドエラーも行われない。

 右近は、女に非業の末路をもたらす男が嫌いだ。息子が福来博士と同じことを女にせぬよう、そのことを気にかけている。勝敗の行方は比較的どうでもよい。

「どうしてこうヒリヒリしないといけないのかしらね? こんなに狭い世界でさあ」
「世界のどこを見渡しても、平穏無事というエリアは極小でしょう。みな、それぞれの痛苦と戦っているのではありませんか」
「紛争地帯でなくとも自殺率が高い、嫌ぁね。この世のどこも地獄ってこと?」
「この部屋は天国だと思っておりますわ」
「お、そう? 実はアタシもそう思ってんのよ。茶を立てて水墨画描いてさ、ヘタだけど。仕事も楽しいし。アタシだけ呑気で悪いわよね」
「他の者が勝手にひりついているだけでしょう。あなただけが正解なのです。この屋敷において」
「千里眼っぽいわね」

 甘蜜は再び本を開いた。

「私は正解を透視することなどできない女ですが、そう思える方にあやかりたくて。ご迷惑でしょうか」
「そんなワケないでしょ」
「帰りに、また仕掛けてまいりますわ。地獄を望む愚かな血族のところへ」
「そうとしか思えないわよね? 悪いんだけどさ。立派なんだろうけどさあ」
「いいえ」

 あなただけが立派なのですと言って、甘蜜は顔の火傷の跡をそっとおさえた。



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