蜂の残した針 10話
――腕を回す運動です。大きい円を描くように――
縁側に立てかけたタブレットから動画を流し、それを見ながら庭で腕を回している男を、廊下を歩いていた右近は立ち止まって眺めた。
典雅である。着流しのまま、袖をまとめることもなく、ラジオ体操第一に励んでいる。
この一週間ほど、決まった時間に、けっこうな音量で流しているものだから、誰か、ジジイの気まぐれだろうとは思っていたが、やや意外なジジイであった。
別に、和装で長髪の男がラジオ体操をして悪い決まりもないが、そのために身体のさばきが悪く不格好だ。顔がやたらと美しいものだから、かえって残念な絵面になっている。
動画の再生が途中で止まり、典雅が体操をやめてタブレットの様子を見にきた。そこで右近に気が付いて、やあと照れる様子もなく言った。
「音がうるさいかな?」
「気になるほどではないと思います。Bluetoothのイヤホンなどはご存じじゃありません?」
「最初はそれを使ってやっていたんだが、無音で動いていると宗教儀式に見えると言われて」
「それは見えますね」
和装であるからなおさら見える。洋装であったとしても、庭で突然これをやっていたら、気がどうかしたのかと思うだろう。
色男は何をやっても様になりますねなど、心にもない世辞を言おうかと思ったが、なんとなくタイミングを逃した。
「壊れてしまった……」
典雅はタブレットを叩いている。
少し前までなめらかに動画を再生していたものが、それほど急に壊れるだろうか。右近は近付いて、様子を見てやることにした。確かに画面はブラックアウトし、電源ボタンからの入力を受け付けていない。
「充電切れじゃありませんか?」
「そうなのか? 長くもつと色舞が言っていたんだが、こんなものなのかな」
タッチパネルのタブレットは操作が直感的であるから、年寄りでも使っている者は多い。しかし適切な充電をしない者のことまではガジェット開発者もカバーできまい、
男は縁側に腰かけて、少し汗ばんだらしく扇子で首元を仰いでいる。ふんわりと香の匂いがした。
こんな優雅な男でもセックスはするんだよなあと、右近は唐突に野卑なことを考えた。もっとも遠そうだから、不思議に感じるのだ。大人しそうな妊婦を見たときに去来するものと同じ感慨である。
子供が三人いるのだから、さぞ強いのだろう。男のほうが好きだと公言しているが、要するにどちらでもいけるということか。性豪というふうには見えないが、わからぬものである。
くっきりとした目が右近を見た。
「なにかな」
「いーえ、やっぱりいい顔をしていらっしゃるなあと。そのくらいお顔が整っていらっしゃると、周りが全員パッとしないように見えるものですか?」
「そんなことはないが……」
首をかしげて、色男は何か考えるようにした。
「自分の顔というものは普段見えないから、あんまりどうこう考えることもないんだが、才祇を見ると美しい男だなと思う。特に他の男と並んでいると、才祇だけが目立っていい。こういうのは親馬鹿というのか、ナルシストなのかな」
「それは客観的判断というものでは。あなたや才祇さんは、実際、際立って美しいんですから」
「娘たちのことはとても可愛い、なんてぷくぷくの頬なんだと思ったりするんだが、美しいとは感じないんだよな」
それは本格的に客観的判断なのでは、という返事を右近は「ふーん」と「へー」の中間の音で濁した。
典雅の息子は、父親にそっくりの美男子である。娘たちは、美貌ではそこまでは及ばない。朝露はじゅうぶん愛らしいし、色舞はなかなか気の利いた化粧をする、やはりじゅうぶん綺麗な女であるが、父や兄と比べてしまうと分が悪い。
「やはり私は同性愛者ということなのかな」
「それはぜんぜんそういうことではないと思いますよ」
あまり深入りしたくない話題であったが、この男が息子をそんな目で見ているわけはない。それは伝えてやらなければいけない気がした。
「才祇さんは誰が見てもイケているメンズですよ? レズビアンの女でもそう思うんじゃないですか」
「そういうものかな」
「ネコがかわいいとか空が綺麗だとか思うときに、下心があるわけじゃないでしょう。そういうふうに、美しい顔がそこにあるなあという話だと思いますけどぉ」
典雅は、高位の男ではあるが、権力のルートからは外れている。この男に対して右近は接し方を測りかねているところがあった。幹部会に議席を持たぬ右近は、目上の者にタメ口をきいても、特に罰を受けるということはない。長老に対しては「おもねらねーぞ」という意志表示として、オラオラの口をきいている。次期長老にもそうだ。息子の師である克己にも、あまり気を使わぬようにしている。
豪礼や宣水、此紀や典雅になると、やや対応が難しい。悪い態度を取る理由もないが、機嫌を取るいわれもない。いい年をこいて「……ッス」などと思春期の坊主のような挨拶をしたくもなかった。
面倒くさい家の、面倒くささの象徴のようなものだ。自分ひとりならば、好かれようが嫌われようが知ったことではないが、ここで生きていかねばならない息子がいる。
その点においてシンパシーを感じるから、右近はこの美しい男のことが、さほど嫌いではなかった。政治にそれほど関心があるわけではなさそうだが、会議への出席率は高いと沙羅が言っていた。大工仕事や庭の草むしり、冬には雪下ろしをしている姿もときどき見る。子供たちの円滑な暮らしのために、義務や責任を多めに果たそうとする姿勢であると、右近は感じていた。
典雅という名や、その通りに見える顔からは、やや想像しにくい苦労をしている男だ。長く生きたとしても執政権を得ることはない。一族の財産を末子の治療費にでもつぎ込まれたらたまらんからだ、という現長老の説明を聞いて、右近はどれだけ卓袱台を投げてやりたかったことだろう。てめーのわけのわかんねえ会社につぎ込んでねえことを証明できるのかよと、でかい声で言ってやりたかった。
今の長老のやり方が、右近はたいそう嫌いであった。被差別階級の者を作ることによって、差別意識でまとまろうという、ありふれた悪辣思想を、毛虫以下の所業だと思っている。毛虫は何も悪いことをしていないから、毛虫に失礼だ。
――お前は子供を作りなさいよ。
あまり右近に多くを命じなかった、もう亡くなった師が、かつてそう言った。
――お前は上に反そうという気持ちが強い。下を守る者の苦労も、すこしわかったほうがいい。
今となっては、言いたかったことがよくわかる。わかるのだが、現長老はやはり邪智暴虐だと思う。政治がわからぬ自分が除いてよい存在ではないということも、もちろん承知してはいるのだが。
「典雅様は」
権力を得たいとは思わないのか、と聞こうとしている自分を右近は律した。別の言葉にすり替える。
「なんでラジオ体操なんかしてるんですかぁ?」
「多少は身体を動かせと色舞に叱られたから、動かしているよというアピールで音の鳴るものがいいと思って」
「これ見よがしってことですね」
「そう、私は頭が上がらないからな」
これは惚気のようなものであろう。子供に心配されながら命令されるというのは楽しいものだ。右近にはそれがよくわかる。
「お幸せですね」
「うん、そうだね。そう言われると助かるな」
「――そういうことを気になさるタイプでしたか」
「末の子ができるまでは、誰に何を言われてもふうんと思っていたけど、やっぱりどうも気弱になる。大変ですねと言われると大変な気がしてくるし、どうせならポジティブなことを言われたいものだな。色舞なんかは逆らしいが」
「逆というと?」
「大変な時に、いいですねとか言われると、こんなに大変なのにと怒る。祝いの言葉なんだから、そう悪く取らなくてもいいと思うんだが」
夫婦だったとすれば、すれ違いの多そうな父子である。右近にはどちらの気持ちもわかる。
「どれ」
美男子はタブレットを抱えて立ち上がった。
「充電してこよう。私は運動して長生きしないといけないから」
単純計算で、右近の四倍のウェイトを背負っている男は、そう言ってピースサインをしてみせた。
甘蜜がキーボードを叩く猛烈な音が、部屋に響き渡っている。
「なんか手伝うことあるぅ?」
「ええ、はい、いいえ……」
脳の、もっとも表層の部分だけで返事をしたのだろう。
浸透まで少し待つ。
指を止めて、甘蜜は右近を見た。
「なにかおっしゃいました?」
「手伝うことあるかって」
「よろしいのですか? もう少ししたらクラウドに文書ファイルを上げますので、また誤字のチェックをしていただけると助かりますわ」
「オッケー」
会話用の回線が開いたのか、甘蜜は打鍵を再開しながら言った。
「このところ、ラジオ体操の音が聞こえませんか? 何日も続いていて気味が悪いったら」
「典雅様が長生きのためにやってるらしいわよ」
「まあ、あさましい」
驚いて、右近は甘蜜の顔を見た。眼鏡のレンズには、ノートパソコンの画面が映っている。
「充分すぎるほど長生きをしているのに、まだ生きようというのかしら」
「それは、あの方は生きなくちゃいけないんじゃないの? いろいろさあ」
「お子さんのことですか? それとも先生の? あの方は甘やかすことだけをして、適切なケアというものをなさっていないんじゃありません? 色舞さんって、典型的なきょうだい児で、見ていて痛々しいのよね」
納期の近い甘蜜は攻撃的になる。それにしても、今の言葉はひどいと反論しようとして、右近はスマートフォンを取り出した。きょうだいじ。検索結果をいくつか見て、うーんと眉を寄せる。これは確かに、甘蜜の言わんとすることはわかる。
甘蜜は画面を見つめたまま喋った。
「ヤングという言葉があの年齢の方に適切かどうかはわかりませんけれど、構造として、色舞さんはヤングケアラーと同じ問題を押し付けられている方でしょう。典雅様は姉弟子さまとお子さんたちを支えて、そういうご自分に酔っていらっしゃるのかもしれませんけれど、亡くなったら色舞さんがそこに立つことになるなんて、今からわかっていることじゃありませんか」
「だから、そういうことを悩んでるんじゃないの? 酔ってるようには見えないわよ」
「詳しいことなんて存じませんわ。詳しくなくってもわかる範囲で、かなりどうなのかしらという関係性じゃありませんか。しっかり者の中間子に負担をかけて、巨乳の姉弟子をよしよしして、可愛らしい末の子をよしよしして、嫌だわ、絵だけが涙ぐましくって、何も解決していないわ」
これは機嫌がどうこうというよりも、本格的に、典雅のことを嫌っているようだ。今までそういった話を聞いたことはないが――いや、聞いたような気もする。いつもの毒舌だと思って聞き流したものの中に、こうした内容は確かにあった。
その末子にまつわることはともかく、典雅自身についての悪口は、この屋敷ではあまり聞くことがない。端正で優しい、幹部格にしては癖のない男だ。姉弟子を支え、子供たちを養い、そう考えて右近は「あー」とうなった。甘蜜はまさしく、その話をしているのだ。美しく見える刺繍の裏側のグロテスクさ、それを色舞が担っているということだろう。言っていることはまた、非常によくわかる。
「顔の美しい男ってみんな、馬鹿のふりをしているのがずるいと思いません? 苦労ヅラだけして、何も解決していないのよ。わかっているくせに、俺も苦しんでいるのだから責めるなとでもいうのかしら」
これはもはや典雅の話ではない。豪礼の息子たちのことを当てこするターンに入っていた。苛立つ甘蜜のいつもの流れだ。キーボードを叩く音が高くなる。
「右近様、“心にダメージを負って呆然としているさま”を、あまり繊細っぽくはならない言葉で、一言で表すことはできますでしょうか」
「悄然とする?」
「それですわね。ありがとうございます」
憮然とする、も本来は近い意味であったはずだが、今では誤用のほうが広まって、好まれない用法だろう。甘蜜の仕事においては、微妙なニュアンスを表現することよりも、引っかかりのないこと、誤解を招かないことが重視されるそうだ。
間違いのほうが市民権を得て、正しいものが淘汰されること。
…………。
風刺的なエピソードのひとつでも考えてみて、甘蜜の気を逸らしてやろうと思ったが、悲しいかな何も思いつかなかった。
そもそも右近は、風刺が苦手なのである。うまいことを言ってやろう、ついでに誰かを攻撃してやろうという、二重のドヤ顔を思い浮かべてしまうためかもしれない。
実際は、それによって暴かれる悪も、逆説的に示される正義もあると知っている。だが右近は、風刺というものの、避けるすべのなさが残酷だと思う。弱い者から強い者へと放たれる攻撃手段だから、射られたら黙って受けるしかない。スルー検定である。怒っただけでも、顔真っ赤だぞと言われるやつだ。なんかそれは嫌だなと思う。
結局、誰の味方をするでもない、お前はただの偽善者だと言われることがある。右近は自分がその通りのものであるとわかっていた。弱者の一矢さえもなんか嫌だなと思う、情もいい加減で、正義感も持たぬ者だ。
甘蜜は私怨もあろうが、正義感によっても怒る女だ。だからあまり口を挟むことはせず、なるべく全部を聞くようにしてやっている。
「右近様、私のことを性格の悪い女だとお思いでしょう」
「そう見えることもあるけど、意地悪で言ってるワケじゃないのもわかるから」
「意地悪で言っていることもありますわ」
きりのいいところに差し掛かったのか、休憩を挟むことにしたのか、甘蜜は眼鏡を外して、マウスを操作した。
「私、どうも顔のいい男というものを、斜めから見てしまうところがあるのですね。コンプレックスなのかしら? わかりやすくて嫌ですわね」
「あんたは言うほど顔にコンプレックスを持ってないでしょ。持ってるふりしてるけど」
「ふふふ、私、右近様のそういうところが好きなんですの。そう言っていただけると、そういう気分になりますからね。言霊や予祝、善なる呪いというものでしょう」
「うーん……」
右近が返事を濁したのは、内容に異論があったためではない。
あんたの嫌う男は、あんたと同じことを言う普通の男なのよと、それを言おうかどうか迷ったのだった。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。