蜂の残した針 18話
和泉の車は、師から譲り受けた古い国産のセダンで、シートが少し傷んでいる。
和泉は気にしたことがないが、後部座席に座る万羽は文句を言っている。
「張り替えたらいいじゃない。貧乏くさいわ」
「実際に貧乏なので」
安売りのティッシュや洗剤など、貧乏くさいものを買ってきた帰りである。万羽は宝飾店の小さな紙袋を膝に乗せている。同じモールで買い物をしても、差が出るものだ。
万羽の小型のベンツは、さぞシートの質もよいのだろう。しかし車の運転はあまり好きではないらしい。出かけたい、けど面倒くさいと和泉の師に絡んでいたから、声をかけた。
父の従者である万羽に、和泉は親切にしなければいけないと思っている。父があまりにも不義理を働いているからだ。昔から妙に冷たく接し、最近ではとうとう放置に至る。裁判ならば負けて慰謝料を払うことになるであろう。
しかし万羽は、裁くつもりはないらしい。離縁も望まぬようだ。
惚れているのだろうと和泉は思っている。だから憐れで、だがそう感じることも後ろめたい。
「あ、カルディ行くの忘れちゃった。いろいろ弥風から頼まれてたのにぃ」
「戻りますか?」
山道をだいぶ戻ってきてしまったが、別に今日は予定もない。
万羽は「わざわざいいわよ」と言って窓の外を見た。フロントミラーに映るその横顔が、やけに老けて見える。口紅の色があまり合っていないようだ。
往路もそうであったが、話すことがない。和泉は車内に音楽などを流すのが嫌なので、ステレオの使い方をよく知らなかった。
師ならばスマートフォンを見るが、万羽は通知音が鳴らなければ出さないタイプであるらしい。ずっと外を眺めている。
「アクセサリーを買われたんですか」
「うん。沙羅が結婚するでしょう。小さなものだけど、お祝いに」
和泉が持たぬ、繊細な感性だ。年寄りから財産を相続するための結婚と聞いている。景気のいい話ではあるが、祝うようなものだとは思っていなかった。
「沙羅はまだ若いじゃない。今は楽しみにしてるみたいだけど、だんだん嫌になってくると思うのね。好きじゃない男と式なんて、面倒くさいし」
経験談なのだろうか? 幹部会に申告をせずに籍を入れる者はいるらしい。結婚すれば結婚詐欺では起訴されないためだろう。
「ちょっとでも楽しい気分になったらいいと思って、かわいいブレスウォッチを買ったの。沙羅はあんまり派手な格好をしないけど、あたしが贈ったら、文句を言う者もいないでしょう」
「──そうでなければ、誰かが文句を?」
「父親がいないって、そういうことだから」
わかるとも、わからないとも言いにくくて、和泉は返事をしなかった。
これは経験談ではないことがあきらかだ。万羽の父は存命で、最高権力者であり、金も持っている。万羽はいつも、非常に高価だとわかるものを身に着けていて、ゴージャスの極みだ。何か言われたとしても気にするまい。
「あんたはいつもおしゃれよね」
「そうでしょうか。ありがとうございます」
「そのサングラスも、サンダルもシャネルでしょ。好きなの?」
「そうですね……」
あいまいに答えた。
このブランドが好きなのは、和泉ではなく父だ。サングラスはよく覚えていないが、サンダルは、自分が女だったらこれを履きたいと言っていた。だから買ったのだと。
何かにつけて気障なのだ。歯の浮くような台詞で和泉を褒め、あれが似合う、これが似合うと勝手なことを言う。色目で見られているなどと感じたことはないが、実の娘というよりも、着せ替え人形に近いものだと思っているのではないか。
「男にもらったのね」
万羽は華奢なミュールを履いた足を組み替えた。
「あんたは男を好きになったりするの?」
「師の──刹那様のことは好きです。それ以外の男のことはあまり考えたことがありません。妬きますし」
「ジジイじゃん」
「ええ、恥ずかしいほどジジイですが」
「恥ずかしくはないけどさ。まだエッチできるの? あの年で」
「それはあまりしませんね。ジジイだからというよりも、若い頃から淡白なんです」
「価値ないじゃん」
辛辣である。
「確かに、もう少し頑張ってくれたらいいのにとは思います。寂しいし、自信もなくなるし……」
「うふふ、シャネルのサングラスかけてる女の言うことじゃないわね。でも、そうなのよね。男ってなんにもわかってないのよ。心なんかどうせ裏が取れないんだから、身体だけでも繋げたらいいのに、それもしないなんて馬鹿みたい」
「それも虚しくはありませんか。身体だけ合わせても、私たちの求めるものは得られない気がします」
「でも、心なんてどこにも行けないんだから、身体を縛っておけばそこにあるわけじゃない」
縛る側の理論が飛び出してきた。
和泉はかつて聞いた言葉をうっすらと思い出す。
「心は常に自由だと、父は言っていました。穴蔵に閉じ込められても、心は空を羽ばたくものだそうです」
「ダンサー・イン・ザ・ダークじゃん。羽ばたいてる空想で自分を慰めてるだけでしょ」
「身体はどこにでも行けるのに、心はどこにも行けないこともあるでしょう。だから、必ずしも相関ではないとは思います。羽ばたけるかどうかは才能なのではありませんか。速く走れるかどうかと同じで」
「理屈っぽいとこ、似てるわね」
その括り方は雑だと思ったが、言い返さなかった。
万羽は退屈そうに言った。
「聞いた? 此紀のことぉ」
「通院するために街に住まわれるという話ですか」
「っていうか、そのためのお金をどうするかってこと」
「いえ、存じません。先生の自費かと思っていましたが、違うんですか」
「豪礼が出すんだって。ばっかじゃないの、そんなにお金持ってるわけでもないのに。無職じゃん」
「あちらは皇ギさんの投資でけっこう潤っていると思いますが」
「娘のヒモじゃん! その分際で、金なら出すとか言っちゃうのが嫌! あいつのカッコつけ方、キモいのよ! 若い頃は冠かぶってたくせに、偉そうにしてんじゃないわよ!」
王冠をかぶっていたのだとすれば、ずっと偉そうで一貫しているのではないか? 今はマントを羽織っているし、次は宝石のついた杖を持ちそうだ。
怒れる女に矛盾──していないこと──を指摘しても仕方あるまいし、また和泉は返事をせずにやり過ごした。
きっと、旧友が離れてしまうことが寂しいのだろう。身体のありかを心のありかだと思っているタイプであるようだし、それにどちらも高齢だ。此紀の容態からしても、今生の別れになる可能性はある。
そう遠くへ越すわけでもあるまいし、会いに行けばいいと思うのだが、もっと精神的な話なのだろう。通院のために住居を移した者の前例はないらしい。和泉の父のような、何の理由もなく外に暮らす者はときどきいる。
「沙羅さんも住まいを変わられるんでしょうか」
「それはしないんだって。当たり前よね。あたしだって男に一緒に暮らそうって誘われたこと何度もあるけど、そんなのできないじゃない。生活習慣が全部違うし、ムリに決まってるのよ」
ムリではないことを証明するのが和泉の父であるが、これも言わない。実際、これは万羽のほうが正しい。山の外の法も習慣も、自分たちに寛容なものではない。父は特別にうまくやる才能があるのだ。
「あたしが長老になったら、誰も外に行かせないわ。出かけるのも許可制にして、破ったら鞭を打つんだから」
かなり危険なことを言っている。血が濃いらしい。
愛を束縛で表現してしまうと、高い確率で破綻を迎える。
しかしやはり、そんなことを言っても仕方がないから、和泉は黙ってアクセルを踏み続けた。
神無を風呂に入れるのも、着替えをさせるのも、髪を切るのも、斎観が行っている。
小柄な女であっても、体重は男のそれと変わらぬからだ。
しかし考えてみれば、散髪に身体の重さは関係ない。神無にチョコレート菓子を食べさせながら、白威は唐突にそのことに気が付いた。
力の要ることはともかく、そのほかの世話については、もっと均等に担当すべきなのではないか。いつまでも自分を若造扱いする兄弟子に対し、白威は不満を通り越して、不快を感じている。
「もう少し髪が長くてもお似合いかもしれませんね。お化粧もいかがですか」
何も塗らずとも長いまつ毛を重たげに伏せて、師は関心のなさを示した。
もともと完成している顔だが、少し陰と色をつければ、絶世というものになるのではないか。惜しいことだと思う。顔に何かがつく感触が嫌なようで、冬にリップクリームを塗ることも拒否される。
菓子を食い終え、茶を飲み、師は畳にごろりと寝転がった。
「いけません、歯を磨きましょう。お昼寝なら布団も敷きます」
師は無視して目を閉じている。こうなると起きないのだ。
まあ、これまで虫歯になったことがないのだから、大丈夫なのだろう。白威は諦めて布団を敷いた。師を転がすようにして布団に着地させる。
兄弟子ならば、このわずかな距離でも抱き上げて運ぶが、白威にその腕力はない。見られたら文句を言われるだろう。
「内密にお願いいたします」
夏用のタオルケットを掛けながら、耳元でささやくために隣に寝そべった。
師は薄目を開けた。微笑んだように見える。
「斎観は口うるさいので、床を転がしたことも、昼から寝かせたことも文句を言うでしょう。夜に眠れなくなったら、歌を歌いにまいります。あなたが昔、聞かせてくださった歌を」
歌詞や音程が正しいかどうかは、もうわからない。兄弟子も聞いたかもしれないが、どちらも記憶だ。参考資料としては弱い。
なぜか九州の言葉で歌われていて、だから自分の記憶も怪しいのだ。歌詞の内容はまったくわからない。
意外なほど伸びやかに歌った師の、その声だけをよく覚えている。
「チョコレートはもう召し上がりませんか? お好きな味でしょう。口どけがよくて、夏の間は販売休止になるので、六月のうちに買っておきました」
今は過ごしやすい陽気だが、もう少しすれば扇風機くらいは必要になる。納屋に何台もあるが、早めにきれいな機体を確保したほうがいいだろう。
「赤ん坊は冬に産まれるそうです。楽しみですね」
「早く見たいな」
「はい、お祝いも考えておきましょう。おくるみは何枚あっても困らないそうなので、縫ってみるつもりです」
師は微妙な顔をした。
「はい、手作りのものは迷惑だと思われることもありそうですが──量産品は親が買うものでしょうし、気の利いたものを探すと、それは知らぬ誰かの手作りなのです。もともと、気持ちのものですから、あっても困らないものを作ろうかと」
「母性を持て余した女のしそうなことだ」
二票入ったということなのか、どちらかが引用元で、もう片方はパクリなのか。
白威は持ち前の母性で、神無の髪をそっと梳いた。顔が濡れることを嫌がるから、週に一度ほどしかシャンプーできないが、さらさらのきれいな髪である。あまり脂を出さない体質なのだろう。
湯に浸かることもシャワーを浴びることも嫌がる。だからたまの洗髪の時のほかは、湯で湿らせた手拭いで、斎観が身体を拭いている。
手洗いは自分で行こうとする。あまり失敗することもないから、ついて行くことはしないようにしていた。
小康状態というものなのだろう。いつか、そうでなくなる日のことを思うと切ない。立つことも歩くこともできて、たまには会話もできる。この最後の黄昏時が、せめて少しでも長く続いてほしいと毎日願っている。
この女を失うということは、母を、妻を、夫を、子を、すべて無くすことに等しい。白威の世界のすべてだった。
殉死しようと思って溜めていた睡眠薬を、同室の父に見つかり、兄弟子に告げ口されたため、ものすごく長い説教を受けた。誰が望むんだそんなことを、もっと他にも目を向けて生きろ、俺がなんとかしてやるから。
なんとかとは、なんだ。白威は師の髪を撫でながら、この代わりになるものなど無いと思う。一条の光が絶えれば、世界は暗いだけだ。
小さな冷たい手が、白威の手首をつかんだ。
「色が」
「はい、マニキュアです。おまじないだそうです。神無様には赤い色などお似合いでしょう。お塗りしますか」
「うん」
どうせいつものように、嫌、要らぬと拒否されるか、無視されるものと思っていたので、白威は驚いて上体を起こした。
「そうですか。では、すぐに──私は塗料をあまり持っておりませんので、どなたかから借りてまいります。お待ちください」
師は何も言わなかったが、無視ではなく、了承の瞑目であろう。
薄暗い世界に、わずかな光がさす。早くもおまじないの成果であろうかと、白威は自分のベージュに塗った爪を見た。
サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。