蜂の残した針 24話
べたべたと纏わりついてくる手を白威が叩き落とすと、斎観は被害者ヅラをした。
「優しくしてくれよ」
「同情の余地がない。振られたような風を装うのは図々しいし、俺にセクハラを働くな」
「寂しいんだもん」
「俺は神無様のものであって、お前がいつでも抱ける女じゃない」
「抱こうとまでは思ってねえよ。許されてえんだ、パーソナルスペースに侵入することを」
いかにも、女から拒絶されて傷ついたばかりの男の欲求である。若干は哀れに思った。親切にしてやることにする。
「肩でも揉んでやろうか」
「キスしていい?」
「死ね、いや、言い過ぎた。半月くらい寝込め」
「お前じゃないと駄目なんだ……」
一般的な女では、この男の体格を受け止められないというだけのことを、ずいぶん良いように言うものだ。風俗店でも拒否されることがあるらしい。
普段通りに男姿の白威は、兄弟子の背中に弱めのパンチを一発入れてから、スマートフォンでレシピサイトを眺める余暇に戻った。新聞紙で型を折ってカステラを焼くレシピがある。衛生的にどうなのだろうか? 高温で減菌されるから平気なのだろうか。
白威と父が使っている六畳間に、用もないのに来た斎観は、畳に寝そべって部屋をさらに狭くした。だだをこねている。
「愛してくれ、俺のことを」
「三股だかかけていたうちの一人に振られただけで、よくそんなに弱れるな。蘭香さんにでも慰めてもらえばいいだろう」
「今、らんこちゃんからも査定を下げられてんだよ。捨てられるような男だと思われてる」
事実か被害妄想かわからないが、とにかく兄弟子はそう思っているらしい。
三股をかけると、捨てられるリスクが三倍になるのだなと、白威は学びを得た。噂を流される機会も三倍になる。
ふと気が付いた。この情けない姿は、ひょっとして、他にも要因があるのではないか。
「まさか、その年で、その図体で、赤ちゃん返りか? 皇ギ様が赤ん坊を見ているから、寂しいのか」
「なんてことを言うんだ……」
呆然とした顔で見上げてきた。
「俺を何だと思ってるんだ。それがお前の本音なのか。俺を、俺をそんな男だと」
「いちいち深刻に被害者ヅラをするな。そのくらい情けなく見えるから、うじうじするのをやめろと言ってるんだ」
「今めっちゃ傷ついたぞ。これはオッパイ揉ませてもらうしかねえな」
「在庫を切らしてる」
「補充してくれ。赤ちゃんだから吸わせてくれ」
何かの終わりを感じる会話をしていると、障子が開いて、終わっていた兄弟子がすっと起き上がって正座をした。
部屋に入ってきた父は、箪笥からカーディガンを一枚取り出すと、「どうぞごゆっくり」と斎観に言ってまた出て行った。
兄弟子は正座のまま、一瞬でかいたらしい冷や汗を拭った。
「落ち着かねえ部屋だな……」
「お前は一人部屋になったんだったな。羨ましい」
「一人だと夜が寒いんだ。添い寝してくれ」
「男がモテなくなるスパイラルがよくわかった。妖怪寂しいおじさんになると、女がどんどん離れていくんだな。肩で風を切っていた男ほど凋落する」
凋落した兄弟子はまた畳に寝そべった。
「マジな話、らんこちゃんと色舞ちゃんに股がけしたおじさんとしてみんなに知られてるから、女は誰も相手してくんねえんだよ」
「こんなに同情しがいのない話も珍しいな」
「いや、こっちにも言い分があんだ。神無様に乗馬鞭打たれて喜んでるおじさんなのもみんなに知られてるから、あの子たちしか相手にしてくんなかったんだわ、もともと」
「同情する。色舞さんと蘭香さんに」
そんなおじさんを相手にしてやったのに、師との二股どころか、近いところから三股をかけられていたのだから、蘭香が離れていくのも時間の問題であろう。
掘りの深い顔立ちの斎観は、哲学者のように白威を見上げた。
「自業自得の軽薄男には、寂しがる権利もねえのか?」
「その権利は好きなだけ行使したらいいが」
「西帝も冷たいしさあ」
そうして数えてみれば、なるほど、この男は短期間に多くを無くしたのだとは思う。息子が部屋からいなくなり、若い女からは切られて、そのことで弟とも気まずいらしい。姉も赤ん坊の世話で忙しく、まあそのことは別にしても。
「神無様に乗馬鞭を打っていただけばどうだ? 伝えておいてやろうか」
「お前のほうが好きだろ。譲るわ」
昔はこれほど嫌味に嫌味を返してくる男ではなかったが、そこは白威のせいだろう。
カステラのレシピを閉じて、スマートフォンを畳の上に置いた。
女の腐ったような大男を膝で跨ぐ。顔はよくできていると、見下ろしながら思った。芸能人ならばファンになっていたかもしれない。何十年も同門だが、顔をまっすぐ見る機会はあまり無いのだ。
「顔は同じなのに、豪礼様ほど色気がないな」
「よく言われる」
「目の力が違うのかな。お前のほうが話は通じる顔つきだが」
「確かに、あのオッサンは話の通じねえ顔してるよな。いいこと言うなあ」
白威が顔を近付けると、斎観は軽く息を止めた。
「何を緊張してる? お前がしたいと言ったんだ」
「お前の親父が来るだろ」
「あの上着は外出用だから、しばらく帰らない。それにどうせ、ごゆっくりと言うだけだ」
神無の従者がきつい性行為を要求されるのは、この屋敷の誰もが知ることである。まともな父親は師事にいい顔をしない。だから白威はずっと、この兄弟子とだけ師を分かち合ってきた。
男の髭でざらつく頬をそっと撫でながら、ささやく。
「俺が女でないと嫌か? 今さら」
「そんなのはいいが、急にどうしたのよ。さっきまで鬱陶しそうにしてたろ」
「今でも鬱陶しいが、お前の情けない顔を見ていると興奮する。このまま抱いてやろうか?」
「怖っ。そんなSっ気あったっけ」
そう言いながらも腰に手を回してくるのは、手癖というものだろう。
「神無様の爪、赤に塗ったんだな。最初、怪我でもしたのかと思ってビビッた」
「化粧のことまで申し送りしないといけないのか?」
「いや、いいんだけどよ、今までピンクとかだったろ。急に赤い色が目に入ってギクッとしたってだけ…………まだ?」
「焦るな。モテないぞ」
「モテてえなあ」
この兄弟子は火薬のような体臭を持つ。強い生き物の匂いだ。白威は結局のところ、これが苦手なのかもしれない。神無はアイスクリームの匂いがして、それがたまらなく愛おしい。
「お前は臭い」
「ひどすぎる……立ち直れねえ」
「お前はどうしようもないマゾヒストだし、変態のサディストだし、シスコンでブラコンの、気色悪い男だ」
「俺が泣いちゃったら責任取ってくれんの?」
「取ってやろうか?」
この男の傷ついた顔を見ることでしか満たされない、心の渇きがある。
男を見下ろしながら、白威は自分が笑っていることに気がついた。
ここ数日、色舞の表情が明るい気がする。
ははーんと、蘭香は思っていた。さては、いよいよ新しい男とデキたのね。
男をトレンドと捉えるならば、蘭香は型落ちの服を着ていることになる。ちょっとおもしろくない。そのことをさっそく姉弟子にイジられた。
「あんたいつまでしがみつくの、お嬢さんが捨てたような男に」
「本当ねえ、競っている間は素敵な服のような気がしたのですけれど、もう古着ですわね。もともと神無様の手垢でベトベトだったことですし」
二人で洗濯物を畳んでいると、師の一家の分もすぐに終わる。しかしストーブで暖まった師の部屋の、柔軟剤の香りの中で、蘭香も姉弟子もまだ立ち上がりたくはない。廊下の床板は氷のように冷たいのだ。
「あなたはどうなんですの、意外と男関係の話を聞きませんけれど。モテないのですか」
「別に。典雅様にモテたらいいから」
「昔からそう言いますけれど、その典雅様にモテていないじゃありませんの」
遥候は近くにあった色舞のブラジャーを投げつけてきた。
「やめてください。あなたとお嬢様の貧乳がうつります」
「お嬢さんと一緒にしないでよ。あたしはスレンダーなんだから、特別小さいわけじゃないし。あんたは鳩胸なだけでしょ、二の腕もたくましいもん」
エアで胸ぐらのつかみ合いをした。若い頃は実際にやっていたが、服が伸びると気付いたのだ。
「キツネ目!」
「タヌキ顔のくせにツリ目」
ブスという言葉は、才祇から禁止令が下りた。女が男を取り合って、汚い言葉を使うのは、聞くに堪えないのだそうだ。見苦しいぞ、お前たち、いつまでも若い娘じゃあるまいし。
──じゃあ才祇様が抱いてくださるんですか?
何が「じゃあ」なのかわからぬ遥候の挑戦に、才祇は胸を反らせて驚いていた。それからは小言を言われることが減った気がする。
もしかして、童貞なのだろうか。美しい師によく似た息子に対して、蘭香はその疑いを抱いている。父親と違って同性愛者ではないらしいが、異性愛者のような気もしない。性欲がなさそうに見える。
色舞のブラジャーの形を整えながら、蘭香はなんとなく言った。
「典雅様に何かあったら、お子様たちのことはどういたします?」
「どうって何。そこまで面倒見る義務ないでしょ、あたしたちに」
「ないからこそ、才祇様に恩を着せられるじゃありませんか。ああ見えて恩知らずではありませんから、身体くらいは差し出すかもしれませんわよ」
「あんた因業ジジイなの? ヤバすぎ」
「典雅様を愛する乙女ですわよ。だいたい同じ男が手に入ったらラッキーじゃありませんの」
遥候は軽蔑のまなざしで蘭香を見た。
「仮にそんなゲスいことを思っても、あたしは口には出さない」
「引き寄せの法則ですわ」
「口の軽いバカが名誉を下げる法則でしょ」
「あら? なあに、本当にご機嫌斜めでいらっしゃるの?」
いつもぶっきらぼうな女だが、今日は妙に突っかかってくるような気がしたのだ。
遥候は「別に」と言ってそっぽを向いた。
蘭香は少し考えた。思いつく。
「ひょっとしてあなた、才祇様のこと──」
「うるさい」
「あら、まあ、水くさいこと。そんなの冷やかしたりしませんわよ。言ってくれたらわたくしだって、気くらい利かせますわ。じゃあ、才祇様の洗濯物はあなたがお部屋に届けてくださいね」
「マジでウザい、そういうの」
もしかして、すでに寝たのだろうか? 童貞かもしれないなどと考えたことを恥じる。わたくしったら、鈍いったらないわ。
蘭香は畳んだ洗濯物をそのままに、こたつに移動して、菓子鉢のせんべいを食べた。ザラメのまぶされたもので、甘じょっぱくておいしい。
「なんで急にくつろいでんの」
「ゴシップを楽しむ時は米菓子を食べるものですわ。そんなに前からではないでしょう? いつからなのですか。典雅様よりも良いのですか?」
「そういうのじゃない」
「味が濃くて喉が渇きますわね。お茶を淹れてくださいな」
遥候は黙ってこちらに来ると、卓上の急須で、湯飲みに出がらしの茶を注いだ。湯飲みは師の使いかけだが、気にせず蘭香は冷えた茶を飲んだ。
「本当の愛とか偽物の愛とか、あなたも考えたりいたします? 師が供給してくれたらラクなのに、女を愛さない師を選んでしまうと、いつも気持ちがセックスレスですわよね」
「それは思う」
姉弟子もこたつに入ってきた。せんべいも食っている。
「本当の愛までは、あたしたちも求めてないじゃん、別に。それっぽいフリしてくれるだけでいいのに」
「そうそう、本当に。どうして男って、その程度のウソもつけないのかしら? 愛していない女に愛していると言うと、何か減るとでも思っているのかしら。だとすれば貯蓄量が少なすぎますわよ」
「始まらないから、終わらないとは言えると思うけど」
「永遠の愛を求めているのですか? どんな愛だって終わりますわよ。その最中、燃え上がれたら本懐というものじゃありませんか。桐生さんの始め方は、女の夢見る始め方でしょう。どうせすぐ消し滓になるとしたって、あの熱い目で愛をささやかれたいわ」
「勝てるワケないよね、あれには」
愛もささやかない老いた男が、若い騎士に勝てるはずはないのだ。同じくらい美しいのであれば、優しいだけの男より、激しく奪ってくれる男を選ぶに決まっている。
色舞は、永遠の愛を勝ち得ている者だ。しかし満たされないらしい。愛は愛、寂しさは寂しさ、肉欲は肉欲だ。一緒くたにすると迷走する。
蘭香は二枚目のせんべいを食べながら、つぶやいた。
「いいわね。わたくしも激しいセックスをしたいわ」
「してないって。それに、あんたにはいるでしょ、お嬢さんのお古が」
「このところ弱いんですのよ。心配事でもあるのじゃないかしら? だからお嬢様も見限ったのね、きっと。うじうじしてセックスのパフォーマンスが下がる男なんて、価値がありませんもの」
遥候は少しあごを引いて、蘭香を睨むようにした。
「冷たい女。心配事がありそうだからって、男捨てんの」
そういう時こそ支えてやれ、とでも言うのだろうか。蘭香は呆れる。
「ご存じでしょ? 神無様にべったりの変態男なのよ。わたしくが優しくする意味なんかないじゃありませんか」
「そういうとこから生まれるんじゃないの、本当の愛って」
「ひとつしかないものは、早い者勝ちでしょう。本当の愛はもう神無様に取られているのですから、わたくしの分は搾り滓ですわよ」
「あんたのこと好きになれない」
「なんですか、今さら。好きになられても困りますわ」
遥候は「まあ、そうか」と言いながら、せんべいを食った。
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