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蜂の残した針 29話


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 オートバックスでウォッシャー液を見比べていた右近は、視界の端に男女の姿をキャッチした。おやと思う。注視した。向こうはこちらに気付かず、遠くへ歩いていく。

 小走りで従者を探して、アロハシャツの裾を引っ張った。

「どのウォッシャー液を買うか決まりましたか」
「一番デカいヤツにしよっかな。それより、噂のカップルいるんだけど」
「ああ」

 気付いていたらしい。そのリアクションの淡白さに、右近は肩透かしを食った気分になる。

「別にゴシップだと思ったワケじゃないのよ? ただ、いたよっていうさあ」
「ええ」

 こりゃ駄目だ。右近は見切りをつけて、従者の娘を探した。退屈そうに消臭剤の棚を歩いているのを見つける。

「花苑~っ、色舞さんと西帝がデートしてる! 手繋いでた!」
「へえ」
「この話題もう古いの?」
「なんでオートバックスでデートしてんのとは思うけど、その二人が歩いてても別に、ふーんって感じ。兄のほうと歩いてるんなら面白いけど」
「なるほど」

 明快な娘である。そう言われると、どうでもいいことだという気になってきた。

「買い物付き合わせてゴメンね。帰りにケーキでも食べてこ」
「やった」

 小さくジャンプをしている。両手もピヨッとさせていて、ケーキを食べさせがいがある。腕を組んできた。もう右近よりも背が高いのに、行動は子供の頃とあまり変わらない。

「でもお父さんが変な服着てるからさー、ケーキ屋さん行くのも恥ずかしいよね」
「じゃあ買って帰ろっか」
「何個? 二個いい?」

 花苑には父子家庭の一人娘の才能がある。成人した娘が腕を組んでくれて、甘えた声でこんなことを聞くのだから、ケーキなど何個でも買ってやると誰でも言うだろう。

 この娘を持つわりにはドライな父親が、大きなウォッシャー液を抱えて歩いてきた。

「花苑、あんまり迷惑をかけるんじゃない。図々しいことも言わない。お父さんの服についての文句ももっと小さい声で言う」
「ヤダーッ、こっそり聞いててキモい。そんなデカい洗剤持ってるのもキモい」
「お前の文句はいつも半分くらい理不尽なんだよな。右近様、会計してまいります。他に何かご入り用でしょうか」
「ううん、大丈夫。紺の財布から出しといてね」

 ビーチサンダルをぺたぺたと言わせながら、梓土はレジへと向かった。

「右近様的には、あの服どうなの?」
「別にいんじゃない。でも、スネ毛はあれでいいの? 今のそういうルールわかんないけど」
「過渡期だから、剃るのは様子見してるって言ってた」
「そこまで完全に自覚して出してんのはちょっとキモい気がするわね。でもそれより、トランクスでハーフパンツの男って、実質的には半分くらい露出してない? 直接風が当たってるワケじゃん。ほら、下から見たらさあ」

 花苑はちょっとどうかと思うほど爆笑した。

「右近様超ウケる」
「東雲が言ってたんだけど、スポーツジムのプールってトランクス禁止なんだって。なんでだろうとか言ってたけど、なんでも何もないじゃんね。それで前を泳がれたらさあ」

 花苑は組んでいた腕を離してその場にしゃがみ込んだ。腹を抱えて笑っている。

「あんたゲラよね」
「ダメもう、ハーパンの男見るたびに思っちゃうじゃん。でもそれ言ったら、スカートの女だって下から見たらパンツ丸出しだよね」
「そうなのよ。だからアタシ、サポーターないとスカート履けないの」
「えーっ、可愛いのに」

 時々少し会話が噛み合わないのも、花苑の良さである。こうして上から見ると、水色のニットのうなじの部分が少しほつれていた。

「花苑、おこづかいだいじょぶ?」
「だいじょばないけど、もう大人だしぃ。あのね……」

 内緒話のポーズで呼ばれたので、右近も屈んだ。さてはこづかいをねだってくるのだな、フフ、と思っていた右近は内緒話の内容で度肝を抜かれた。

「土日にバイトしてるの。街のスーパーの品出し」
「すごいじゃん!!!!!」

 ここ五年で最大の声量が出てしまった。

「しー! 誰にも言ってないんだから。刹那様の許可も取ってないし、ヒミツにして」
「なんで? 普通に許可取れば? そんなもん、刹那様だって褒めてくれるでしょ」
「書類書いたりするのが面倒くさいもん。どのくらい続けられるかもわかんないしさ。思ってたより大変じゃないけど、他のバイトの女の子と話すのとかは疲れるかも」

 そういえば花苑は、愛人を作るタイプではない。しかしまさか、それほど堅実な方法で金を稼ぐ娘だとも思っていなかった。

 右近は感激して、小さく頭突きをした。

「すごい! えらい」
「えへへ」
「誰にも言ってないっていっても、お父さんは知ってるんでしょ」
「ううん、言ってない……お父さんそういうのバカにするじゃん」
「いや、喜ぶと思うけど、まあ、うーん」

 言われてみると、自分の娘が時給いくらかで働いていることに文句を言いそうな男ではある。

「じゃあ、内緒にしとく。教えてくれてありがとね」
「やだー、これで来週辞めてたら恥ずかしい。言わなきゃよかった」

 顔を赤くして目をぎゅっとつぶっている。その姿に、右近は薄い胸がいっぱいになった。

「ケーキ三個買ってあげる! 三個は食べられないか」
「食べる! 食べきれなかったら冷凍するし」
「ケーキって冷凍できるの?」
「できそうなやつ選ぶ」

 いつまでも子供だと思っていたが、すっかり賢い娘になっている。十五の子供が二十五の女になるのは、八十の息子が九十になったのとはわけが違うらしい。いや、そもそも花苑の正確な年齢を知らない。

「大人になったのねえ」
「全然だよ。高校生の子のほうがちゃんとしてるもん」
「里の子と比べたってしょうがないでしょ。みんなちがってみんな、うーん」

 この場合、その詩は少し違うなと思ってキャンセルしてしまった。どれだけ羽がしっかりしているかのランキングの話なのだ。鈴の音は関係がない。

 花苑は「みんないいって言ってよ! ウソでも!」と言って笑った。




 合皮のソファに半裸で横たわって、此紀はペットボトルの炭酸水を少しずつ飲んでいる。

「グラスをお持ちしましょうか」
「いらない……」

 何かこだわりがあるらしい。桐生は窓際のチェアに座ったまま、タブレットでニュース記事を読むふりを続ける。

 今日の此紀は酒を飲んでいないし、ヒステリーも起こしていない。気だるそうなのは昨夜の睡眠薬が残っているためか。

 素面しらふでいるのがつらいからといって、睡眠薬を飲むようになったのは、果たして事態が好転しているのだろうか。桐生はそう疑問に感じはするが、少なくとも、交通事故を起こす率は下がった。肝臓の負担も減ったはずだ。

「寒い……」

 下着姿で冷たいものを飲んでいれば、そうだろう。しかし桐生は黙ってブランケットを掛けてやる。

 内側がボロボロであっても、この師は美しい。肌はきめ細かく、髪に艶があり、ボディラインも完璧だ。白目が充血し、唇が乾燥し、爪にときどきヒビが入るという程度の、少女小説のような不調に留まっている。美的強者なのだ。外見の劣化がきわめて遅いタイプなのだろう。

 桐生は、芋虫が嫌われ、蝶が好かれる理由を考えることがある。害や益をすべて押しのけて、そこには美しさの差だけがある。蝶はそらを舞うことの優位は承知しているはずだ。しかし、その華やかさを自覚しているのだろうか。

 この師が男であれば、すでに寿命を迎えていたような気がする。典雅は寄り添わなかったであろうし、自分もそうだろう。色舞も見限ったはずだ。女が昼から横になっているのは許せても、男にそうされた日には、桐生などは言葉と手で辛辣に叩いてしまう気がする。男の怠惰を許せぬ性質なのだ。見苦しいからである。

「寂しいのよ」

 桐生はまた黙って、床に座って師の頭を撫でる。それ以上のことは日が出ている間にはしない。暗い世界からこの女を引き上げるために、別の暗さを選んでは、意味がないからだ。腰のあたりまで自分も浸かってから気が付いた。

 正解の形を、桐生ははっきりと思い描いているわけではない。ただ、そこは明るい世界だろうと思う。今は暗い。それでも、少し前よりはましになったはずだ。

「どうして誰もそばにいてくれないの」
「あなたがノーカウントにするからでしょう」
「あんただって、ずっとここにはいやしないわ。私に疲れて、嫌になるんだから」

 否定を求めて発された言葉ではない。桐生がどれほど言葉を尽くして否定しても、この女の内部には届かないのだ。

 自分の身体を掻きむしっているのと同じだ。桐生を同時に傷つけていることは、この女ならばわかっているはずだが、それよりも爪を立てたいという衝動が勝るらしい。傷から血が滲んで、痒くて痒くて仕方がないようだ。

「典雅だって、もう私の側にはいないんだもの」

 記憶というよりも、認識の改ざんが行われている。桐生はこうした理不尽の仕組みを、少しずつ理解してきた。

 この女が怖れるのは、精神世界の乾燥であるような気がする。だから酒で、涙で、血で潤わせずにはいられないのだろう。すべてはそのために、飢えや痒みが発生する。乾いてしまうと、真実が立ち現れてしまうからだ。心の空洞と、それを埋めるものはもう無いということが。

「いま何時……? 薬を飲みたいわ」
「まだ一時です。せめて夕方まで、もう少し辛抱なさってください。焼きそばでも作りましょうか」
「なんで焼きそばなの」
「スーパーで安売りしていたので買ってみたのですが」
「しょっぱいものなんか食べても、酒を飲みたくなるだけじゃない」
「では、チョコレートケーキを焼きます」

 掻きむしりたいモードの時に、あまり長く会話に付き合ってはいけない。桐生はさっさと立ち上がり、間続きのダイニングへ移動した。リビングのソファを監視できる場所であるから、桐生がここに立っている時間は長い。

 此紀は甘いものを好まないが、砂糖を控えてしっとりさせたチョコレートケーキならば、何切れか食う。なんとなくアルコールっぽさを感じるためかもしれない。菓子で摂らせるのももちろん良くはないから、実際はノンアルコールの香料を使う。

 粉を振るっていると、桐生は自分の心が安らぐのがわかる。きっちりとしたことや、それを成す自分のことが好きな性分なのだ。製菓はかなり合っているらしい。自分の優秀さが、数時間で形となるのは、学問と近い満足感がある。

 心や悩みなど、しょせんは脳の信号で作られるものだ。刃物や火を使っていると、重点がこちらに切り替わる。綱渡りをしながら恋人の浮気を憂うことはできまい。天ぷらを揚げながら、天ぷら以外のことを考えている者は火傷をする。

 此紀がひと切れでも多く口に運びたくなるような、美味いケーキを焼こう。桐生はそのことだけ考えて、小麦粉とココアを混ぜ合わせる。いつの間にか、鼻歌を歌っていた。



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